さよなら
次にまりあと会ったのは四日だった。会えない二日間は恐ろしく長かった。いつものメイド服で現れたまりあを見たときには、抱きつきたい衝動にかられたけれど、耐えた。忘れたらいけない、彼女は、じいちゃんのお金で雇われたからここにいる人であって、僕がどうだからって一緒にいてくれるわけじゃない。カンチガイするなって何度も何度も自分に言い聞かせた。
やがて学校も始まり、いつもの日常が始まる。だけど。
「最近元気がないですね。まさか風邪ですか? 具合が悪いときは遠慮しないで言ってくださいね。受験間際は、ナーバスになりやすいですけど。でも拓真さまなら大丈夫ですから」
まりあはそう僕を励ましてくれる。そう、受験も近い。だけどXデーも近い。僕は日ごとに追い詰められた気持ちになっていた。いやむしろ、受験のことはそんなに思い悩んでなかった。ダメでも一般入試があるし、ここまできたら、なるようにしかならない。
だけどまりあは……。
やがて願書の提出日が来て、倍率が予想より少し高いことが分かった。まりあは届いた受験票を手にコタツにもぐる僕にお茶を出すと、その場に正座して、
「いかに平常心を保つかですよ。拓真さまは、今は受験のことだけ考えて下さい。後のことは何にも心配いりません。私がいますから」
凄く染みた。なんて心強い言葉なんだろう。
今だけかもしれない。でも今いてくれるなら、いいじゃないか。ここまで言ってもらって、ここまで色々してもらって、これでダメでしたじゃ情けなすぎだろ。もう受かるしかない!
それから、家でも学校でも、作文を書きまくった。最初は時間が足りないこともしょっちゅうだったのに、段々と時間内に書き終えられるようになったし、直される文も減った。
そして二月になった。
「いってらっしゃい」まりあにお弁当を渡されて、僕は音羽田に向かった。
知らない顔ばかりが集まる試験会場は、緊張感が溢れていた。周りがみんな賢く見える。
午前が作文。時間内には完成したけど、提出してから「しまった。漢字を間違えた」とか「あの書き方はよくなかった」なんて色々考えてしまい、ため息混じりに弁当を開けると、どんっ、とカツ丼だった。余りにベタで笑っちゃった。水筒にはいつもの番茶。頑張ろうって気になる。
午後の面接は、大人三人を前に緊張して、声が上ずってしまった。だけどだんだん落ち着いてきて、家のことを訊かれても、想像以上に冷静に答えられた。練習の成果だな。
家に帰ると、まりあが台所から飛び出してきた。
「お疲れさまでした、拓真さま。さあ上がって」
まりあの笑顔を見て、ほっとする。着替えて居間に行くと、コタツに紅茶とまりあ特製ホットケーキ・ケーキがどどんと載っていた。
「うわ、すげえ。やった!」
そのとき、まりあのポケットが震える。
「あ、電話だね。出てきなよ。僕テレビ見るからさ」言いながら、テレビをつける僕。ちょうどアニメの始まる時間だったのだ。先週、気になるところで終わってたからな。
携帯を取り出したまりあは、ちょっと固い表情になった。「じゃ、お言葉に甘えて」そう言って、まりあは居間を出て行った。
僕はケーキを平らげ、アニメを見終わった。あー、今日は一仕事したなあ。ゆっくりしよう、なんて思いながら、トイレに立った。廊下に続く、衾を開けたときだった。
『あたしを捨てるのっ!』
女の絶叫が聞こえた。続けて「だからちょっと待ってって言ってるじゃない」というまりあの声を掻き消す号泣。思わず台所を見た。
まりあが、携帯を持った手を下ろして、困ったような、悲しいような顔をしていた。携帯からはなおも罵声が続いている。『この人でなしっ!』『あんたみたいな薄情者、ろくな人生にならないからっ!』はっきりと、それは聞こえた。
ガラス越し、思わず立ち止まっていた僕に、まりあが気づく。
彼女は慌てて、携帯を切った。すぐに呼び出し音が鳴ったけど、まりあがボタンを押すと、それは止んだ。多分電源を落としたのだ。
「聞いて、ました?」
そう言うまりあは、顔面蒼白だった。それが余りに痛々しくて、僕は何度も首を振った。
「そうですか」まりあは悲しげに笑うと、僕に背を向けて、材料を切り始めた。
「拓真さまはウソがつけない人ですよね」って前に言われたことを思い出した。ああ、どうして僕って、こんな時くらい上手にウソがつけないんだろう。情けなくて腹立たしくて廊下の壁を思いっきり蹴り飛ばしたくなったけど、耐えた。
ほどなく運ばれたのは、僕が一番大好きなから揚げカレーとサラダ。だけどなんでか味がしない気がした。さっきのケーキは、あんなにおいしかったのに。
まりあは、七時半になると待ってましたとばかりに帰っていった。彼女がお金で働いてる事を思い知らされた気がした。いまさらだ。
翌日、バイトに行こうとしたらまりあから電話があった。「今日は午後から行きます」低くこもった声には、どこかよそよそしさがあった。暗くなる心を振り切って僕はバイトに行き、残ってたカレーをガッツリ平らげて学校に行った。「受験が終わって気が抜けたか。で、どうだった?」と担任に昨日のことを訊かれたけど、何て答えたか覚えてない。
家に帰ると、まりあがいた。私服姿だった。部屋の隅に、二階に置いていたはずの彼女の荷物が固められている。心臓が強く鳴った。それって、まさか……。
「お世話になりました」
彼女は淡々とそう言って、深々と頭を下げた。余りに突然過ぎて言葉がない僕を尻目に、まりあは隅の荷物を鷲づかみにして、逃げるように家を出て行った。一度も振り向かなかった。ガラッと玄関が開き、バタンとスタンドの跳ね上がる音がして、静かになった。
こんな日を迎えたときの自分を想像してたけれど、泣くことも、怒ることもなく、ただボウゼンとしていた。だけど心は意外と静かだった。これは覚悟を決めていたからなのか、それとも、たくさんの人を見送っているうちに僕の心が冷え切ってしまったからなのか――少し考えたけれども分からなかったし、無意味だと思ってやめた。
「あ、制服がしわになっちゃうか」
僕はそう言って立ち上がり、二階に行く。着替えて、居間に入ってコタツとテレビをつける。アニメを見てたらお腹がすいて、台所に行った。冷蔵庫には作り置きのおかずがたくさんあって、冷凍ご飯を温めてそれを一緒に食べた。おいしいと思った。なんだ自分、結構大丈夫じゃないか。その後風呂を沸かして、テレビを見てるうちに眠くなった。だから電気とテレビをつけたままコタツで眠った。もったいない気もするけど、暗闇で独りになる自信がなかったのだ。大丈夫、すぐまた自分の部屋で眠れるようになる。だから今だけは、自分を甘やかそう。
次の日もちゃんと起きてバイトに行って、ご飯を食べて学校に行った。フツーに授業を受けて、フツーにクラスのヤツと話した。ちゃんと毎日は過ぎた。作り置きは少なくなって、洗濯物は溜まってきた。少しずつ、まりあの痕跡が消えていく。いたことを忘れるのも、すぐだ。週末からは自分でご飯を作って、洗濯をしよう。掃除は時々でいいや。昔みたいに。
ご飯と洗濯って、こんな大変だったっけ? そんなことを思って週末を終えると、いよいよ合格発表の日だった。だけど僕は自分でも驚くほど冷静だった。というより、合否が一体なんだっていうんだろう、そんなことを思う冷めた自分を、少し怖いと感じていた。
「やったな、橘!」
合格発表の貼り出しを見に行ってくれる身内もいない僕は、担任に呼び出されて合格を知ったのだが、「ああ」と冷めた反応しかできなかった。
「どうした? 元気ないな。顔色も悪い。具合悪いなら早退していいぞ。インフルエンザも流行ってるし。安心し切ったときにこそ、今までの疲れが出て、実はヤバイっていうからな」
そうなのかな、と思ったが、一人になりたかったから、僕はありがたく早退した。具合が悪いなら明日も無理するなとまで言われた。じゃあそうしよう。結果によっては落ち込むだろうと明日のバイトを休みにしといたのは正解だった。今日は一日、ダラダラしよう。
「じいちゃん、ばあちゃん、母さん、僕、音羽田に合格したよ。すげーだろ。上昇人生の第一歩ってヤツだよね」
あんまり気負った自分の台詞がおかしかったけど、写真の三人は同じ顔をしていた。線香が煙る静かな部屋。この、言いようのない虚しさ。僕にはもう、合格を喜んでくれる人はいない。
「よしっ、ケーキ買いに行こう。合格祝いだ!」
僕は全てを振り切るように声を張り上げると、財布とチャリの鍵を持って家を出た。
目指したのは家から五分のコンビニ。だけどケーキは売り切れてた。いや、合格祝いにはケーキを食べなきゃ! 僕は次のコンビニを目指した。三軒目でやっとケーキを見つけた。飲み物も買うか、ドリンクコーナーに近づいた僕の目に入ったのは、色んなフルーツがプリントされたカラフルな缶だった。僕はそれを無造作に三本、カゴに入れた。
レジで精算してたら、「年齢確認が必要です」というかん高い声が流れた。チャラい兄ちゃんがチラッと僕を見たけれど、すぐに目を逸らした。老け顔だからな、と思ったものの――僕が未成年でも何でも、どうでもいいってことだ――そう気づいたら、なんか笑えた。
家に帰って、喉が渇いたからレモンチューハイを一気飲みした。ちょっと苦いジュースって感じで、フツーに飲めた。冷蔵庫から最後の作り置きも全部出して、レモンチューハイでケーキを流し、さんまのお酢煮をスクリュードライバーで飲む。そんなメチャクチャをやってたら、なんか気分がよくなってきた。体もふわふわする。こーゆーのが気持ちよくて大人はお酒を飲むんだな。コタツはあったかくて、気持ちも体も軽くって、至福だった。そのまま眠った。
だけど目覚めはサイアクだった。
目覚まし時計がけたたましく鳴って起きたとたん、いきなり襲ってきた吐き気。トイレに行こうと体を起こすと、激しい頭痛。まっすぐ歩けない。どうにかトイレに入って派手に吐いた。体のアルコールを薄めたほうがいいと思って台所で水を飲んだ途端、またしても強烈な吐き気をもよおし、今後は流しで吐いた。身体はふらつくし頭痛はひどいしで動けず、僕は流しの前に椅子を運び、流しに突っ伏した。少し動くだけで頭がズキズキし、吐きすぎて胃が痙攣して息するのも辛い。だけどどれだけ吐いても、胸の奥に固まってるドス黒いものは少しも薄まらなくて――苦しかった。苦しすぎて、もう全部終わりにしたい――涙が出た。吐き気としゃくりあげでさらに息が苦しい。余りに辛くて、僕は泣きながら吐き続けた。
水を飲んでは吐き、を繰り返してたら、少しずつ吐く頻度が減っていった。そこで電話が鳴る。時計を見たら8時半。やば、学校始まってる。僕はふらふらと、できるだけ急いで廊下の電話に出た。電話はやはり担任からで、「大丈夫か? 今から行こうか?」と言うものだから、「寝てたいのでいいです。叔母が来てくれるし」と白々しいことを言って電話を切った。
寒気がする。動いたからか、治まりかけていた吐き気がまたしてもこみあげる。僕は口元を押さえながら仏間に行き、毛布と座布団を持って台所に戻った。またまた襲う吐き気をやり過ごし、台所の床に転がった。動かないほうが吐き気も治まるし、これなら寒くない。にしてもサイレンがうるさいなあ。どこかで交通事故でもあったんだろうか……意識が遠ざかっていく。
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