100万円の時間
翌日は天気予報のとおり、やっぱり雨。小雨だけど、カッパの上にしんみりと染みる水は冷たい。息も白い。いつも秋はあっという間に終わる。もう冬だ。
カッパを着て、ビニールにくるんだ新聞を配る。早く出たおかげで、いつもどおりに配り終えた。帰ると、またしてもいい匂いが家の周りに立ち込めている。それだけで寒さと疲れが吹っ飛ぶ。なんか安心する。
「ただいま」
「おかえりなさいませ。お疲れさまです。寒かったでしょう、早くお上がり下さい」
僕が濡れたカッパを脱ぐと、まりあがさっと受け取った。外でバッサバッサと雨水を払うと、玄関のフックに手早くそれをかける。
何か奥さんみたいじゃね? 意味なくドキドキして、居間へ。
うそっ。コタツが出てる! 本当に寒かったんだ~。思いながら足を入れると、凄く温かい。
「ありがとコタツ。ちょうど寒かったんだ」
「それはよかったです。さあこれを食べて、温まって下さいね」
運ばれてきたのは大盛りカレーうどん。恐ろしい勢いで白い湯気が上っている。ちょっと空いていたお腹が一気に空いた。ああ、かつおダシ効いててウマッ。ショウガがあったまる~。
ホコホコして家を出た。雨道三十分もスイスイ行けそうだ。学校で、やたら哀れまれてる僕だけど、まあ、こんな元気もあるんだよ。うん。チャリの横を、車が何台も通っていく。車内にはウチの制服。時々、「いいな」と思ってしまってたそんな光景も、今日は気にならなかった。
食が満たされてると一日のテンションが上がる。先週までご馳走だった給食が霞むくらい、まりあの作るご飯はうまくてボリュームがあるんだから。今日の夕食は何だろう。楽しみすぎる。ご飯をおいしくいただくために頑張んないとって気になる。
ありがたいなこんな生活。
いつまで続くんだろうこんな生活。
帰りのHRが終わると同時、僕は急いで鞄に教科書を詰め込んで立ち上がった。早く帰ろう。早く帰りたい。でも担任から呼び出されているのが気が重い。そこへ、
「なあなあ。今から俺らメイド喫茶行くんだけど、お前も来ない?」
タケル他二名、一年から同じクラスの細くて切れない腐れ縁。誘ってくれるなんて、まさか気を使ってくれてる? いや、単に目新しいメイド喫茶に興味津々なだけか。でも残念、僕はメイド(しかもカワイイ)を毎日見てるから、まったく行きたいとは思わないんだな。
「これから担任のトコ行かないとだから」
「じゃあ先行ってるよ。終わったら来いよな。分かるだろ、去年できた店。駅ビルの二階」
「何時に終わるか分からないし。今日は、やっぱ無理」
するとタケルがいつもながらの貧乏ゆすりを始めて、
「金ないの? なら気にスンなよ。俺おごってやるから」
「そういうワケじゃ、ないんだけど。今日は気分じゃなくて」
ここで三人は顔を見合わせる。「金なくないんだ、へえ」
あ、なんか不穏な空気。こちらに向き直った三人の目がヤな感じ。
「ってことは、もしかして遺産って入った? なら俺らにおごってよ。実は金ないんだ」
「バカお前、こいつん家見たことあんの? すっげーボロいんだぜ。大型台風でも来たらイチコロだって。遺産なんかあるわけねえよ」
「マジか。てかさー、お前高校行けるの?」
「定時制とか通信なら働きながらでも行けるから、いいんじゃね? 担任もそういう話だろ」
「でもいいよなーうるさい家族いなくってさ。ウラヤマ。女連れ込み放題じゃん。俺これから、親とケンカしたらお前んトコ行くから」
一度も家に来たことないのに、何より彼女いないくせして、意味不明。思いながら、
「無理。今は親戚の家になってるから。勝手に人を入れられない」
「へえ、家まで取られたんだ。カワイソ」
「……じゃあ僕、行くわ。今度、感想でも聞かせてよ」
これ以上は面倒だ。僕はすばやく三人の脇を抜けて、教室を後にした。
今までもあったし、これからもある。仕方ないことなんだ。自分ではどうしようもないことを言われてしまうってことは。
一時間後。
「はあ」
チャリの前カゴに鞄を放り込んで、ついタメイキをついてしまった。いかんいかん、幸せが逃げるじゃないか。
仕方ないって分かってるくせに、やっぱりちょっとコタえたのだろうか。「お前、高校行けるの」って台詞に。担任に「今度の中間で校内推薦もらえるかどうか決まるんだから、頑張れよ」ってハッパかけられたのに、こんなんじゃダメだ。
「さーて今日のご飯はナンだろう」
チャリ置き場に人気がないのを幸い、声にしたら、なんか楽しみさが倍増した。今日は魚の特売って言ってたな。じゃあ今日は焼き魚かな。ホント楽しみだ、うん。
朝の雨がウソみたいな綺麗な秋空の下、僕はチャリを飛ばした。家に着いたのは、六限だった昨日と同じくらいの夕方四時半過ぎ。
「あれ?」
門をくぐると、思わず声が出た。まりあの自転車がない。
どうしたんだろ。今日は歩きなのかな。なんて思いながら、引き戸に何の疑いもなくかけた左手が、ガッと引き止められた。ざわっと、騒ぎ出す胸。
まりあ、いない?
「そっか、夕方は五時から来るんだよな、うん」
でも昨日は、もうとっくに来ていて、料理しててくれたよな……。
「いや、契約は契約だって」
明るい声を出してみる。で、鞄に右手を突っ込む。だけど――鍵がない。
この家に来て三年目。この家の鍵を自分で開け閉めしたことは数えるほどしかない。いつだって、誰かがいてくれたから。確か鞄に入れたよな。ズボンだったっけ。色んなところに手を突っ込むけど、指先に目当てのものが触れてこない。イライラする。
「ああもう、めんどいっ」
思い切って鞄をひっくり返した。派手な音を立てて、教科書が玄関先に散らばる。鍵は数学のノートから転がりだした。僕はそれだけ拾い上げて玄関の鍵を開けた。カラカラと開いた戸の向こうは薄暗い。そんなに長くない廊下の先は、真っ暗に見えた。
「どっ、どうされましたか拓真さまっ」
思わず飛び上がったほど驚いた。振り向けば、まりあが前カゴにスーパーの袋を積み上げた自転車を引いて門前に立っていた。目線は僕の足元、散乱した教科書。急に恥ずかしくなって、
「あ、鍵を出すときに鞄落としちゃって。あ、大丈夫だから」
ムニャムニャ言いながら、慌てて教科書やら財布やらをかき集めた。恥ずかしいのをごまかそうと、できるだけフツーな声で、「買い物、行ってきたんだ」
「はい。今日は特売が四時からでしたから、遅くなってすみません」
返ってくる声がいつも通りでホッとする。僕は三和土に鞄を置いた。笑顔だぞ笑顔。
「何で謝るの。だって五時からじゃない」
振り返ると、まりあが自転車を停め直して、カゴから荷物を下ろすところだった。少しだけ乱れた肩までの黒髪は、今日は下ろしたままだ。寒い中を自転車で走り回ってたのか、頬が赤い。まるで学校の指定コートみたいにシンプルな紺のダッフルコート。膝までの白のハイソックスに黒のローファー。昨日は暗くて分からなかったけど、同じような格好だったんだろう。
その時。ドサッ。カゴから下ろされた荷物が凄い音を立てた。思わず駆け寄り、半透明ビニール袋に入ったそれを取り上げると……。「おっ、重っ! 何これっ」
中を見ると、恐怖! 青光りする尖った頭が透明袋に押し込まれて一塊になってる。
「『さんま』です。一袋詰め放題三百円なんですよ」
かわいい笑顔で言うことソレですか。
「コレ? 十匹、いや軽くそれ以上はあるよね。食べ切れないって」
「大丈夫です、冷凍しますから。さあ早く中へ。お茶をいれますね」
まりあの手には、昨夜見たディスニーキャラのビニールバッグと、大きな巾着袋。微妙に四角くなってる。学生鞄――っぽいな。
まりあは僕が部屋着に着替えている間にお茶をいれてくれた。
「じゃあ今から夕食作りますから、お待ち下さいませね」
薄い襖ごし、狭い廊下を挟んで台所。これまた薄いガラス戸があるだけだから音がよく聞こえる。トントン、カチャカチャ、ぐつぐつ。音だけでなく、匂いも漏れてくる。これは肉じゃがだな。シャカシャカ音がするのは大根おろし。メインはサンマの塩焼きかな。
隣の仏間を見る。目線の先には、じいちゃんの遺影がある。僕は思わず呟いた
「ありがとうじいちゃん」こんないい生活をくれて。
この世に一人きりなんだと思い切れるまでの時間をくれて。
僕は知ってる。この時間は、じいちゃんがコツコツ溜めてた一〇〇万円がくれてる時間だってこと。その分働いたら、まりあはいなくなるってこと。契約期間までの日々だってこと。
だから、終わりがあるってことを覚悟しとかないといけないんだ。
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