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夏美  作者: のかわ ひじり
7/9

七 ハイパーインフレ

朝のホームルームは、特に何もなかった。

「今日の日直は、乙部(おとべ)さんです。日記帳をお渡しします」

と、担任の岡本先生が、美羽(みう)ちゃんに当番日記を置く。

「先生、ありがとうございます」

美羽ちゃんは、桃色の頬に愛らしいえくぼを浮かべながら、先生に軽く会釈した。

相変わらず、愛嬌があるなあ。ウラヤマシイ。

彼女の横顔を見ると、羨望(せんぼう)の念が()きあがってくる。

いつの時代でも、カワイイ子はモテる。

わたしなんか、同級生から男と思われている。

ショックなのは、にきびツラの同級生の小林の言葉だ。

「そばによるな、夏美。おマエ、デカいし、強過ぎるんだよ……」

で、男子から避けられている……む・ね・ん。


「えー、少し込み入ったお話があります」と、

岡本先生は、息をついた。

「誠にすいませんが、今日の一時間目の世界史は休講とさせていただきます。実は、近頃の給料遅配で、私たちの教員組合の組合員は、他校の教員と連携して時限ストを行う決断をしました。

皆さんに大変ご迷惑をおかけしますが、午前中は自習をお願いします。この時間、組合員は、県教育委員会への今後の対応を検討します」

廊下では、有名な美人教師の鈴木先生がじっと待っている。

数人の男子生徒たちのギトギトの熱い眼差しが、もうすでに、廊下の境の窓を通して、今年二七歳になる、チャーミングな顔の英語教師に向かっている。

「さあ、始めましょう」と、微笑みながら語りかける彼女には、女である私も、ついうっとり見惚れてしまう。

日本人離れしたパッチリした瞼。上がり目に濃い眉毛(まゆげ)(まつげ)。緩いカーブの鷲鼻。艶のあるボブカットの黒髪。優しい感じの卵形の顔。ピンク珊瑚の丸いイアリング。清楚さを感じさせる白のブラウス。花柄のついた黒系のスカート。鹿のようにスラリとした細い脚。それに、パンプス。

この前の日曜に、先生を、偶然、知立のピアゴで見かけた時の、赤系の派手な装い。一瞬別人かしら、と思った。厚手のマスカラ、真珠のネックレス。特に緋色のルージュとハイヒールに、一体どこのモデルかな、とびっくりしたくらいだ。


岡本先生の話が終わると、生徒たちはざわめき始めた。

「あの、大声で話をしないように。隣の授業の妨げになりますから。では、失礼します」

と挨拶し、いそいそと岡本先生は出て行った。


「夏ちゃん、インフレって、授業にまで影響するのね」

美羽ちゃんが、こちらを振り向いて、話しかけてくる。

「ナイショだけど、うちも、財産を、ほとんどドル預金や金の延べ板にしたの。お父さんの給料もすぐ、ドルと金に交換するの。現金は、買い物のために最低限しかもたないことにしたの」

「うちも、そう。その、ドルや金に交換する銀行や貴金属店に、人が殺到して物凄く大変だ、ってお母さんが言ってたの」

「まったく……毎日毎日値段が変わるって、結構しんどいじゃん。最初は、なんか、新しいコインとかお札を見て、面白いなって思ってたけど。よくよく考えたら、お小遣いで買える物が見る見るうちに少なくなっていくのね」

「朝のコンビニの弁当の値段が、夕方にはもう上がってたり。お父さんの給料も一時はどんどん目減りしていって……。ただ今、うちの会社はもう、物価を反映して、一月ごとに上げてくれてるけど……」

「うわー、夏ちゃんの家って、恵まれているのね。うちの収入は実質六割か七割になって、給料上げよと、女性事務員が怒り出して、労働組合みたいのを作ったらしいの」


自習は、古代ローマの処だ。カエサル、ポンペイウス、クラッスス。第一回三頭政治。

この三人の有力者が私的な盟約を結び、元老院に対抗しようとした。


「岡本先生って、語り口に抑揚があって、説明上手だから。先生いないのは、ちょっと退屈だなあ。自習……なんか、ねむくなる」

と、美羽ちゃんは、アクビし始める。

「古代ローマはよく知ってるから、いきなり中世とかイスラムへ行ってもいいなあ」

「あそこは入試に出るから、先生は飛ばさないでしょう」

「それもそうね。でも入試レベルなら、うちは古代ローマは勉強したから」

「ふーん、どうやって?」

「塩野七生の《ローマ人の物語》を読んでいるの。美羽ちゃんも読んだらどう?

当時も、物価が上がっていたらしく、少しずつお金の価値が目減りしていったそうよ」

「あの本、図書館にあったけど、結構量多いじゃん。教科書と参考書を読んだ方が効率的よ」

「でも、歴史は勉強じゃなくて……共感することじゃない?!」

「まあ、でもうちは、大学受験のために勉強してるし……」

「人物史ならすぐ読める本があるよ。塩野さんは、古代ローマの歴史を、人物中心にまとめた、《ダイジェスト版》も出しているの。

あれは、解りやすいので、まる二日あれば読めるから。暇な時に、少しずつ読んでもいいし……。それに、結構、人生の勉強になりそうな感じ」


そう話し合っているうちに、岡本先生が帰ってきた。

「君たち、ちゃんと自習して下さい。騒がしいって、隣のクラスから抗議が来ています」


岡本先生か。ストなんかしても、どうしようもないのに。カエサルの話してくれないか、期待してたのに、ね。

脳裏に、島純一とカエサルの姿が重なり合う。あの長身、行動力、演説の巧みさ、知性―それは、織田支部長が教えてくれたように―単に知識があるだけでなく、判断明晰、その価値観は、国の抱える問題の原因と必要な改革を見据える。持続する意志力、そして女にモテてマメなこと、だ。

《終身独裁官》について空想すると、やはり、日本の将来を担う、《終身独裁官》としての純一の言葉を思い浮かべてしまう。

「小説家・塩野七生さんのおっしゃるように、改革者は、孤独です。すぐれた改革者は、民衆の先を見通す先見性がある」


純一こそは、新しい日本をつくる改革者―他の国民がなんと言おうと、私には疑問を挟む余地はない。

小麦色で、彫りの深い顔の彼が、古代ローマの将軍の服装になっている。

何故なら純一は、古代ローマの支配下にあったスペイン人の血筋を引いているからである。


純一って、かっこイイ!

私のおムコさんになって!


放課のチャイムが鳴った。

自分の空想の間に、一時限目は、あえなく終わってしまった。


ボーっとしていると、美羽ちゃんが笑いながら、

「ねえ、ちょっと。また、あの人のことを思っているの?」って、語りかける。

「うん。本気で、純一がスキ。純一とデートしたい」

「ふふふ……。またあの癖がはじまった」

               

***


中学三年の三学期から始まった悪性のインフレは、一年で、一億円を一円の価値にしてしまった。

預金だけに頼り、金や不動産や株式を持たない、ごく普通の勤勉で堅実な国民の蓄えは、

一か月分の給与の生活費を差し引いた残りの貯金よりも少なくなった。

つまり、平均的な収入のサラリーマンの十年分の貯金が、一年後には、封筒の切手代の価値を下回った。

五万円札、十万円札、五十万円札、十万円札……… 五百億円札。そして、ついには、一兆円札を発行することになった。


さらに深刻なのは、勤労者の収入の面であった。

テレビでは、しょっちゅう、物価上昇を、指数で表現したグラフが、クローズアップされるようになっていた。

給与は上がったものの、その上昇分は、物価の上昇に一時的に追いついただけで、時が過ぎれば過ぎるほど、賃金上昇率は、物価上昇率を下回る時間が長くなっていった。


さらに、悪性インフレの問題は、かなりの層の勤労市民にとり、急速に深刻化。言葉の真の意味で、生きるか死ぬかの問題となっていった。

飢餓が蔓延しつつあったのだ。


「これ、何だ?国民生活は、ぐちゃぐちゃだ。夏美、そら恐ろしいことになった。ほら、ここを読んで」

毎朝新聞

一面見出しに、《二千五百万人が、栄養失調》とある。

小見出しには、騒々しく、貧困についての恐るべき記事が所狭しと並んでいる。

「国民の五人に一人」「全国の餓死者 昨年度で三万人超え」「貧困と失業 食糧輸入難で」「腹が減って仕事、勉強ができず」「飢餓 都市部で特に深刻」「生活保護 自治体破産で受付停止 支給ストップ」「職員の給与も遅配」「政府 国内生活困窮者への募金を広報」


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