君の夢、僕の夢
最終話です
バタンっ。ガタンっ。ガラっ!
ホント今日は賑やかだなあ……ぼんやりとそんなことを思っていると、頭上で叫び声がした。
「ちょっ、ナンなのこれっ!」
のろのろと目だけを上げると、そこに、まりあがいた。まりあはさらに声を張り上げ、
「どうしてこんなトコで寝てるの! お酒臭い。ねえ、どうしたの」
矢継ぎ早に言われて、何か言おうと思ったけれど、無理だった。
「ねえ、私どうしたらいい? 何でもするから、お願いだからねえ、しっかりしてよ!」
声が変だな、って思ってみたら、なんとまりあは泣いていた。泣きながら「ごめんなさい」って繰り返し、丸まった僕の背を何度もさすってくれた。ああ、なんて、優しい手なんだろう。
あれだけ重苦しかったものがホロリと解けていくのを感じる。ありがたすぎて涙が出た。さっきとは違う、温かい涙だった。
「この近所で火事があったの。もう学校から帰ってる時間だから心配になって電話したのに出ないじゃない。飛んできちゃったわ」
いれてもらった番茶を飲んだら、少しスッキリした。吐き気もやっと治まり、居間でコタツに突っ伏すくらいはできるまでになった。
「救急車が走ってたのは知ってるけど……」
「もう! 消防車と救急車の区別もつかないの! そんなことも分からないなんて、馬鹿ね!」
きっとこれが地なんだろうな。怒られてるハズなのに、思わず笑ってしまった。笑いながら、
「ねえ、まりあ。僕、音羽田受かったんだよ」
「知ってるわよ。見たもん。私の学校だから、音羽田。今日制服で来てるの、分かんない?」
見れば前を開けた紺のダッフルコートから見えるダークグリーンのジャケットにスカート。赤いリボン。確かに音羽田の制服だ。
何で気づかなかったんだろうな――笑いながら、僕は後ろに倒れこみ、目を閉じた。
目が覚めると、いつしか部屋の電気がついていて、まだまりあがいた。まりあが出してくれた温かい番茶は、すーっと喉を通っていった。でもって盛大に腹が鳴った。
「もう大丈夫ね」
まりあは真っ赤になった目を細めながら立ち上がると、台所からおかゆを持ってきた。
水分の多いそれは、絶妙な塩加減で本当に美味しかった。食後は、まりあに言われるまま胃薬を飲んだ。朝が信じられないくらいに元気になった。まりあはそんな僕を見て、安心したように笑った。そうして、ひどく思いつめた顔をした。
それからしばらく黙り込んでいたまりあだったけど、やがてポツリ、ポツリと話を始めた。
まりあは母子家庭だという。父親は「どっかで飲んだくれて死んだんじゃない?」とのことだ。で、その母親。まりあいわく「まだ三十代で、私に似て綺麗」で、「男なしでは生きていけない」タイプらしく、今まで色んな男との共同生活を強いられてきたそうだ。だが母親の不在時に男といるのは気詰まりだし、時には母親から「ちょっと出かけてて」なんて追い出されることもあるらしく、「まったく、年頃の女の子をなんだと思ってるのかしら」とまりあは怒ったような、それでいてちょっと悲しげな顔をして言った。
じいちゃんと会ったのは、去年のちょうど今頃だったという。
新しい男を連れ込んだ母親に例のごとく追い出され、いつもどおり市立図書館で時間を潰そうと雪が積もる中を三十分もかけて歩いたのに、蔵書点検期間とのことで図書館は閉まっていた。すっかり歩き疲れ、また行くところもお金もないまりあは、かろうじて屋根のある公園のベンチで、寒さに震えながら座っていたのだという。
そこに声をかけたのが、じいちゃんだった。
「寒くて、お腹もすいてて、『もう、仕方ないんだよな』って、諦めかけてたの。私にはもう、そういう人生しかないんだなって」
そういえば、「誘われてるって思った」って笑いながら言ってたよな。まりあはあの時と同じように笑ってたけど痛々しいだけだった。だけどじいちゃんは意外なことを言ってきたという。
「『わしゃテレビで『メイド喫茶』ってのを見て、一度行きたいと思ってたんだが、この間駅前にできたんだと。でもさすがに一人では行けん。是非とも付き合って欲しいんだがなあ』って。びっくりしたけど、もうここじゃなきゃどこでもいいやって思ってついていったわ。バスに乗っておじいちゃんとメイド喫茶に行って、店員さんの『萌え萌えビーム』を浴びたオムライスを食べたの」って、何それ。じいちゃん、ありえないだろ。あんな堅物の顔して。
「それ以来、時々おじいちゃんと会って、お茶をご馳走してもらって、話を聞いてもらってた。でね、おじいちゃんは言ったの。『わしには自慢の孫がいるんだがね、もうわし以外に身内がいないんだ。もうじき受験なんだが、わしじゃあ相談に乗ってやれんから、家に手伝いに来てくれんかのお。もちろんバイト代は支払うよ』って。でも私の家は生活保護をもらってて、支給額が減るからバイトはするなって母親にキツく言われてたの。だから大学行くのも諦めてた。でも、おじいちゃんは言ったわ。『報酬はまりあさんが十八歳になったら払うってことでどうだい? その頃にはあんたも世帯分離してお母さんと別生計で生活できる。そうしたら今度はバイトだってできる。学費だって自分で稼げる。その時の足しに、家で働いてみんかね。孫は音羽田の推薦を受けるっていうし、色々教えてやって欲しいんじゃ』って。あのメイド服を買ってくれたのもおじいちゃんなのよ。孫がびっくりするのが見たいからって。なのに……」
急に、まりあの目から涙がこぼれた。そこで初めて知った。じいちゃんが倒れたとき、一緒にいたのはまりあだった。彼女が救急車を呼んで、最後までじいちゃんの側にいてくれたのだ。
まりあは、すぐに涙を拭くと、無理に笑顔を作って、
「この間の電話ね、母親なの。男に逃げられて、かけてきたのよ。邪魔なときは私のこと追い出すくせに、一人で寂しいと私にすがるなんて、勝手だよね。ホントひどい親。そんなときは学校以外の時間は側にいないと、わめいたり暴れたりしてホント大変なことになるの。警察呼ばれたことも何度かあって、近所じゃ『危ない家』って有名なの。――だからもう行けないって思った。あんな電話聞かれたのも、恥ずかしくって。だけどさ、気になっちゃって。ご飯食べてるかな、とか、洗濯は大丈夫かな、なんて考えちゃって。さっきサイレンが聞こえたときには、もうダメだった。母親振り切って飛び出してたわ。でも……ひどいよね。あんな終わり方。おじいちゃんのお金、もらう資格なんかないって思ったわ。だから返したの」
「返した?」
「部屋の机に置いておいたんだけど。通帳と印鑑、あとカードも」
「あの部屋に僕は入らないよ。それに他人の通帳なんてもらえない」
「あなたの名義よ。私の名義にすると私の収入だって分かっちゃうからって。あなた名義の通帳と印鑑、キャッシュカードをおじいちゃんからもらったわ。十八歳になったら使えって」
「なおさらもらえないよ。それはじいちゃんが、まりあにきちんとそのお金を渡したいって思ったからなんだから」
「でも」
僕は何だかイラッとして、まだ何か言おうとするまりあを遮った。
「だったら堂々ともらえるようにすればいい。今までどおり、いや、もっと少なくてもいいから家に来て『これだけやれば一〇〇万円もらってもいい』って納得できるくらい家のことやってよ。何にもやりたくないときや、行くところがないときは、遊びに来ればいいよ。話したくないなら、上の部屋で引きこもっててくれたらいい。何かあるたび、『まりあは家を追い出されてないかな』なんて心配したくない。いつでも、この家にいてくれたほうが、僕は安心できる」
「そんな、甘えるわけにはいかないわ。そんな、フツーないもの」
「フツーが何だって言ったの、まりあじゃないか。僕たちとは全然環境が違う連中が決めたフツーが何だよ。何もないもの同士で手を取り合ったって、助け合ったって、何が悪いってんだ」
仏壇の三人が笑ってる気がした。
四月。僕らは、同じ高校に通い始めた。でもって今度はまりあが受験生だ。
あれから――まりあは、ほぼ毎日、家に来ている。
いまや彼女の口癖は「そんなことも分からないの。馬鹿ね」だ。最初はなんかカチンと来て言い返したりもしたけれど、口ではとても勝てなかったし、そのうち慣れた。
「たとえ懐が貧しくても、心までは貧しくならないの。高級料理は無理だけど美味しいものを食べて、激安の服でできるだけカワイクして、読みたい本は図書館で借りるの。インターネットだって図書館でできるわ。もちろん、お金を出してる人よりは制限あるけど、楽しみは将来までとっておいてるって思えばいい。いい大学に行って、いいところに勤めて、ガッチリ稼いで欲しいものを手にすればいいんだもん。『貧乏=人間小さい』なんて絶対ならないんだから」
そんなことを言いながら家ではダサダサだぼだぼジャージだが。それはやっぱり、警戒、ってか、しっかり線引きしてるってことかもしれない。いちお年頃ってヤツだし。ま、出かけるときはかわいいから、いっか。そんな格好を見せれるほど気を許してくれてるってことだ。
まあ、そういう彼女のポリシーのもと、一緒に激安店を回り、図書館をヘビーユーズした。
僕は高校入学と同時に新聞配達以外に夕方週三回、コンビニでバイトを始めた。住宅関係は伯父さんが払ってくれていたけど、それ以上甘えるわけにはいかなかった。大学の学費もためないといけない。まりあに勧められて、奨学金の手続きもした。
「年収一〇三万までなら、おじさんの税金も増えないし、所得税もかからないから。奨学金は非課税所得だから気にしなくても大丈夫。だから食費と、光熱費と、携帯代(固定電話を解約して契約した。ちなみにまりあとは同じ携帯会社だからメールも電話もタダだ)、あとは雑費で月五万は最低必要でしょ。貯金も考えて月八万くらい稼げば? 奨学金は返さないとだし、高校卒業したらこの家を出て行かないとだし、いつまで授業料無償化が続くか分からないし。その時に備えて勉強もちゃんとしなよ。授業料減免を申請するには何より、成績優秀じゃないとダメなんだから。だからバイトもやりすぎはダメ。もちろん一〇〇万円は手付かずでいなよ」
一体どこで調べて来るんだか、感心するくらいお得なお金の話には強かった。ついでながら、まりあは自分のバイトについても計算したらしい。
「去年までは週二十五時間でバイト代は時給九百円(コンビニよりは高いそうだ。僕が考えてた時給三千円には腹を抱えて笑った)として、三月までの五ヶ月弱で約四十万。でもこれからはこの家に来るときはご飯を食べることにするから、時給は駅前のレストランと同じ七五〇円として、平日夕方の三時間で週十五時間。一年間で約六十万。これでどう?」とのこと。で、平日、どうしても来れない場合は週末に働くと言う。僕にはどうでもいいことだったんだけど、それで彼女が心置きなく家に来れるなら、いいや。そう思い、僕は契約書の、空白になっていた契約期間終了日に来年四月のまりあの誕生日翌日を書いた。でもこれもまりあを納得させるためだけのものだ。僕はその日に、まりあに一〇〇万円を贈与する形をとることにした。一一〇万以下なら、贈与税もかからないらしいし。これ、図書館で仕入れた知識。
週末、まりあは「遊び」に来る。いつも食材を持って。「貧乏=お金にだらしないって思われるのがイヤなの」ってのも口癖だろうな。
そんなまりあの志望校は、県内の最難関大学だ。いわく、
「県内から行けば授業料が十万円も安くなるからね。あの大学、県内の就職率はダントツ高いし、何より学生寮がある! 奨学金もらって、家庭教師でもして、お金をガッチリ貯めなきゃ。安心して、高校入試のときみたいに、私がちゃーんと事前リサーチしといてあげるから」
そんなこんなで僕たちは日々を過ごした。まりあは、何だかんだいってほぼ毎日ウチに来てたけど、母親が不安定なときはパッタリと来なくなる。「ダメ親なんだから」と冷静に分析しながら、母親が泣きながら電話をかけてくると慌てて家を飛び出し、数日後にはまるで捨てられた子猫みたいに目を赤くしてやってくる。何度放り出されても「私がいなきゃ」と母親の元に戻る彼女。普段はあんなに合理的に生きてるのに、どうしてなんだろうな。だから、ほっとけないんだけどさ。
今日は日曜日。バイトもない昼下がり、ランチはまりあ特製の冷やし中華だ。
「やっぱり夏はこれよね」なんて笑顔で言ってたまりあが一転、苦い顔でチャンネルを換える。典型的ホームドラマが始まったのだ。
「だいたい、こういう『家族は両親揃ってて、親は子供を愛してて、みんな仲良しが当然』みたいな番組が多過ぎでしょ。こういうの見てみんな洗脳されちゃうのよ。あー怖い怖い」
でた、まりあのアットホーム嫌い。まあ分からなくはないけどさ。前は僕もそうだったから。「所詮、作り物じゃん」という僕の本心からの慰めが、まりあの怒りに火を注いだのは先日のこと。あれ以上の泥沼はゴメンだ、そう思い、僕は慌てて話を変えた。
「ねえ。まりあは、将来何になりたいの?」
「公務員に決まってるでしょ。雇用は安定、福利厚生も完璧。リストラも、まずないし。ボーナスも昇給もバッチリ。一般企業じゃこの安定ぶりは無理でしょ。そこで手堅く結婚相手も見つければ、一生安泰ね」
「あ、そ。じゃ僕、公務員を目指そうかな」
「どういう意味?」
麺を持ち上げたまま怪訝な顔をするまりあ。まったく。僕はまりあに言ってやる。
「そんなことも分からないなんて、馬鹿だなあ」
(終わり)
長くお付き合いいただいて本当にありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたなら、とてもうれしいです。




