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超宗教編(日本における宗教史)付録

作者: Mako

「超・宗教」編 付録


「超・宗教」編 付録(1)


輪廻転生りんねてんしょう」とは「生まれ変わり」のことです。

「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」の6つの世界があるとされ「六道輪廻りくどうりんね」とも呼ばれます。

私は今、人として生かされていますが、死後肉体は滅んでも魂は滅ぶことなく次の世界に生まれるとの思想です。

次の世界が今生(こんじょう、この世。この世に生きてる間。)と同じ人界の場合もあれば、天・修羅・畜生・餓鬼・地獄の場合もあるのです。

次の世界での死が訪れても魂は滅びず、六道のどこかの世界に生まれるとされています。

つまり輪廻転生とは、姿形は変わっても、魂は永遠に生き続けるということなのです。

ゴーダマ・シッダールタ(釈迦)が悟りを開いた古代インドでは「生きることは辛く苦しいことだ。なんとかこの苦しみから抜け出したい。」という思いが満ちていました。

輪廻転生という無限ループ(生きること、または、生き続けること)から抜け出すことを「解脱げだつ」と言いますが、解脱こそが仏教における救済なのです。

釈迦のように悟りを開いた者を「如来にょらい」または「仏」と言います。

如来となることで「浄土じょうど」という世界を治めるとされています。

浄土とは輪廻転生の6つの世界とは別の世界とされ、如来一人が一つの浄土を治めるとされています。

つまり如来となることで輪廻転生から抜け出し、生きる(生き続ける)苦しみから救済されるのです。

釈迦は悟りを開き如来となりましたが、それはあくまでも釈迦個人としてのものです。

他方、阿弥陀如来あみだにょらいは「阿弥陀を信仰する者は阿弥陀の支配する極楽浄土に生まれる」と宣言しています。

阿弥陀の支配する極楽浄土へ生まれるとは、輪廻転生から抜け出すことを意味し、多くの人を救済すると宣言しているのです。

このことは乗り物に例えられます。

釈迦の原始仏教では個人の救済でしたから、自転車やバイクといった小さい乗り物という意味で「小乗仏教しょうじょうぶっきょう」と呼ばれていました。

現在では「小乗」という言葉が差別的とのことで「上座部仏教じょうざぶぶっきょう」と呼ばれています。

阿弥陀は多くの人を救済するとされていることから、電車やバス・飛行機といった大きな乗り物という意味で「大乗仏教だいじょうぶっきょう」と呼ばれています。

タイ・カンボジアなどの仏教が上座部仏教であり、チベットや中国の仏教が大乗仏教です。

日本の仏教は宗派にもよりますが基本的には大乗仏教です。


「超・宗教」編 付録(2)に続きます。


「超・宗教」編 付録(2)


「ダライ・ラマ」という名前を聞いたことがありますか?

ダライ・ラマとは、チベット仏教の最高指導者のことで、2017年3月の時点ではダライ・ラマ14世です。

14世とのことから世襲のように見えますが、親から子への世襲といったものとは異なり、ダライ・ラマは輪廻転生における世襲なのです。

ダライ・ラマが亡くなる時、死の間際に「いつ頃どこどこにこういった子で生まれる」と予言をして亡くなるそうです。

チベット仏教徒はその予言に従い、その子を見つけ、そして次のダライ・ラマとするのです。

「ダライ・ラマ」とは、輪廻転生による生まれ変わりによって引き継がれているのです。


「超・宗教」編 付録(3)に続きます。


「超・宗教」編 付録(3)


日本では死ぬことを「往生おうじょう」と言います。

往生とは「行って生まれる」という意味ですが、どこに行って生まれるのかと言えば、阿弥陀の支配する「極楽浄土」のことです。

生きること(生き続けること)の苦しみから抜け出し(輪廻転生から抜け出し)、浄土への転生を願うことが「往生」という言葉です。

このことはある意味「阿弥陀信仰」または「浄土信仰」とも言えます。

また、春分(例年3月20日頃)・秋分(例年9月20日頃)を中日とし前後3日間を「お彼岸ひがん」と呼びますが、この彼岸の頃は日本では太陽は真西に沈みます。

阿弥陀の支配する極楽浄土は遥か彼方かなたの西方にあるとされ「西方浄土さいほうじょうど」とも呼ばれています。

真西に沈む太陽と西方浄土が繋がるとの思想から、彼岸もまた阿弥陀信仰・浄土信仰と言えます。

「彼岸」という字は遥か彼方の岸ということで、これも西方浄土(極楽浄土)に繋がる字です。

彼岸の反対語は「此岸しがん」で「此方側こちらがわ」ということですが、言い換えれば「この世」のことです。

日本で一番有名な如来は「阿弥陀」です。

「あみだくじ」や「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」とは阿弥陀からきています。

ちなみに「南無なむ」とは「帰依きえします(信じます)」とのことです。


「超・宗教」編 付録(4)に続きます。


「超・宗教」編 付録(4)


戦国時代の戦は季節限定のものでした。

多くの兵は農民であった為、農繁期には戦はできなかったのです。

農作業が暇になる冬場が戦の季節でした。

そんな中、お金で兵士を雇い、一年中戦が出来るようにした時代の先駆者がいました。

「織田信長」です。

信長の評価は好き嫌いがはっきり分かれますが、私は好きです。

信長は「井ノ口」と呼ばれていた地域を「岐阜」に改名しました。

これは古代中国の「しゅう」という王朝が「岐山きさん」というところから起こり、天下を平定した故事にあやかってのことと言われています。

信長が岐阜へと改名した後、何人もの大名が地名を変更しており、そういった点でも信長は先駆者です。

岐阜から安土へ本拠地を移した信長は、安土城下並びに信長の支配地において「楽市楽座」政策を行います。

「四日市」や「八日市」という地名がありますが、昔は「いち」が出る日が決まっていました。

四日市なら毎月4日に、八日市なら8日に市が出ていたのです。

「楽市」とは、日にちに関係なくいつでも市を出していいとするものです。

「座」とは、商人の組合のようなもので、そういった組織があると、新しく商売を始めたい人がいてもなかなか新規参入はできません。

そういった組織(組合)をなくしたことが「楽座」です。

信長は「楽市楽座」という「規制緩和」を行なったのです。


「超・宗教」編 付録(5)に続きます。


「超・宗教」編 付録(5)


戦国時代の寺院を一言で言えば「荒くれ者の集団」です。

武装した「僧兵そうへい」がたむろす軍事拠点と言っても過言ではなく、宗教を笠に着た戦国大名と言っても間違いではありません。

そういった僧兵達は、飲む・打つ・買うということを当たり前のように行っていました。

酒を飲み、仏教では不浄とされる殺生から得られる肉や魚を食べ、女性を抱いていたのです。

勝手に関所を設けて通行税を取ったり、商人の組合のような「座」の支配者でもあったのが、当時の寺院や神社です。

この頃は「神仏習合しんぶつしゅうごう」で寺院と神社は同体とされています。

寺院では「僧兵」がいましたが、神社には「神人じにん」と呼ばれる武装した神主がいたのです。

大規模な寺院や神社は、戦国大名に匹敵する戦力を持ち、関所の通行税や座からの収入、布施や寄付などにより資金力も有していました。

統治者からすれば「寺社勢力じしゃせいりょく」または「社寺勢力しゃじせいりょく」とは、頭の痛い存在だったのです。

織田信長は、安土城下並びに信長の支配地において「楽市楽座」を行いました。

「座」という商人の組合をなくし、自由に商売をすることを認めたのです。

また信長は自身の支配地において「関所の廃止」も行っています。

楽市楽座や関所の廃止により、安土城下は潤います。

これらのことが信長の資金源となります。

信長は幼少期「尾張の大うつけ」と呼ばれていました。

現代の言葉で言えば「愛知の大馬鹿者」が神仏をも恐れず、焼き討ちという武力を以って、日本最大級の寺社勢力であった比叡山を屈服させたのです。

信長という稀代の天才によって寺社勢力の力が削がれ、後に続く豊臣秀吉が「刀狩」を行い寺社勢力が完全に丸腰となったのです。


「超・宗教」編 付録(6)に続きます。


「超・宗教」編 付録(6)


日本人が宗教というものに無関心、または疎くなったのは明治以降のことです。

西洋列強国(キリスト教国)に追いつき追い越す為に、明治政府はキリスト教を真似した宗教体制を構築しようとしました。

キリスト(神)にあたる部分に天皇を据え、日本独自の神道を強化して、外来の仏教を排除しようとしたのです。

このことは「廃仏毀釈はいぶつきしゃく」と呼ばれています。

廃仏毀釈により、多くの寺院や仏像が壊され、経本が焼かれたりしました。

この時の混乱が現在まで続いているのですが、もう一つ考えられることがあります。

それは、口下手な日本人が「何を信仰しているか?」聞かれた際に、神社にも行くしお寺にも行くということを上手く伝えられないということです。

明治時代の廃仏毀釈による混乱と、口下手な日本人の特徴が重なっているのではないかと思います。

この「超・宗教」編 付録を書いていて気付いた点があります。

仏教とは悟りを開くことを目的としているとばかり思っていましたが、悟りを開くこととは輪廻転生から抜け出すことであり、輪廻転生から抜け出すことこそが仏教における救済ということです。


「超・宗教」編 付録 完


March 2017

Mako

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