八 きっかけ
毎週土日の秘書ボランティア活動を始め、数週間が経った。十分に慣れたと思いきや、ある災難が待っていた。
「葉書きの宛名。ズレているわよ。ちゃんと、真直ぐに書きなさい」
日野という三十前後のお局タイプの女性から、きつく注意される。
「うわー。なんか、ギスギスしている。ここの女性たち。森田さん、なんかやつあたりされて……。宛名ずれたって、彼女と関係無いじゃないの。それに、私のミスは、上司森田さんと私の関係でしょ」
「恋の、ライバルね。純一をあきらめきれずに、狙ってる女、沢山いるから」
モデルの希美が、遠くからきつい目でこちらを見ている。
「あの人は、党の看板モデルよ。彼女は、選挙の候補者の引き立て役として、党本部で雇われているの」
「あっ!あの《生活ムシの愛国か、生活ダイジの愛国か?答えはカンタンだ!》のポスターのモデル?!」
「そう、その彼女。待遇も、私たち政治ボランティアと違うの。彼女は、ちゃんとした月給とりだし。彼女は、実務はできるようだけど、政治には、からっきし無関心。時々ちんぷんかんぷんな発言をするの。彼女は、モデルや連絡係の仕事で、街頭演説で、純一のそばによく立つの」
玲子の言ったとおり、ボランティアの仕事は毎回単純だ。単純作業には、すぐに慣れた。よそ事を考えながら、仕事ができるのは嬉しい。
誰が純一に相応しいか、希美と自分を比べてみる。
鮎川希美、二重瞼のはっきりした、眼の力の強い女。一人の女として、女性の魅力では、この女には絶対敵わない。それなのに、この私は……。一重なんて魅力ないだろうなあ……。おまけに、ファッションセンスすらない。
休憩時間中、ボーっとしてるいると、
「夏美、あまりダンマリしてたら、どんどん嫌がらせエスカレートするわよ」と玲子は言う。堪忍袋の緒が切れそうな状態とは、この事である。
「玲子さん、それは、ちょっと……」
「あれ、あるじゃない。あれが」
「あれって?!」
「空手よ。意地悪な人に見せるのよ」
「どうするのよ?」
「バカね。板とか、瓦を割ったり。胴衣で突きや蹴りしている姿見せて、あいつらをビビらせるのよ!」
「みんなに見せるの?」
「当り前よ。あなた、ホントに有段者なの?」
「そうよ。だけど、純一に見せたら、女らしくないって思われたり……」
「あのね、私だって黙らせたいヤツが、この支部に三人もいるのよ。三週間後に和食の飲み会があるの。ぜひ来れば?その時、ほら、後輩も連れてきて。あなたの強さ見せつけるのよ」
***
和食処 《月光》時計の針は、午後七時を指そうとしている。
日本非正規労働者党 名古屋支部書記局の宴会である。
人数は、二十人強で、多すぎず少なすぎずといったところである。
大きな真鯛が並ぶほどの豪華絢爛さが、眼を引く。
おなかすいて来たなあ。
淡い照明で、透き通るようなコップを見ながら、玲子の前で、うっかり空腹のゴロゴロを鳴らしてしまうと、
ぷっ!と、笑われてしまった。
支部長の挨拶が始められた。
「皆さん、日々のご精勤ありがとうございます。宴会もたけなわとなりました。そこで、仙葉夏美さんから空手の演舞をご鑑賞いただきたいと思います。皆さん、拍手をお願いします」
皆の拍手を受けて、胴衣姿で登場する。
前で一礼。
森田玲子が司会を務める。
「最初は、形から」
後輩女子が、解説する。
「皆さん。形とは、 一人で演武する空手の練習の形式です。練習では毎回、 技を決まった順序で演武します。修行者は、形の練習を通じて、空手の基本的な技や姿勢を身につけます」
「では、形を始めます」と語り、
後輩女子が合図する。
「型用意!《クーシャンクー》始め!」
クーシャンクーを演武する。
「うおー」
「うわー」
動作は俊敏で優美、静止は岩のよう。それが、私の演武のモットーだ。
玲子は演武に感心したようで、白い歯を出しながら、
「次は、手刀で左右の板三枚、そして回し蹴りでバットを折ります」
と、説明する。
じっと、三枚の板とバットの位置を確認する。
「イヤー!」
長身の後輩男子二人が持つ板を瞬時に割り、直後、バットのくびれ部分を足で折る。
皆、一斉に拍手。
起立の姿勢を取ると、女性たちの
「やめてー」とか、
「いやー。なんか……怖い」の声が聞こえる。
「次は、手刀―瓦一五枚割りを行います」
「エエーッ!?」
「これが、夏美先輩の割る瓦です」
後輩女子が、最前列に座している賓客の手に瓦を取らせ、同じテーブルの客に回すよう指示する。
「へえー」
「うわっ、カタイ!」
「有段者の成年男性でも、十五枚割れる選手はほとんどいません」と、スポーツ刈りの後輩男子が解説する。
そのとき私は、コンクリートブロックの上の瓦をじっと見つめ、手刀が奥の瓦を割るのを、イメージしていた。
男勝りで純一に引かれてしまうのが、心配だった。
でも男勝りの掛け声をしなければならない。
「エイーッ!」
直後、瓦が真ん中で一斉に割れ、一瞬で真っ二つに崩れていくのをイメージする。
右手の感触は、イメージ通りだった。
「うわー!」
「すげー。かなわんわ。こりゃ」
皆の一斉の拍手が、宴会場に響き渡る。
感謝の気持ちを込めて、お辞儀すると、
純一は、にっこりして拍手してくれた。
うれしいのは、その際に、目が遭ったことだ。
純一の視線はまだ、自分の方を向いている。
その隣に座っている希美が、こちらを睨みつけている。
あからさまな敵愾心だ。
***
地方選挙の前哨戦。純一は、党支部で一、二位を争う活動家だった。選挙日の直前、彼は三日間ほぼ一睡もしなかった。彼の疲れぶりは、歩き方ではっきりしていた。
支部長は、むっとした表情で、
「あとは、俺たちがやるから、帰れ。お前が過労死して、党がブラック政党だなんて、また週刊誌で叩かれたら、お前の努力は帳消しなんだからな」ときつく忠告した。
純一は、
「わかったよ。危ないと思ったら、すぐ休む。だから、心配しないでくれ」
と、捨て台詞のように答えた。
押し問答が数回、支部長は、彼の両肩さえも掴んだが、とうとう引き際を悟った。
「ぼくが言ってもわかんないからなあ、もうあの熱血男は。夏ちゃん。君から忠告しておくれ。本部がもう過労死絶対に出すな、といっているんだから」
もちろん自分は、厳しさの中にユーモアと大和撫子の優しさをこめて忠告した。
「もう帰りなさい。君は。三十代で体がぼろぼろになりますよ」
「疲れたら休むよ」
その言い方は、忠告を聞こうとしない声だ。
「もう、どうしようもないんだから、カレシは」
玲子は、尊敬とともにあきれ返った表情で、首をかしげる。
「さあ、休憩しましょう、休憩。あと三日間、選挙当日まで、きついんだし」
歩いていって、自販機で、ROOTSのコーヒーを買う。
二人で休憩所の椅子に腰かけ、缶コーヒーのタブを引っ張る。
「純一って、忙しいとなんか怖いね」
「ただ、仕事に一所懸命なのよ。乱暴な言葉で怒鳴ったり、党友をこき使う事はないし、問題ないわ」
「それは、そうだけど。でも、私のタイプではないよね。彼ってさ、なんか猪突猛進で、党のことばかり。そこがちょっと、ね。結婚しても家庭に無関心そうだし。淋しいわよ、夫がずっと留守の家庭なんて」
「何よ。まだ、彼氏でもないのに、結婚の話なんて。玲子、行きすぎよ」
「この前さ、バレンタインデーでもないのに、ゴディヴァのチョコレートの小箱なんて、夏美のロッカーに置いてさ。あれ、絶対純一だと思う。だって、最近、夏美のこと見てない?」
「いやん。確率的には、高いけど……。別の男性の可能性もあるし」
「ともかくさー、純一は、どんなに仕事を頑張ってもさ、夏美の事見ているんだから、心配ないじゃない?」
「ふふふふふふふ・・・・・・」
「夏美、もうさ、彼とさ、つきあってもいいんじゃない」
「え?」
「一回、純一は、夏美に振られた。しかし、彼氏はまだ、夏美と付き合いたい。きっとそう。絶対間違いないから。客観的な眼で、私が保証するから、頑張って相手に告白させる機会を作りましょうよ」
「いやん!」
男と二人きりになる恥ずかしさと予想される恋の出来事で、つい、両手で顔を覆ってしまう。
その時、ふと、自分が女としての警戒心から純一を振ってしまったことを思い出す。
それは、党支部の事務所で二人きりの際に、純一が最初に告白してきた時のこと。
「夏美、好きだ」
「いきなり、なにを?」
「自信をもって言う。俺は、お前のモノだ」
その時は、女の端くれとしてのプライドでカチンときてしまった。それで、はっきりと言ってやった。
「お前は、俺のモノですって?私は、あんたのモノじゃないんだからね!」
秘書ボランティアの初日、いや、初めて彼の顔を遠巻きで見ていた時から純一が好きで、すぐにでもデートしたかった。
しかし、女としての警戒心や、たまたま生理のイライラも原因して、希美と二股かけられ、不倫関係で振り回され、捨てられるのはごめんだと思った。
党支部の若い女性や、おばさんたちに囲まれ、甘えられている純一の姿が……。
それを、嫉妬しながら見なければならないなんて。
純一は、とても女にモテる。だから、純一は、女性に対して驕っている。
ああ、あの時、OKって言っておけばよかったかなあ。
「でも、夏美って凄いよね。あんなモテモテの男性に告白されながら、上手に引いて駆け引きするなんて、尊敬しちゃう」
「そんな事ないってば。はははは……」
「言い気味よ。あのプレイボーイ。少しは反省したんじゃない。自分の思い通りにできない女がいるってことを知って」
玲子が、陰で伊達男を茶化し、黒縁眼鏡の奥でニタニタ笑う。しかし、その表情は、突然何事かを認識して、咄嗟に曇る。
「あれ、純一が……」
純一の体の動きに異変を感じ、玲子がそれを指摘しようとした時、
前方から、急に大きな物音が、体全身に響き渡った。
一瞬の沈黙が、支部の一番大きな室内を支配した。
その直後、ばたばた、席を立つ音、駆け寄る音がした。
「純一が倒れたぞ!」
「純一!」
「おまえ、大丈夫か?」
最初に駆け寄った若い同志たちは、ただ何をしてよいのやら、わからず、
数秒ただただおろおろしていた。
「純一、大丈夫!?純一!」
彼を介抱したのは、自分だった。
純一の意識は、すぐに回復した。
純一は、明らかに自分の顔を意識している。
「夏美」
純一の弱々しい声だった。
「今、救急車呼んだから」
救急隊員に担架で運ばれる純一を、ほっと息をつきながら、見送る。
***
名古屋市議会補欠選挙も、《非正規労働者党》勝利で終わった。
選挙と空手の部活で少し疲れていたが、玲子の誘いで、純一、支部長と、高級焼肉店で息抜き会をするはめになった。
今、四人水入らず、支部長の音頭で乾杯したところだ。
「ふう、地方選挙も終わったことだし」
「純一、あなたが倒れて、一時はどうなるかと思ったわよ。ただの過労で、助かったね」
「うん」
「今度から、あまり無理するなよ。東京支部や大阪支部のように、過労死出したくないからね」
「でも、東京や大阪は、なんでこんなに党員の過労死が多いんですか?」
「まあ。それは、学校で言う、クラスごとでちょっと雰囲気違うじゃない?」
玲子が、たとえて言った。
「それは、そうだけど、うちの学校は、過労死までは出しません」
と真顔で答える。
支部長は、ビールジョッキを傾けながら、
「東京、大阪は、他党派との衝突が凄まじくて、ここ名古屋とは違うんだよ。まだ、名古屋の産業はしっかり地についているし、東京や大阪ほどコミュニティが崩れていない。あそこは、敵対的な政治勢力との殺し合いが多いんで、ついつい過激になってしまうんですよ」
「そうね、ちょっと怖い感じがする。友達が、東京や大阪は危ないからもう行きたくないって言っているし」
「ただ、いつどこでも衝突が起こっているわけではないし、起こっても都会の中心部だからね。ゲバルト(註;暴力行為のこと)もあるけど、あれは、党関係者に限ったことで、一般市民にはほとんど関係ない。ただ間違いで、殺されたということはあるね」
数日前、ファシストしばき隊が、名古屋中村区の路上で、普通の市民を愛国防衛隊幹部と誤認して、殺害したことを思い出す。
そして内心怖かった。だって、自分も党関係者だから。
「まあ、あの党首は、名古屋は、《もっと真剣に闘え》って言ってるけど、土地柄が違うんで。僕は、まだ名古屋は、武力闘争の時期には、少し早いと見ている」
「あの如月党首のことですか?」
「彼は、政敵から言われているように、まあ、頭のてっぺんからつま先まで純粋なファシストだね。彼はあまりにも、宗教家、ロマンチスト、熱狂的すぎる。そうだね、純一くん」
「全くの同感です」
「夏美さん、この四人の場だけの話だけど」
と、支部長ははっきり念を押し、小声で言い始める。
「如月さんは、ファシズムを《日本国民の永続革命》と確信しているようだが、私は、ファシズムは、現時点において、あくまで日本民族が存続するための現在における最善の政治的選択肢だと思っているに過ぎないんですよ。私は、北欧のスウェーデンに留学して、今の日本人が民主主義を自ら運営するには、政治的関心、判断力、価値観で、まだまだ未成熟だと思うんです。北欧諸国は、緩やかな愛国心と民主主義が結びついた。ドイツでは、第一次大戦に破れ、戦勝国からワイマール民主主義を押し付けられたがうまくいかず、ドイツ官僚だけが機能したんですね。ヒトラーは、宿敵の共産主義者だけでなく、復古的な保守主義者をも強制収容所へ送り込んで、彼等の政治生命を根絶やしにしてしまった。だから、ドイツにはネオナチはあっても、日本のようなへんちくりんな復古守護者は存在しないのですよ。私は、思うのです。もし日本が、西欧諸国のように、真の民主主義体制になるならば、既成政党を徹底的に排除し、徹底してファシズム体制を構築していかなければならない。そして、民主主義には時間がかかりすぎる。われわれは、今、日本のガンとなっている問題―少子化問題と労働問題と勤労者の収入の問題を解決するために、そして日本が愚民政治で枯れ果てて死ぬまでに、究極の強権政治―ファッショ体制を目指す。どうかね、夏美さん」
「夏美は、支部長の名演説に呆気に取られているのですよ」
と、玲子は言い、純一と一緒に明るく笑う。
「少子化問題は、本当に大事です。だって、いくら天皇陛下や天皇制が大事だからといって、彼らを支える日本民族がいなくなれば、多数派化した外国人に天皇制廃止の国民投票される場合があります。それが、日本人がマイノリティ化した日本で毎年毎年続くとしたら……」
という意見に、
「そうだね」
と同意し、支部長は、なおも続ける。
「そう、いわゆる自称《保守》という人には、まだまだ、そういうことが解っていない人が多すぎて。本当に困っています。おまえら、もう目ざめよ、と言っているのですが。ははは……。彼らほど、ホント、能天気な人種はいない。子供は霞を食って生きていけるわけではないし、愛国心だけを唱えれば自然に育つわけじゃないですよ。彼等の愛国心は《足のない幽霊》、国民の寄って立つ生活の基盤をほとんど一切考えない」
「国民生活をないがしろにする悪徳政治家たちは、いっそのこと、収容施設にぶち込んでしまうべきです」
平然とした口調で、島が発言すると、なんとなく不快な印象をもった。
思わず、
「それって、いいことなのかしら」
と本心を漏らしてしまった。
異様だった。
三人の別人が、あたかも自分をまるでやや異質の存在であるかのように見ている。
「でも、彼らの政治生命を断つことで、児童福祉を推進し、例えば年間十万人の赤ちゃんが増えるとしたら?あるいは、十万人の子供を諦めている若者に、ささやかながら、一人でも子供ができる希望をもたらすとしたら……。究極に、少子化による滅亡から、祖国日本が救われるなら。政治とは、両立できないことのどれかを選択することなのですよ、夏美さん」
と冷徹に玲子が発言する。
「そして、誰かが、自分にとって大事な人を守るため、殺人とかの罪を負う。それが、政治の論理なのです。それぞれの人や集団が、それぞれの利害を持っている」
「ドストエフスキーの《罪と罰》を読んでも、残念ながら社会問題、政治問題は、解決できない。金貸し婆さんは、殺すべきでない。それは、判る。犯罪と道徳上の罪を犯すと、孤独感を、ひしひしと感じてしまう。自分だって、ラスコーリニコフみたいな殺人、しかも単独犯はしたくない。しかし、もし強欲の金貸し婆さんが長生きしていたら、やはり返済に苦しむ人は減らないに違いない。ドストエフスキーがいくら優れた小説を書いたところで、小説で貧しい人たちに慈悲をかけたところで、現実の貧しい人たちを救えなかったじゃないですか。《良心》や《信仰》は現実の生活の解決にほとんど役に立たないし、現に、今でも世界では、沢山の人が飢え死にしているではないですか。あの小説は結局、宗教小説であって、宗教は、その矛盾を、結局あの世で解決しようとするからね」
支部長は続ける、
「彼は、ロシア皇帝が国民の貧困を解決できると思っていたようだが、結局は、国民生活をほとんどなんとも思わない反動的で自己中心的なニコライⅡ世によって、彼は裏切られたんですよ。
パンの欲しい無防備な民衆に銃を向けたりしてね。あれは別に彼が直接命令したわけではないのだけど、全ての国家権力を持つ皇帝として彼は、事後処理を怠っていた。私は共産主義者ではないが、そこのところは、彼らに同情するね」
ぞっとするような現実だ。これが、普通の家庭や学校では教えない本物の政治の世界なのだな、そう感心して相槌をうった。




