賢者タイムとは無縁だった~黒髪騎士・アーロン視点~
慣れた手つきで乱れた服装を直すリリィの背中を見ながら、アーロンはサッーと血の気が引くのを覚えた。
『明日は婚約が公式に発表される』
『名前も知らない女性と屋外で致してしまった』
何とかせねば…と色恋の経験が皆無の頭を働かせるもまともな解答は得られるわけもなく、途方に暮れていると突然、リリィが振り返りアーロンを睨んだ。
「あんた誰?」
先程までの濃厚な時間が嘘のような鋭い視線を向けられ、アーロンはしどろもどろになりながら慌てて勘違いだったことを弁解をした。するとリリィはアッサリと
「『連れ』と間違えちゃったみたい。ごめんなさいね。でもあんたも途中で止めなかったからおあいこよね?」
と立ち去ろうとした。その手をアーロンは慌てて掴んだ。ここで離したら、二度と彼女と会えない気がしたのだ。
「また会えないか」
リリィの吸いつくような素肌の感触と肌を重ねたことで強くなったユリの香りに、先ほど取り戻した理性は再びどこかへ飛び去っていた。リリィは少しの間、考えると
「私のために全て捨てられるならいいわ」
といってニッコリと微笑んだ。含みを持ったその言葉が気になったが、この手を離さないことを許可されたことに感動し、アーロンは二言返事で「もちろん」と答えていた。
その言葉通りアーロンは人生の全てを彼女のために捨てた。親が決めたとはいえ正式な婚約を破棄し、近衛隊からの左遷も甘んじた。周囲はリリィとの婚約を祝福しながらも、複数人いる婚約者の一人でしかないことを陰で笑っているのをアーロンは知っていた。それでも、あの日、彼女の申し入れを受け入れたことをアーロンは後悔していなかった。
ただ、さすがにアーロンも婚約者が複数人存在することを知った時は面食らい、離宮を出て行こうと考えたこともあった。
『一方的に自分が求愛しただけの関係だ。リリィも離宮から去ることを許してくれるだろう…』
とアーロンは思ったが、そのことをリリィに告げると意外にも大喧嘩に発展した。
「全部捨てるって言ったじゃない!!」
普段、周囲の人間に見せる第一王女らしい威厳などはなく、大粒の涙をボロボロと流しながらアーロンの心変わりをヒステリックに責め立てた。
「私は何も持ってないの!母親はいないし、後ろ盾になってくれる貴族だっていやしない。収入源や貯金だってない!王になるためには“婚約者”が必要なの!!」
第一王女として離宮と最低限の生活を王から与えられていたが、それ以外の交際費などは全てリアムが賄っているのが現状だ。さらに第一王女という形が成立しているのも、公爵家のエドガーやエルフの王子であるラルフが婚約者の筆頭にいることが大きく影響している。
「王になどならなくても」
アーロンの言葉にリリィは力なく首を振った。
「王にならなかったらどうなると思う?第一王女を嫁に迎えれば貴族達の間での均衡が崩れるから、結婚などはさせず神殿で働かされるって言われたわ。もし逃げたら暗殺されかねない…」
神殿で働く女性の多くは聖女として純潔を守ることを求められる。結婚もできなければ、外部の人間との接触も制限されている。そのためワケありの貴族令嬢などが働く場所としても有名だ。リリィはさらに涙を拭きながらたたみかけた。
「ここに来て気付かなかった?」
「何が…」
「あんたに似た男なんて一人もいないでしょ?馬鹿みたいにでかくて、筋肉質なあんたを暗闇の中とはいえ“連れ”となんて間違えるわけないの!!」
リリィの涙ながらの訴えに、アーロンはようやく夜会での出会いの意味を理解した。確かに離宮のメンバーは全員身長はあるものの、決して筋肉質ではない。例えその顔が見えてなくても、身体を触れば人違いだと直ぐに気づくはずだ。あの時、彼女には東屋で情事を楽しむような『連れ』なんていなかったということを。
「愛する人と一緒にいたいだけなの」
そう言って泣いてすがられると、もうアーロンには返す言葉は見つからなかった。
「泣くな。もう出て行くなんて言わないから…」
その代わりに離宮に残ることを約束させられた。