言葉より抱擁が事実を物語るようです
冷たすぎる朝の空気を吸いながら、私は目の前に連なる離宮護衛隊の宿舎の屋根を見下ろしていた。決して小規模なものではないが、王宮のそれと比べると見劣りするのは明らかだろう。
「私だったら離宮なんかに来ないわ……」
もし、それが一人だけ望まれた婚約者なら話は別だが、何人もいる婚約者のうちの一人だ。しかもシャルルさんに対抗するために指名された存在。『申し訳ない』というワードで片づけられるような物事ではない。
「あれ……?姫様?」
突然、そう声をかけられ顔を上げると、そこには見知らぬ男性が立っていた。
『こんなキャラクターいたっけ?』
そんなレベルのビジュアルだ。少しくどいような濃い顔立ちをしており、どこかだらしない表情を浮かべている。
「おはようございます」
何事もないように優雅に挨拶してみるが、相手はニヤニヤしながら私が座っている長椅子の隣に座った。かすかに酒の臭いが漂ってくる。酔って気が大きくなったのだろう
「お初目にお目にかかります。俺、護衛隊のものなんですが、もしよかったら俺も婚約者にしてくれません?」
と、とんでもない提案をした。
「ありがとうございます。ですが婚約者は十二分に居りますので」
「いやいや、聞いてくださいよ。本当に訓練大変で辞めたいんですわ。出は子爵家なんでお役に立てると思いますよ」
婚約者にして欲しい理由があまりにも消極的で思わず吹き出しそうになったが、寸前のところでこらえる。
「酔っていらっしゃるのでしょ?私は失礼いたしますわ」
あえて婚約の話に触れず、彼から離れようと長椅子から立ち上がろうとすると、物凄い勢いで腕を引かれ引き戻される。
「下手に出ていればいい気になりやがって。どうせ婚約者達とやりまくってるんだろ?俺にもやらせろよ」
さらにとんでもない提案に私は首を横に振るが、見知らぬ男はそんな希望に応えてくれるわけもなく、乱暴に抱きしめられ長椅子に押し倒される。
「大丈夫。俺、花街ではテクニシャンで通っているから」
一番あてにならない評価に私は全力で首を横に振り、男から離れようとあがくが思うように力が入らない。叫び声を上げたかったが、恐怖で喉が動かない。そもそも離宮の外れに位置するこの場所で、声をあげても誰かに届くような気はしなかった。
「そういうプレイが好きなんですか。とんでもない変態だとは思っていたけど、気が合いそうだ」
男はそう言うと暴れる私の頭を思いっきり長椅子に押し付け、頬に痛みが走る。男はさらに私の身体の上にまたがり絶妙なバランスで身体を固定し、私の中で『逃げられない』という現実が大きくなった。ガチャガチャという男の衣服を着脱する音に、恐怖と悔しさから自然と涙が流れ落ちた。
「大丈夫、すぐ気持ちよくな……」
アルコールの混じった息と共にそう囁かれた瞬間、私の身体がフッと軽くなった。慌てて逃げようと体を起こすと、そこには肩で息をしているアーロンの背中と地面に転がる男の姿があった。
「何をしている」
怒気を帯びたその声に、男はひぃぃと情けない悲鳴を上げた。
「第一王女様と知っての狼藉か?」
「いえ、隊長、あの……王女様に誘われたんです!」
とんでもない言い分に私は思わず目を見開く。その一方で確かにあれだけ婚約者がいるリリィさんだ。朝方に衛兵の誰かを誘っていても不自然ではない。
「言いたいことはそれだけか」
しかしアーロンはその言い分には耳を全く貸さずに、腰にさしていた剣をスラリと抜く。ゲームの中でもヒロインを襲った悪漢を街中であっさり殺した人だけに、ここでも同じことが起こりかねない。
「アーロン、ダメ」
私はとっさにアーロンの腕にすがりつくが、彼の怒りは収まったわけではないようだ。
「大丈夫ですから」
彼の腕に力をこめて、再び説得するとアーロンは目を閉じて、怒りを逃すように小さく息を吐くと「行け」と短く吐き捨てた。その言葉に目の前の男は飛んで逃げるようにその場を去っていった。
「アーロン、あり……」
「無防備すぎる」
お礼を言おうとしたが、二人っきりになると噛みつくようにしてアーロンは叫んだ。確かに早朝だからと油断していたが、寝間着にガウンというラフすぎる格好は確かに非常識かもしれない。
「それとも俺は邪魔したか?」
「違います」
首を横に振りながら、涙が頬を伝うのを感じた。先ほどの恐怖が蘇ってきたのではなく、彼に誤解されたという事実が怖かった。そんな私を見てか、アーロンは「くそっ」と小さく悪態をつく。昨日のことも手伝い彼は、もどかしさと怒りを上手く表現できない自分に苛立っているのだろう。
「あんなの普通じゃないし、怖いよ。初めて会った人だし……」
ちゃんと話さなければいけないという想いがある一方、様々な感情があふれ言葉の選択が上手くいかない。
「無理だよ。好きでもない人となんて、私はできない」
最後はとぎれとぎれになりながら、私は両手で顔を覆った。ちゃんと
『アーロンにこれ以上、不名誉なことをさせたくなかった』
『同意の上の行為ではない』
と伝えたかったが、とてもではないが今の私にはできなかった。
「抱きしめてもいいか」
絞り出すようにしてそう言ったアーロンの言葉に私は顔をあげる。そこには困ったような表情を浮かべるアーロンがいた。私が小さく頷くと、アーロンはおずおずと私を抱き寄せる。遠慮がちなその手つきに思わず彼の背中に手を回すと、彼の腕に力が籠るのを感じた。
「愛してる」
消え入るような声だったが、耳元で囁かれた言葉は私の心にストンと落ちるのを感じた。きっとこの身体がリリィさんだからなのかとしれない。返事の代わりに私はアーロンに回した腕に力をキュッと込めた。