夢のひととき――シンデレラと
二階の自分の部屋に行き、着替える。タンス備え付けの曇った鏡を久々に覗いたら、なんか髪型やジャージのよれ具合が妙に気になって、ひっぱったり叩いたりしてたら、やけに時間がかかってしまった。
居間に戻ってテレビをつけたら、毎週見ていたアニメのエンディングが流れていた。しまったーとメチャクチャ悔しく思ったものの、彼女のいる前でこんなの見てたら子どもだって思われそうだしとも思い直した。ってことはあれもこれも観れないな……と考えるとちょっとガッカリだけど、でもその番組を観ることと、彼女が家のことを全部やってくれることを天秤にかけたら、どう考えても後者を選ぶだろ。それに、僕は受験生なんだから。
見慣れない夕方のニュース番組を選んでいると、台所からこちらに近づく足音が聞こえてテンションがあがる。「できましたよ。では運びますね」
開け放たれた衾からいっそう強いカレーの匂い。とたんにお腹がキューっと締め付けられた。ああ、お腹すいたあ。
ちゃぶ台に、山盛りカレーと、千切りキャベツにトマト、わかめスープがどん、と置かれる。カレーだと水しかつかない我が家だったので、これだけの品数はすっごく嬉しいってのもあるけど、反面「いいのか?」って不安にもなる。でもとにかく、お腹すいた。
「あれ、まりあは食べないの?」
「別にいただきますので、気になさらないで下さい」
確かに、ドラマとかで見るお金持ちに仕えるメイドは、主人と一緒に飯食ったりしてないけどさ、こんな狭い家でそんなお高いルールなくていいと思うんだけど。しかも主人って僕?
「いやあの、僕そんな偉くないから。いいよ一緒に食べようよ」
「いえ、仕事ですから。さあ冷めてしまいます。どうぞ」
そう言われちゃもう何にも言えない。かわいくておとなしそうなのに、なーんか反論できない感じがあるのは気のせい? さっきも怖かったもんなー。思いながら、スプーンを取った。
うわっ、じゃがいも・にんじん・たまねぎ・きのこ・鶏肉がゴロゴロ入ってるよ。カレーも辛くていい! いつも甘口だったからなあ。水っぽくないし。ああ、もう、とにかく!
「うまい!」
スープはシンプルだし、サラダにかかっているドレッシングはとげとげしくない、優しい味。手作りとみた。またしてもガッつく。給食が楽しみだった日々がウソみたいだ。これから毎日こんなご飯が食べれるんだろうか……幸せすぎる。夢じゃないのか。
「ごちそうさまでした」
勧められるまま渡されたおかわりも、あっという間に食べ終わった。大っ満足。思わず手を合わせて彼女を拝んでしまった。
「やだ、そんな大げさですよ」
と、彼女は苦笑したが、僕は真面目だった。
「こんなおいしいご飯を食べさせてくれる人は、神仏と同じだって」
彼女は僕に食後のお茶を用意すると、台所へ後片付けにいく。あっという間に戻ってきた、と思ったら、手に一枚の紙を持っていた。
「これがおじいさまとの間に交わした契約書です」
僕の湯呑み以外邪魔なもののないちゃぶ台に、その紙がスッと置かれた。文書の最初にゴシック太文字で『契約書』と銘打たれたその紙は、ワード文書のようだ。当然じいちゃんが作ったものではないだろう。だが文書の最後に、「甲」と書かれた後には、直筆でここの住所とじいちゃんの名前が書かれ、最後に「橘」のハンコが押されていた。この字の汚さといい、ハンコの傾き具合といい、まちがいなくじいちゃんのものだ。
その下、「乙」の文字の後に、かわいさがある読みやすい字で隣の市の住所が書かれていた。
「で、おじいさまとこういうふうな契約を交わしました」
指をさされ、文書の上の方へ目をやると同時、今まで見ていた「乙」の部分が、彼女のほっそりとした指でさりげなく隠されるのが見えた。きっと彼女の住所と名前が書かれてるんだろうな。でも、僕が雇ったわけじゃないから、それを教えてって言うのも、違うよな。
ちょっと残念に思いながら、僕は残りの文書を読んだ。
それによると、まりあ(『さん』づけは厳禁だそうな)、は毎日朝六時半にウチに来て夜七時半に帰る、通いの家政婦さんになること。(『労働基準法違反では?』という僕の意見は、『午前八時から午後五時までは原則いませんから』とにこやかに退けられた)。土曜は午前六時半から午前十一時半まで五時間、週六日勤務。日曜・祝日はお休みだそうな。ということは、週二十五時間労働ってことか。
まりあの仕事は、掃除、炊事、洗濯(『あの、し、たぎは自分で……』の声は、「仕事ですから」の笑顔でやはり却下)、買い物といった家事全般。
生活に必要なものの出費については、食費は千円以上、食費以外の出費については金額に関係なく事前に僕に相談すること。
僕が不在の際にも合鍵で出入りして仕事してもいいか、というので、これは許可(てか、今朝がそうじゃん)。二階の僕の部屋以外は、どこでも許可なく立ち入り可。でも僕が学校行ってる間は、入り放題だと思うけど。ま、いいか。この家のどこにもめぼしい物ないし。
勤務内容について細々と書かれた後は契約期間が記載されていた。【勤務開始日:平成 年 月 日( )】の空白部に、僕の誕生日が手書きされていた。じゃあ、終了日は……。
「ということですので、よろしくお願いいたします」
いきなり、サッとまりあが紙を引いた。さりげなくそれを畳みながら、笑顔を見せる。
「あ、ええ、まあ、こちらこそ、お願いします」
僕はよく分からないままだったけど笑ってみた。じいちゃんが雇った人なんだから、僕がどうこう言うことなんて、できないよな、うん。
「ところで、今日買い物に行ってもらったんですよね? レシート下さい。僕、出しますから」
パーカーのポケットから財布を出す。年期が入りすぎてて恥ずかしいが、取り繕っても仕方ないし今さら取り繕えないから仕方ない。
「あ、はい」とエプロンをごそごそするまりあ。差し出されたレシートを見てびっくり!
「安っ。それにこのスーパーやよいって、たまにテレビで紹介される、あの激安で有名な? でもここから自転車で三十分はかかるし、夕方の特売は主婦の戦場だって聞くけど、行ったの?」
テレビで特売シーンをみたけどさ、店員におばさんたちが突進して、肉一パック百円やらモヤシ一円やらを奪い合いしてたよね。あれ見て、「女は怖いな……」とじいちゃんが呟いてたっけ。余りに恐ろしくて一度も行ったことない。あの押し合い掴み合いじゃ、まりあみたいなか弱い少女は押し潰されるか弾き出されそうだけど。だけどまりあは、
「安くて美味しいものを作るのが趣味ですから、そこいらのおばさまには負けません! 今日は野菜の詰め放題の日でした。私、詰め上手なんですよ。隙間なく詰められますから。おかげでたくさーん、材料を仕入れられました。もう寒いですから腐りませんしね。明日は魚、明後日は肉の特売です。がっちり仕入れて来ますから、期待してて下さい!」
やけに饒舌に力説しそれはそれは満足そうな笑顔を見せる。本心からと見た。だったら――。
「でも、怪我しないでよ」
「大丈夫です、慣れてますから。おつりはありますから、千円お願いできますか? 拓真さま」
「じゃあ、これで。ありがとうございます」
「確かにいただきました。ありがとうございます」
お互いぺこぺこしながらお金の受け渡し。目が合っちゃって、二人で笑ってしまった。笑いすぎて、泣ける。
もう、この家で、こんな時間を過ごすことはないって思ってた。
こんなに穏やかで、温かい気持ちになることは二度とないって。
「あ、もう七時半だ。今日はありがとう、です。色々、助かりました」
「いえ。それでは明日もよろしくお願いいたします」
お互い深々とおじぎ。まりあは白のフリフリエプロンを外して、台所の椅子にかけた。あ、それはウチ仕様なワケね。
まりあは、台所の片隅に置いていた紺のコートを腕にかけ、やけに大きいビニールバックと、きんちゃく袋を持って玄関へ。エプロン外して、コート着たら、意外と普通の格好かも。外は暗いし、悪目立ちもしないだろう。
「お風呂は沸いてますので、温まってからお休み下さい。脱いだものは洗濯機へお願いします。私が出て行きましたら、カギをかけて下さい。では、失礼いたします。おやすみなさいませ」
一つ大きく頭を下げると、カラカラカラと引き戸を上げて、まりあは出て行った。
この戸も、こんなに滑りがよくなかった。きっと何かしらしてくれたに違いない。さて言われたとおり戸締りを……いや、ちょっと待てって。
僕はサンダルをつっ掛けて、慌てて外へ出た。「ちょ、ちょっと待って」
門前で自転車に跨ろうとしていたまりあが、外灯の薄暗い明かりでも分かるくらいに驚いて、後ろを振り返った。いつのまにか髪が解かれている。あ、ツインテールもウチ仕様ね。
「ど、どうかされましたか?」
まりあは明らかに動揺して、やたら髪を気にしてる。
「いやあの、この道暗いから、大通りに出るまで送るよ。まりあの家はここから近いの?」
大通りにでるまでの道は、車が一台通るのがやっとの狭さで、外灯は少ないし、空き地や空き家が多い。『チカン注意』なんて看板も見た気がする。
「あっ、えっ、まあ。でもあの、行くところがあるのでこれから」
僕の提案に、まりあは明らかに動揺していた。そっか、ついて来て欲しくないんだ。
いけない、いい感じで笑えたからって馴れ馴れし過ぎた。調子にのっちゃダメだって、ちゃんと分かってたハズだろ自分。
「そーなんだ、じゃあ気をつけて」
僕はそう言って、できるだけフツーな感じに手を振った。
「ありがとうございました。ではまた明日」
まりあはまたしても深々とお辞儀をして、さっと自転車を漕ぎ出して行った。急いで門を出る。キイキイと鳴る自転車。ポツンポツンと点る街灯に、まりあの後姿が浮かんでは消えていき、やがて見えなくなった。音も、もう聞こえない。
暗くて、静かで、冷ややかな世界――急に胸が締め付けられた。ここから一生出られないような気分になってしまう。息が苦しい。違う、そんなことはない。僕は急いで家に入った。明かりが漏れる我が家には、まだ温かさが残っている気がする。
戸締りをちゃんとして、風呂に入った。全体的に黒ずんでた風呂場がキレイになってる。こんなにキレイになるんだ、驚きだ。僕しか使わないってのに、なんてゼイタク。
ホクホクと風呂から上って、僕は仏壇に手を合わせた。
「じいちゃん、ありがとう」
どういう流れでじいちゃんがまりあに依頼したのかが分からないけど、でも、ずっと恐れていた一人きりの生活を、予想外に明るくスタートすることができた。
じいちゃんの遺影は相変わらずいかついけど、よーく見ると、口元が歪んでる。珍しく、笑ってるんだろうか。ちょっとだけだけど。
先週までは元気だったのにな……なんでだろ?
いかんいかん、考えると暗くなってしまう。僕は一階の電気を全部消して、二階へ上った。明日は雨みたいだし、早くバイトに行かないと学校に遅刻する。
感想などいただけるとうれしいです




