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フツーって、何?

 それから。

 週末あわただしく式が行われ、じいちゃんは白い小さな箱になった。仏壇でばあちゃんの写真とツーショット。気難しいじいちゃんの気持ちを、ばあちゃんだけは怖いくらい察してたよな。仲がいい二人だったから、一年も離れ離れで、寂しかったよね。

 まだ薄暗い早朝、僕はいつも通りの新聞配達。

 人気のない道で、僕の自転車がギコギコきしむ音が響く。

 配達地域は家の近所、マンションが多いから一気に配れて意外と楽。エレベーター無しだとちと辛いけど、それも慣れた。

 おかげで体力ついて風邪知らずになったしね。

 一人で夜明けを見るのは、ちょっとゼイタク。

 ――何も変わらない。

 僕が一人になっただけで、世界は何も変わらない。

 当たり前に朝が来て、当たり前に夜が来る。 いつもの道を、自転車鳴らして、家に帰って、学校に行く。ただ家にはもう、誰もいないってだけのことで。

 ギイッ! 家の裏で思わず急ブレーキ。あれ、何かいい匂いするんだけど、これウチから?

 建てた当時は立派だったと思える、崩れかけのブロック塀を回って、門をくぐる。いつもどおり門の影に自転車をつっ込もうとして、見慣れない自転車があるのに気づく。まさか……、僕は急いで玄関を開けた。

「お帰りなさいませ、拓真さま。お疲れさまでした」

 そこには、あの少女がいた。ツインテールのメイド姿で。

「ちょうどお食事ができました。冷めないうちにどうぞ。急がないと学校に遅刻しますよ」

 にっこり。朝日のように輝かしい笑顔。

 驚きと、戸惑い。それ以上にこみ上げるのは大いなる気まずさ。

 あの日、彼女に優しく背を撫でられ、ケーキを食べながら号泣してしまった僕は、いつの間にか眠っていて、気づいたら彼女はいなくなっていた。夢かと思ったけど、僕には毛布がかけられていて、しかも目が腫れぼったい。そして食べかけのケーキが残ってた……。

 あれは僕を哀れんだカミサマが、一日だけ遣わしてくれた天使だったんだ。そう思って、キレイに終わらせたハズだったのに。一気に現実に引き戻されて、顔がカッと熱くなった。

 だけど彼女はそのことには何も触れず、ただ笑顔で僕を居間へと誘った。

 部屋のど真ん中という定位置に戻ったちゃぶ台には、ご飯と味噌汁、そしてオムレツが載っている。思わず喉が鳴った。

「今、お茶をいれますね。どうぞお召し上がり下さい」

 ご飯と納豆が定番の朝飯だった僕には、信じられないご馳走だ。

「いただきます」

 まずはオムレツ。何コレ、チーズ入ってるよゼイタクな。さらにトマト&きのこ入り。味噌汁も油揚げとわかめとネギたっぷり。何ていうか、手がかかってる! 健康的! 一仕事した後なうえ、うまいから、がっついてしまう。そんな僕をにこにこして見ている彼女。

 やがて皿はきれいになって、出されたお茶で一服。あー、まったり。幸せ……って、あれ?

「あ、あの、えーと、じゃあ、まりあ、さん」

「『さん』は不要です。何でしょうか?」

「あの、どうしてこんな、色々してくれるんですか? じいちゃんに恩があるのかもしれませんけど、僕はもう、大丈夫なんで……」

「私は拓真さまにお仕えするようにと、おじいさまからご依頼をいただいているのです」

「依頼って言われても……。見ての通り、この家は財産なんてないし、遺産だって……僕の生活費程度しか……。僕はまだ中学生で、まりあ、さんのお給料を払えないんです。だから」

「お給料なら、前もって充分いただいておりますのでお気遣いなく」

 眉が寄った。じいちゃんがいつの間に? ……あっ!

「もしかして二ヶ月前に一〇〇万円?」

 思わず言っちゃって、あわてて口を塞いだ。でも彼女はにっこり、頷いた。ウソだろ? あのドケチじいさんが、そんな気前よく。

「先日はご挨拶だけになってしまい、申し訳ございません。そういうことですので、本日より私、心をこめてお仕えいたします。ところで、お夕食は何がよろしいですか?」

「よろしいって、いつも冷蔵庫にあるもので、テキトーに、だし」

「冷蔵庫にはモノがございませんので、補充してよろしいですか?」

「補充? じゃ必要なものがあったら言って。僕が買ってくるから」

「そうは参りません。ご主人様が買い物なんて――。それではこうしましょう。私が買い物をして来たらレシートをお渡ししますので、それで清算ということでいかがでしょうか?」

「いやでも、僕、そんなにお金ないし……」

 思わず語尾が消えていく。携帯だってない、コンビニだって自販機だってゼイタクな我が家なんだから。しょーがないことは気にしないと決めてたのに、耳まで赤くなってくのが分かる。

 だけど、彼女はにっこりとして、

「お任せ下さい。私、安くて美味しいものを作るのが趣味ですから、無駄遣いはしません。ところで拓真さま、学校は大丈夫ですか?」

 思わずテレビを見る。げっ、もう八時だ!

「やばっ、急がなきゃ」 

何たって学校までは自転車で三十分弱。田舎は通学範囲が広すぎなんだよ。慌てすぎて皿を重ねる手がすべる。バイトが長引いて遅刻しそうでもナンでも、後片付けもせずに家を出るなんて、じいちゃんは許さなかったから。だけど。

「後片付けは私がやりますから。どうぞお急ぎに。これが私の仕事ですから」

 仕事か。……まあ、そういえば、そうか。ああ、ありがたや。

「すみません、じゃあ、お願いして……」

 言いつつ、洗面所ダッシュ! 歯を磨いて、顔を濡らして、二階に駆け上がってリュックをひっつかみ、一階に駆け下りる。

 階段下で彼女が待っていた。手には、見慣れたレトロなカギを持っている。

「私も鍵を持ってますから。いってらっしゃい、お気をつけて」

「い、行ってきます」

 ガラガラピシャン! やけに滑らかな引き戸がいい音を立てて閉まった。

 遅刻ギリギリライン。猛ダッシュで、細心の注意を払いながら細い路地を抜けていく。しょっちゅうノラネコやら子どもが飛び出してくる道路に大半の集中力を奪われながらも、考える。全く、何が一体どうなっているんだか……。

 その日は一日、上の空だった。思わず階段を踏み外したくらいだ。

 朝は慌ててて流されてしまったけど、だんだんと冷静になると――やっぱり、おかしな話だ。

 じいちゃんはお手伝いさんを雇うつもりでいたってこと? でもそんな話聞いてなかった。男所帯、かなり手抜きな家事ではあったが、そこそこやれてたし。掃除と洗濯は必要最低限、料理は一汁一菜くらいだったけど、さ。お手伝いさんなんか要らないだろ。しかも一〇〇万も払って? あのケチジイさんが、考えられない。

 それに……あの「まりあ」ってコ。テレビドラマの家政婦とは大違いなあのカッコ。でもって若さ。どーみても僕より少し上くらいにしかみえない。あんな子がお手伝い。ヘンだろ。

 そもそも二人はどうやって知り合ったんだ? 見ず知らずじゃないよね? じゃなきゃ一〇〇万円なんて大金払わないだろ、普通なら。

 ――普通じゃ、ないってこと?

 ジイさんが、女子高生に大金……それって…まさか……。

 僕はいてもたってもいられなくて、チャイムが鳴ると同時に鞄をひっつかみ、学校を出た。ありえない速さで自転車を飛ばした。確かめなきゃ。どういうことか絶対訊き出してやる!

 乱暴に玄関を開けると、朝も見た黒いローファーが揃えて置いてあった。台所で包丁が軽やかなリズムを刻んでいる。やっぱりいる。

 僕が台所を覗き込むと、振り返った彼女と目が合った。「お帰りなさいませ、拓真さま」

 笑顔。一点の曇りのない。クラリときた。こんな無邪気な笑顔で、誰かを騙すなんて……ないよな?  まな板の上を見るに、今日はカレーかあ。ちょうど食べたかったんだ、ラッキー。なんて甘い考えを起こし始めた自分をあわてて叱責しながら、

「話があるんですけど。いいですか?」

 僕は居間を指差し、彼女に背を向けた。

 ダメだ、どんなにかわいくても優しくても、惑わされたらダメなんだ。僕は一人で生きていかなきゃなんだから。しっかりしないと!  

 リュックをどさりと置き、いつもの薄い座布団に座りかけて、気づいた。急いで隣の仏間に行き、押入れから客用の座布団を引っ張り出し、ちゃぶ台を挟んだ対角線上にそれを置いた。

 そこへ彼女が入ってくる。笑顔だ。「失礼します」

 一礼すると、彼女は居間に入り、座布団をよけて畳に座った。

「何でそこに座らないの?」と訊けば、

「こんな立派な座布団に、ご主人様を差し置いて座るなんて、とんでもないことです。どうぞお気になさらずに」ときた。思わず空を仰いでしまう。何なんだそれ。

「えーと。今から色々お聞きしたいんですけど、男の僕一人だけ座布団あててるなんて、気になって話できないです。じいちゃんには『女性には優しくしないとダメだ』っていつも言われてましたし。じゃあ僕も座布団外します」

 正しくは『おんな子どもには』だったけどね、座布団からおりかけた僕に、「とんでもないことです。では失礼させていただきます」まりあさんはそう言って、僕の向かいに座った。ちゃぶ台が小さい上、彼女も勢いよく座ったから、膝がちょっと当たって、ドキッとした。彼女が何か(多分謝罪の言葉)を言ったけど、僕は聞いてなくて、あいまいに頷いてごまかしてしまう。だから! しっかりしろって僕!

「あの、やっぱりおかしいと思うんです。こういうの。僕、じいちゃんから本当に何にも聞いてないですし。ワケも分からないまま、人にお世話してもらうなんて、できません。ぶっちゃけ訊きますけど、まりあさん、うちのじいちゃんとどういう関係なんですか?」

「関係? と申しますと?」

「だって、変です。一〇〇万円なんて大金。フツー、ありえないでしょ。爺さんが若い娘にそんな大金って言ったら……」

 みるみる彼女の顔が険しくなった。凄みさえ感じて言葉が続けられなくなった僕に、彼女は、

「そんな大金って言ったら、何ですか? エンコーとでも?」

 思いをズバリ口にされ、僕は何も言えなかった。彼女は続けた。怖い顔で。怖い口調で。

「拓真さまはご自分でそう思われるんですか? ご自分のおじいさまが、そういう方だと」

「そんなことしないよ、じいちゃんは。そう思うけど――でもフツーに考えておかしいよ、こんなの。誰が聞いたって……」

「フツーって何ですか? 拓真さま以外の大勢が決めたことですか? 大勢から外れたら、それは全部間違いで、おかしなことなんですか?」

 大勢から外れたら――その言葉は胸に刺さった。親がいない自分は、ずっと世間の大勢から外れた存在だと思ってた。それどころか気に掛けてくれる身内さえいなくなった今の僕は……。

「ずっと近くにいた拓真さまが、おじいさまはそんな方じゃないって分かってるじゃないですか。それが正しいと思います。それでいいんじゃないでしょうか?」

 そこへ彼女が、急に優しく言うものだから、何か泣きそうになった。ごまかしようがなくて、あわててうつむく。震える唇を必死に噛んだ。

「でも、拓真さまのお気持ちもよく分かります。私もそうでしたから。おじいさまに『うちで働かないか』と言われたとき、さ、誘われてるって思っちゃいました。ふふっ、今では笑い話ですが。だってまだ未成年の私に一〇〇万円って、フツーありえないですよね。でも援助交際かって言われてみるとムカつきますね。おじいちゃんに申し訳ないことしちゃ――いっけない」

 僕が思わず眉をしかめたのに気づいたのか、彼女は慌てて口元を手で押さえると、「そういえば火が掛けっぱなし」とか何とか言って、慌ててその場を立った。でも彼女が、帰ってきた僕を振り返ったとき、素早くコンロの火を消してるの、見たし。そそくさと部屋を出て行く彼女を見送りながら、ちょっと心が軽くなってる自分がいた。

 今の会話で分かったこと。

 その一。彼女が未成年だってこと。(てことは学生? 昼間いないのは学校に行ってるから?)

 その二。ふだんから敬語でしゃべってるわけじゃないってこと。(おじいさまはないよな)

 その三。冷静沈着かと思いきや、ちょっと抜けてて、意外と情に篤い人だってこと。

 その四。ここで働くって、固く決めてるってこと。

 だったら――いいよね?

 僕は思わず、隣の部屋に目をやった。

 じいちゃんが払ってくれた一〇〇万円分だけ、この家のこと、彼女に助けてもらっちゃっていいよね? 他の十五歳みたいに、今だけ、受験生みたいな生活していいってことだよね?

 仏壇のじいちゃんは、相変わらずいかつい顔をしていた。 

  

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