戦略家と戦術家
戦術家と戦略家
戦術とは実地で戦いに勝つための方策、戦略とは戦争全てを包括した大局的な大綱である
(ちょっと違うかも)
まあ基本
戦略>戦術
という規模の大小関係で、用途によって間やもっと小さい区分けが出来たりもする
戦術家と戦略家、どちらがすごいか
そんなものは比べようもないが、軍では階級トップの将官が戦略家になり、中くらいのものが戦術を指揮する
しかし、真の天才は戦術家に多いと思う
落語で言うと天才と言えば「立川談志」であるが、
彼は戦略家だったのだ。
客いじりなど落語界のタヴーを破ったことで知られる談志は、そのために「談志ならタヴー破りも許せる」という空気を立ち居振る舞いから何から何まで利用して作ったのだ
そういう人間は崇められる
しかし、俺は桂枝雀の方がすごいと思う、彼は戦術家である、いやそれよりもっと先鋭化された職能
例えば砲術士官のような技術者的な人間であったかもしれない
一本の芸を磨き上げ、そのあまりに生きることを苦しめ、そして死んでしまう
こういう生き方をしてしまう馬鹿な人間こそ真の天才なのだ
こうした人間の器について考えるとき
麻原彰晃
とはどのくらいの人物だったのだろうかと思う
戦術家戦略家としては、時代の煽り、流れをたまたま身につけただけの普通かちょっと優、程度の人間だっただろう
彼には色々と人心を掌握する才覚があったが、それをもって大戦略家たるためには、幼すぎたのだ
自分の欲望を満たそうとする思いが多すぎた
(偉大な戦略家になるにはそもそもそのような私の欲望など微塵も持ってはいけない。偉大な戦略家にあるのは合理に裏打ちされた現実的なビジョンだけだ。)
ここでもしもの想定をしてみる
彼がその信徒を増やすなかばで(まだ外部に対する犯罪を犯す前)ポックリ死んで
上祐あたりが引き継いでいれば恐ろしい新興宗教になっていたに違いない
上祐がどれだけの戦略家であるか知らないが、今も宗教家をやって信徒を集めている所を見るとそれなりの統率力はあるだろうし、
死んで神格化された存在を使えることはもう凄まじい強みである
キリスト教も仏教も教祖が死んでからがスタートみたいなものだし
やはり教祖は死ななければならない
創価学会の池田大作は死んでるのか生きてるのかわからない状態がずっと続いてる
最近池田への個人崇拝が強まってるというが、まさかそんなやり方があったとは!
死んだ人間が神格化されるという古来からの崇拝強化方に、生きているかもしれない、という近さを付与することで神格化の脆さを補填しているのだ
そう言えば空海もそうだったな、と今思い出した
話を移して軍人
石原莞爾を偉大だったというものが多いが
「世界最終戦論」なんて世迷いごと言ってた奴が
偉大な戦略家な訳ないだろ!!!
「国民の前で踏ん反り返ってたい」という欲望のまま総理の座に居座り続けた東条英機よりはマシだったかもしれないが……しかし石原莞爾とてあの腐敗した体制を作った一人なのだ
もし東条に石原莞爾が勝ったところで帝国陸軍はロクな末路を迎えていなかったことは確かだ
さて、
俺は戦術家にも職人にもなれない
そう言った天才性や異能を持っていない
俺がなるべきは大将、戦略家だ
しかし戦略家にはそうそうなれない、どこの世界でも
だから今のうちに身の振り方を考えなければいけない
コイツになら舵取りを任せていいと、俺より賢い戦術家達に思わせなければいけない
はっきり言うと
戦略家 プロデューサー 企画
戦術家 監督
士官 作画監督 演出
技能職 アニメーター
兵 アニメーター
こういう形である
俺は人を顎で使う立場が合うはずだ