合格祈願
まりあは、六限終わりで家に帰ると、すでに台所に居ることが多かった。でもって五限終わりだと僕が先だった。いつも四時半くらいには家に来るようだ。最初こそ何もない我が家の冷蔵庫を埋めるためか何度か買い物してたけど、今じゃ週一回くらいで、その時は、五時ギリギリ、大量の食料を買い込んでくる。破格値で。そのたび「遅くなってすみません」と言うものだから、「来るのが早いよ、五時からなんだから」と何度か言ったが、「私が好きでやってますから気にしないで下さい」と笑顔で返されたので、以来甘えている。
甘える、といえば、ほかもそうだった。ほぼ毎日顔を合わせて、下着まで洗ってもらってると、今更カッコつける意味もないというか。ごろごろしたり、時にマジ寝したり、アニメ見たりも平気でするようになったけど、まりあは変わらないどころか、毛布をかけてくれたり、「これ面白いですね」なんて言いながら、一緒にアニメを見てくれたりする。でも途中で台所に戻るから、付き合いなんだろうな、きっと。僕らは友達でもなんでもなく、あくまで仕事での付き合いだから、僕がどんなだろうと関係ないってことだよな。だったら、パンツ一丁で歩き回るとか、毎日風呂に入るとか、人として最低限の礼儀を保ってれば、後はいいってことで。
僕に遠慮がなくなったからか、まりあもそうなってきた様子。
「明日のハンカチ、鞄に入れときますからね」とか「青の下着、破れたところ縫いますから、よけときますね。黒のは直せないので、今度新しいの買ってきます。来週××(某格安衣料品店)でセールやりますから。お好みの柄があるようなら、教えてくださいね」なんてまめまめしく僕の世話をする一方で、「二階のタンスから着ていないトレーナーが出てきたので、使ってくださいね。洗っておきますから」だの、「仏間の押入れから、いただきものの箱がいっぱい出てきましたので見て下さいね。全部未開封でした。できれば油セットは使いたいです。賞味期限も近いし。バスタオルなんかは要らないなら、リサイクルショップで売っていいですか?」だのと僕より知ってるんじゃないの? ってくらい家中のことを掌握するようになった。仕事もできるし、言うことも筋が通ってるしで、「よきにはからえ」になるのは自然の流れってもの。
「中間テスト、再来週からですよね。どうですか?」
ちゃぶ台で数学のプリントを広げていた僕のところに、まりあが番茶を持って現れた。
「うん、まあ、なんとか」とか言いながら、僕はいつものように最後の難問の前で頭を抱えていた。数学は苦手だ。いつも最後の一問が、どうしても解けない。
「拓真さまは、どちらを受験なさるんですか?」
「え、イチオウ音羽田のつもりなんだけど……」
音羽田はここらで一番レベルの高い県立高校だ。でもって家からチャリで二十分で行ける。
「そうなんですか。ちなみに推薦で?」
「うん、そのつもり」
「だったら、今度の中間ってすごーく大事ですよね。校内推薦に反映される最後のテストですから。推薦もらえそうですか?」
「うーん、志望者多いみたいだし、テスト結果次第ってこの間担任に言われたんだけど……」
最後の一問が途中から空白になってるプリントを見ると、とても「大丈夫!」とは言えない。
まりあは僕の視線に気づいたらしい。ちらりとプリントを見て、
「あら、これ途中式が間違ってますよ」
と来た。チラ見しただけなのに! 驚く僕に、まりあは続けて、
「でも考え方は合ってます。落ち着いて考えれば大丈夫ですよ。まずここのyですけど……」
プリントの空白にサラサラと式を書いていく。凄い、スラスラ進んでいく。「で、次にですね」説明もすごく分かりやすくて、言うとおりやってみたら、「あれだけ悩んだのはなんだったんだ?」って思うくらい、フツーに解けた。
「ね、簡単でしょ。じゃあ、これ解いてみて下さい。夕食のあとに拝見しますね」
そう言って渡されたのは、僕が問題を解いている間にまりあが手書きした、二次関数の問題だった。僕が「よく分かってない」ところを突いた内容だ。それを今、自分で作ったってか?
「大丈夫、今のやり方を使えば簡単です。もうすぐ夕食できますから、頑張ってくださいね」
以来、夕食前にちょっと教えてもらいながら問題を解き、夕食後にそれの解説、というのが日課になった。
「英語は基本全文暗記ですよ」と教科書を持ったまりあの目の前で範囲の単元を暗誦し、理科は図を書きながら解説された。でもって何処から持ってきたのか、全ての教科のテスト範囲の問題のコピーを大量に渡され、ひたすら解いた。まりあが帰った後もせっせとやっているうち、だんだん問題にかかる時間も少なくなり、迎えた中間テストは我ながらうまくいった。
で。
「クラス一位なんて、凄いじゃないですか。これで校内推薦志願書も堂々と出せますね」
「まりあのおかげだよ。あとは神のみぞ知る、だ」
喜んでくれるまりあの横で、僕は浮かれてるのに気づかれないように平静を装って、ゆっくりと志願書を書いていた。
まりあに中身を確認してもらい、忘れないように鞄に入れると、「今日はおやつを用意しました」と、まりあがコーヒーとホットケーキを運んできた。
「どうしたの、これ!」と驚く僕に、「昨日、バスタオルを売ったお金で買っちゃいました」そうまりあは、いたずらっぽく笑った。
甘いシロップがかかったホットケーキを頬張りながら、僕の順位表を笑顔でじっとみているまりあを見てると、本当に、嬉しくって仕方ない。そういや、じいちゃんも僕がいるのに気づかないで、ニヤニヤして見てたよなあ。仏壇の前で。なんか思い出した。
志願書を出すとあっという間に師走が来た。
校内推薦結果はまだ出なかったけど、「音羽田の推薦入試は面接と課題作文ですから、今から練習しときましょう」というまりあの意見により、夕食前には作文を書き、夕食後は添削と面接練習というのが新たな日課となった。
「作文はダラダラ自分の意見ばかり書いてはダメですよ。自分の体験や出来事を、意見を結びつけて、説得力をつけて書いて下さいね」
「座るときは、軽く手を握って膝に置きます。背筋は伸ばして。試験官をちゃんと見て、ハキハキと話して下さいね。大丈夫、普段どおりにしていれば問題ありません」
一体、この人ナニモノだ? さすがにツインテールはしなくなったものの(寒いからね)、相変わらずのメイド姿に、僕はそう思わずにはいられない。だけどまりあの正体がナンだろうと、言うとおりにしていれば間違いないって思えるし、事実そうだ。
何より、まりあが家に来てからというもの、信じられないくらい毎日が楽しい。
まりあも打ち解けてくれるようで、同じコタツに入って雑談をしてくれるようになった。時に一緒にお茶を飲みながら。前は絶対僕の前でモノを口にしなかったのに、凄い進歩だ。本当にいいんだろうか、こんな生活。毎日が充実してて――だからこそ、怖い。
校内推薦が取れたことを報告すると、まりあは喜ぶ、というより、むしろ険しい顔で、
「校内推薦取れたらほぼ合格って通説は、公立高校では通用しません。音羽田は倍率も高いですし。奨学金を狙うなら、これからの成績も大事です。気を抜かないで頑張っていきましょう」
ピシッと言われて、僕の背筋もピシッとした。
よって夕食前の勉強と夕食後の練習と復習は、カンペキ日課となった。まりあも変わらず付き合ってくれてる。でも、いつも厳しいわけじゃない。終業式には「たまにはお休みしましょうか」と勉強は軽めにしてくれて、特番テレビを見て息抜きでもしたらと勧めてくれたし、クリスマスにはホットケーキを重ねてケーキを作ってくれた。それを一緒に食べながら、お笑い番組を見て一緒に笑った。外は寒かったけど、家は全然寒くなかった。
冬休みに入ると、まりあは長めに家にいてくれるようになった。朝来て、そのまま居続けることもあった。やっぱ学生なんだ、な。いったん帰るのも面倒だろうし。だけど何だか悪いや。
二階の僕の部屋の向かいに、空いてる部屋が一つあった。昔、おじさんが使ってた部屋だそうで、ずっと物置になっている。そこをまりあに提供することにした。埃を叩いて掃除機をかけたら、それなりになった。母さんとアパートで使ってて、今は僕の部屋の机になっていたコタツをセットして、押入れの中身も全部出して、イチオウ芳香剤も置いといた。
「よろしいんですか?」と、まりあは恐縮したけれど、
「どうせ使ってないからさ。時間外はここで休んでよ。僕も気楽に昼寝とかするからさ。モノを置くなり、模様替えするなり、好きにしてくれていいから。余った南京錠あるから、使って」
すると翌日、早速南京錠が取り付けられ、まりあはずっと家にいるようになった。まりあが二階にいるときは居間で過ごすようにした。時々、真上にあるまりあの部屋からコトリと音がすると、何だか安心できた。
「拓真さま、お正月はどうされるんですか?」
年の瀬が押し迫ったある日、まりあが突然訊いてきた。
「別に……。フツーにしてるけど。年賀状も書かないし」
「じゃあ、一緒に初詣に行きませんか? 忌中も明けましたし。ひきこもってばかりではおじいさまも心配しますから」
「えっ」僕はもの凄く驚き、「でもお正月って祝日だよ? 仕事休みだから」なんて口走ってしまった。アホだ。後悔したけど、遅い。
だけどまりあは笑顔を崩すことなく、
「仕事じゃなくて、一緒に行きませんか? よければ一緒に、合格祈願に行きましょう」
今度はもう、断らなかった。
「それと、大晦日なんですけど。遊びに来ていいですか?」
まりあはなおも嬉しいことを言ってくれる。もちろんOKだ。
「よかった。ではよろしくお願いします。すぐご飯運びますね」
と、まりあは軽やかに台所に戻り、よく聞くと歌まで歌っている。
まりあも、「嬉しい」と思ってくれてるんだろうか。そうだったら僕も嬉しい。だけど。
契約っていつまでなんだろう? 見せられた契約書を必死に思い出すけど、そこはどうしても思い出せない。
一〇〇万円で働いてもらえる期間ってどれくらいだろ?
近所のコンビニは時給八〇〇円だったけど、家政婦ってもっとするよな。千円くらい? あと家庭教師みたいなこともしてもらってる。確か家庭教師やりますって電柱に貼ってあったチラシには、時給二千円って書いてあった気がする。じゃあ合わせて時給三千円として……週二十五時間働いてもらってるから、七万五千円。一ヶ月で三〇万。それで一〇〇万を割ったら、三ヶ月ちょい。あと一月くらいってこと?
ゾッとした。
いまさら一人の生活なんて、どうやってするんだろう。想像できない。したくない。この家からまりあが居なくなるなんて。温かい部屋なのに、背筋がワッと冷たくなる。
そして大晦日。
お休みの日がそうであるように、「温めるだけ」に準備されていた朝食を食べ、なんとなくテレビを見ていた。これが、じいちゃんがいた時の毎日だった。なのになんで、こんなわびしいんだろう。賑やかなテレビを聞いてるだけで、無性に寂しくなる。
「こんにちは」昼前に現れたまりあは色んなものを持ってきた。「遊びに来ました。これ、明日の分も含めて手土産です」
台所に並べられたタッパーには、色々な料理が入っていた。
「実はこの間、台所の棚に重箱を見つけたんです。明日はこれを詰めて、一緒に食べましょうね。あ、小豆も煮て来たし、お餅もありますよ。今スーパーに行っても何でも高いですから」
軽めの昼食をすませて、二人で家の掃除をした。まりあは言った「これからいっぱい食べますから。ちゃんと体を動かしましょう!」
まりあは本当に手際がよかった。新聞紙で窓を拭くとピカピカになるなんて初めて知った。床は米のとぎ汁ってのも。これのおかげでいつも廊下がツヤツヤしてたんだ。感心するとともに、「いなくなる時のために今、教えてくれてるのかな」なんて思ったりもした。
その後、早めの夕食を一緒にとった。まりあはいつものメイド服じゃなくって、手編みっぽい白のセーターにチェックのスカート、レギンスという私服姿。新鮮で、かわいかった。そんなまりあと、同じコタツで同じモノを食べて同じテレビを見て一緒に笑った。そして夕方。
明日の待ち合わせ場所を確認して、まりあはいつもより早い時間に帰っていった。「温めて食べてくださいね」と、ちゃんとダシをとったつゆと、軽くゆがいた蕎麦、薬味を用意して。
僕は紅白を見ながらそれを食べ、除夜の鐘を聞きながら眠りについた。掃除で疲れていたからかぐっすり眠れた。
翌日は、見事な晴天だった。
まりあが用意しておいてくれた、厚手のセーターにコットンパンツ、ダッフルコートにマフラーという完全防備で家を出た。時間より十分ほど早く着いたけど、まりあはもうそこにいた。
灰色のワンピースに白のハーフジャケットとブーツ。ちょっと大人っぽい格好でもやっぱりかわいい。並んで歩けるのが夢みたいだ。
いつもは閑散とした神社には、人が溢れていた。参道を埋める拝観の列に並び、昨日の紅白とか、これからの予定とか、たわいもないことを話しながら、時間を潰した。
やがて列の先頭になり、僕らは賽銭を投げて、祈った。
音羽田に合格しますように。
一人になっても、ちゃんと前を見て生きていけますように。
その後、おみくじを引いた。大吉だった。まりあは僕のおみくじを覗き込み、
「学業成るですって。よかったですね、きっと合格ですよ」
そう言って向けられた笑顔は眩しかった。よくよく考えたら、こんな青空の下、家から遠いこんなところで、二人でいるなんて初めてのことだ。なんだかドキドキする。そんな時だった。
「あら、拓真じゃない」
振り返ると、そこにはやけに色艶のいいおばさんとイトコがいた。さらに丸みが増した二人は挨拶もそこそこ、まったく遠慮無しにまりあをガン見してた。よりによってまた、こんな時に――焦る僕を尻目に、まりあは深々と頭を下げると、よそいきの声で、
「初めまして。橘くんにはバイト先でお世話になってます」
おばさんは小首を傾げながら、「バイト先? ああ、新聞配達。まー、若いのに。大変ねえ」
やけにかん高い声を上げて、棒読みチックにそんなことを言う。まりあはニッコリと笑って、
「ええ。でも若い頃の苦労は買ってでもしろ、って言いますから」
言いながらおばさんの隣でやたら幅をとってるイトコをガン見するものだから、僕は笑いをこらえるのに苦労した。
その後、僕らは家に戻り、ゆうべまりあが詰めてくれたおせち料理と、お雑煮を食べた。その後は古風に福笑いやトランプなんかをして、おやつにおしるこを食べた。いっぱい笑って、いっぱい食べた。まりあは夕方に帰り、僕はその後も居間でだらだらと過ごしてコタツで寝た。彼女がいた空間から離れるのが、なんかイヤだった。
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