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人魚

作者: 少々

「いいかい、こんな月がでっけぇ夜にゃ海なんざ見に行っちゃあかんぞ。

んなことしたら、人魚に連れてかれちまうからな。」


そんなことをいっていたのは祖母だっただろうか。


 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○


ゆらゆら揺れる大きな月と、星のようにちりばめられた細い光。


それらを見上げる少年はどこか現実味のない美しさにぼんやりと佇んでいた。


いつからそこにいるのか、どうしてここにいるのか、少年にはわからない。


しかし、そんなことなど気にせず、少年はじっと上を見続けていた。


どのぐらいそのままでいただろうか。


少年の見上げる視線のななめ下のほうからそれはあらわれ、そして徐々に近づき少年の視界に入ったころにはその仔細がずいぶんとわかるようになっていた。


波打つ髪は深い緑で、よく目を凝らすと瞳の色も同じであるようだ。


肌は砂浜のように白く、胸と腰を覆い隠す布は夜の海面のように深く美しい青であり、彼女の下半身からある魚の部分と同じ色であった。


そう、彼女は人魚である。


彼女が視界に入った途端、少年は上を見上げていたことなど忘れたように彼女から目をそらせなくなっていた。


彼女はゆっくりと近づくと、そのまま少年の周りを一周し、いたずらっ子のように小さく笑った。


「あなた、魚みたい。」


少年は少し顔をしかめたが、彼女は気にせずクスクスと笑う。


「目をこんなに大きく開けて、口もかぱっと開けっ放し。ふふふ、なんて面白い顔なんでしょう。」


「しょうがないじゃないか。」少年が若干不機嫌な声で言い返す。


「だって、人魚なんか見たことなかったんだ。そりゃあ驚くよ。」


「あら、ごめんなさい。でも面白かったんですもん。」


あまり悪びれずに彼女は謝罪し、少年の手を取り引っ張った。


「ねぇ、探検しましょ。こんな月がきれいな夜はきっと楽しい冒険ができるわ」


さく、さく、と海底の砂を踏む音が響く。


足音は一つだけで、人魚の彼女は小さく砂を巻き上げているだけなので足音などなく静かに進む。


「おーぃ、人魚サァーン」


少年があたりを見渡すと、ごつごつとした岩陰から男の首だけひょっこり出してこっちに声をかけているのが見える。


岩陰に隠れて体は見えないが、きっと大柄で体格のがっしりしているのではと少年は男の日焼けした肌をみて予想した。


いかつい顔つきと裏腹に顔はニコニコと上機嫌であるかのように見える。


「あら、こんにちは。お変わりないかしら?」


「なぁなぁ人魚サン、俺はまだ飛べないのかい?」


「そうね、まだもうちょっとかかるかしら。」


彼女の返事を聞くと、男は少しうなだれ、そして初めて少年のことに気が付いたようでつりあがった細い目を大きく開けた。


「お、おめぇ、新人か。」


「お、おう、たぶんそうだと」


「おめぇ、今何年の何月だ。」


少年はいきなりの質問にまごついたが、男は先ほどまでの笑顔を引っ込め睨むように少年を見つめている。


その眼光は鋭く、しかしながらその表情には焦りともいえるものが伺えた。


少年が恐る恐る日付を告げると、男の焦りは目に見えて大きくなり、うってかわってすがるような視線を彼女に向けた。


「なぁ、まだ駄目なのか、いつになるんだ? もうずいぶんと待ったろう?」


「こればっかりはどうしようもないわ。」


彼女は男に同情しながらあっさりと告げた。


男はがっくりとうなだれながも少年に顔を向け、疲れた顔で小さく笑った。


少年は小さく頭下げ、人魚につれられるまま逃げるように去った。


「なぁ、あの人はなんなんだ?」


「あの人はね、とても寂しい人なの。」


人魚の彼女はそれ以上その男について少年になにも言わなかった。


 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○


再び聞こえるのは少年の足音のみとなった。


少し遠くなったせいか先ほどよりも月が小さく小さな光はますますはかないものとなり、しかし先ほどよりも数を増やしているように少年には見えた。


「なぁ、どこに向かっているんだ?」


ふと思いついたように少年は彼女に尋ねた。


「船の墓場よ。」


少年が人魚の顔を振り向いたのは驚愕からだろう。


それは行先によるものなのか、それとも返ってくるとは思わなかった返答についてなのか。


どちらにしろ、軽く見開きこちらを見つめる目がおかしく感じて、愉快な気分で彼女はつづけた。


「船の墓場、沈んだ船の集まるところ。時間がゆっくり流れるところ。」


「どうしてそこに行くんだ?」


歌うように答える彼女にそっけない態度で聞く少年。


あら、怖いの?とからかいながら、彼女は「冒険よ。」と答える。


「冒険、冒険よ。もしくはちょっとした散歩みたいなものかしら。


ねぇ、ちょっとワクワクしない?


それに、あなたにあそこを見せてあげたいの。」


そういわれると少年は何も言えず、ただただ人魚にひかれるまま歩くしかない。


薄暗いはずにも関わらず、互いの顔が見えるほど明るい。


カーテンのように降り注ぐ月光も明るいが、彼女の巻き上げる砂までぼんやりと光っているように見える。


「いつもこんなに明るいのか?」


「今日は月の大きな夜だから。」


「いつもこんなに静かなのか?」


「今日は月が大きな夜だから、みんな月を見に行っているのよ。」


だから、今日出会うのはきっとみんなへんな人ね。と彼女はクスクス笑った。


「月を見に行かなくていいのか?」


「今日は船を見たい気分だから。」


それから、二人は歩き続けた。


少年は舞い上がる砂と人魚の揺れる髪を見ながら、彼女は時たま少年の顔を見ながら。


「お兄様!」


そんな甲高い女の声が二人の沈黙を終わらせた。


少年が声のほうに目をやると、一人の女がこちらに向かって駆け寄ってきた。


「あぁ、お兄様、わたくしを、綾を迎えに来てくださったのですね」


人魚のほうへは目もくれず少年のほうへ走り寄った女は、どこか幼い顔立ちを残した少女のようで、薄い桃色のかわいらしい着物を身にまとっていた。


「あぁ、お兄様、綾は会えてとてもうれしゅうございます。」


三人兄弟の末として育った少年は自分を兄と慕う少女に身に覚えなど一切なく、しかしその眼光からなかなか言葉を発せずにいた。


少年の戸惑う姿には目もくれず、少女は恍惚とした表情で言葉を紡ぐ。


「お兄様、綾はもちろん信じておりました。

お兄様があのような下賤な女の下に行かれたなどという無礼極まりない流言が街中で飛び交った時も、根も葉もないうわさによって無能どもにお兄様が破門されてしまったときも、あの女が大川の下流から上がったときも、綾だけはお兄様を信じておりましたわ。」


じりじりと近づきうっとりしたまなざしで少年の顔を撫でる少女の顔には少年の姿など映っていない。


それを察した少年は少女の手を振り払おうとするも、逆に手をつかまれ離れなくなる。


「あぁ、お兄様、わたくしずいぶんと待っておりましたのよ。でも、仕方ありませんでしたわよね、お兄様にはきっと大事な使命があったのでしょうから。だから、綾は怒ってなどおりませんわ。だって、これからはお兄様と一緒にいられるんですもの。それこそずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと」


壊れたステレオのようにつぶやく少女。


その姿にぞっとするものを感じた少年はつかまれた手を振り払おうとしたが、少女のつかむ手はますます力強くなる。


まるで逃がさぬようにつかまれた手が少年の手をキリキリと締め付けている。


あまりの力に思わず悲鳴をあげると、少女の瞳に脅えが走り、今度は両手で祈るように握りしめた。


「お兄様、お兄様!どうして綾を避けるんですの!綾はずっと、ずっとお兄様のことを心からお慕いしておりました。あの女狐などが出てくる前からずっと、ずっと、ずっと!それなのに、なんでですの!お兄様!あぁ、お兄様はわたくしのことなどお嫌いになってしまったのでしょうか!どうして!どうしてですの!ねぇ、お兄様……」


「知るか!」


とうとうこらえきれず少年は叫んだ。


「なんなんだ、なんなんだ! 俺はお前なんか知らないし、お前の兄なんかじゃない!」


その瞬間、女が止まった。


気味の悪いほどの沈黙と鉄輪のごとく動かない手。


少年は逃げ出したい一心で後退し手を引っ張るが、万力でつかまれたかのように少しも動かない。


「そ、うよ」


錆びついたブリキ人形のようにぎこちなく顔を上げる少女。


先ほどまでの表情は抜け落ち、中身の入っていない眼は何も映さない。


「そうよ、そうよ、そうよ、そうよ、お兄様のわけがないわ、お兄様はわたくしにそんなこと言うはずありませんもの。お兄様はいつも私に優しいわ。あの時だってきっとあの醜女しこめに誑かされただけでわたくしはお兄様がわたくしだけを愛してくださっていることを知っておりますわ、そうよ、そうよ」


少女の左手がゆっくりいつくしむように少年の頬を撫で、指先がうなじに触れ、そのまま親指がのど仏に触れる。


「ねぇ、そうでしょ、お兄様」


少女の眼は先の見えぬ暗闇だ。


何も映さず、なにも見せず、何も見ない。


彼女の指に力が入り自分の首が絞められているにも関わらず、少年は凍り付いたように動くことができなかった。




首を絞めるものと絞められるもの、そんな珍妙な構図に割って入ったのは人魚の彼女が手を打つ音だった。


軽く軽快な音はまず少年の金縛りをとき、抵抗する意思を目覚めさせた。


そして少女も突如のことに力が削がれ、そこではじめて彼女の存在に気が付いた。


「あら、人魚の姉様、こんにちは。」


「こんにちは。今日はとても月がきれいよ。」


「あら、それは大変!もしかしたら向こうでお兄様がお待ちかもしれませんわ。」


そう言うと少女は少年のことなど目もくれず小走りで走り去ってしまった。


「なぁ、あれは何なんだ?」


首元をさすりながら少年は尋ねる。


「あれは、女よ。」


そう言う彼女の顔を少年は見ることができなかった。


 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○


あぁ、月がもうあんなに遠くなってしまった。


星のように瞬いていた小さな光もここまで届きはしないのだろう。


先ほどまでは砂と海藻と岩だけだった道にぽつぽつと流れ着いたのであろうものが落ちている。


中身のないビン、重そうな樽、小さな宝石なんかも転がっているようだ。


そんななかでもひときわ目についたのが、大小さまざまな石像たちであった。


たいていのものは元の形が分からぬほど削れてたり、小さなパーツになっていたが、その中でもパーツとして原型をとどめたままの物もある。


手だけはっきりと残ったものにつまずき、少年が脅えるウサギのように跳ね、彼女がこらえきれずに笑い出すこともあった。


「ほら、あれ。」


海溝へ緩やかに続く道の途中、彼女が何かを見つけて指をさす。


頭、胴、腕、その他さまざまな塊が山積みになっている中、一つの像が雄々しく形を保っていた。


武人なのだろうか。


鎧を身にまとった男の顔は誇り高く上を見つめている。


少年が彼の視点の先を見上げるが、ここから見えるのは小さくなった月だけだ。


「ふふふ、どう?」


「なんかかっこいい。」


「そうかしら。なんかまぬけに見えない?」


少年は首をかしげるが、いまいち納得がいかなかったようだ。


彼女もそこまで賛同を求めてはおらず、少年の反応を見て楽しそうに笑い、ついと先へと泳いでいった。


その泳ぎの美しさにみとれた少年は、一瞬止まったのち彼女の後を追いかけるが、どこからかぼそぼそと声が聞こえたことでほんの数歩で立ち止まった。


「わからない、わからない、わからない」


声のするほうへ顔を向けると一人の男が山のように積み上げられた残骸の一つに腰かけていた。


「何がわからないのかしら?」


少年が立ち止まっていることに気が付いたからだろう、彼女はいつの間にかにそばに戻り、やつれた男に声をかけた。


「なぁ、少年、永遠とは何かを知っているかい?」


いきなり話を振られた少年はとっさに首を横に振る。


「そちらの彼女は?」


彼女はにっこり笑って横に振った。


「あぁ、そうだとも。わからない。僕にも、君にも、彼女にもわからない。

永遠とはなんだ?僕らはそれがわからない。

仮に僕が永遠の存在だとして、どうしたらそれをたしかめられるのか?」


唾を飛ばしながら話す男は、芝居がかった動きで嘆きながら口を動かす。


「なぁ少年、教えてくれ、永遠とはなんだ?」


「そんなの知らないよ。」


若干うんざりした表情で少年は言う。


「そう知らない、わからない! 

永遠はわからないものだろう。 

だが、永遠とは永遠とわからないがそのわからないがわかるのはいつのになるのだろう。」


「そんなのどうでもいいだろ」


少年はイラついた声で答える。


「というか、何を言っているのかわかんない。」


「あぁ、わからない、わからない!

永遠とはなんだ?

永遠の区切りはいつなんだ?

永遠はいつ終わるんだ?」


わからない、わからない、わからない


そうつぶやく男はもうこちらを見なかった。


どちらからともなくその場を立ち去る二人。


「なぁ、あれはなんだったんだ?」


「あれは、ひどく滑稽な人ね。」


小さく笑いながら彼女は答えた。


 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○


崖に挟まれた一本道。


緩やかに下っているらしく、振り返って見ても見えるは崖の岩肌だけ。


まっすぐ歩いてきたはずなのに、あの石像の山はもう見えない。


「なぁ、まだ着かないのか?」


単調な道に嫌気がさしたのか、少年がぽつりとつぶやいた。


「ええ、まだ見えないわ」


彼女は変わらぬ調子で答えた。



どのぐらい歩いただろう。


時間の感覚が麻痺しているのか、あっという間ともだいぶかかったとも少年には思えた。


「ここよ」と少女が上機嫌で宣言したのは道の終点、岩に塞がれた行き止まりであった。


あたりを見渡しても見えるのは岩と砂と藤壺だけ。


「船なんかないじゃないか。」


怪訝そうに少年が言うと、彼女は楽しそうに笑い少年の手をとった。


「飛ぶわよ!」


そういうと、人魚の彼女は少年の手を引き真上に泳ぎ始めた。


それは崖を垂直に上るようにも少年には思えた。


彼女の作る水流が勢いよく少年の顔にかかり上手く目を開けられない。


おとなしく目をつむっていれば楽だろうに、それでも少年は力強く水を蹴り進む彼女の尾びれから目が離せなかった。


狭かった壁がどんどんと開け、地上に近づくにつれ明るさが増していく。


先が見えたのか、彼女が一気に速さを増した。


「ほら、見て!」


壁を抜けた途端、ぶわっと波が押し寄せる。


そこはとても不思議な場所であった。


海底を深々と切り分ける溝に一隻の貨物船が前方から突き刺さり静止している。


いわゆるコンテナ船というものだろう、深々と突き刺さったその船は海上から降り注ぐ光の帯をまとい、時間の経過を感じさせないほど堂々としている。


「あぁ、なんて今日は運がいいのでしょう!」


彼女はゆっくりと近づいてくる一隻の船を見ながらそうつぶやいた。


現時点での国籍はわからないが、はがれた塗装の下にはうっすらと漢字か書かれているのを少年は見た。


音もなく、波もなく、凪いだ海を進むように近づいてくる小型船は少年たちの目の前をゆっくりと降下する。


導かれるように進む小型船は、やがて谷壁に衝突し、谷底へと落ちてゆく。


それを見下ろすようにへと降り立ち下を覗くと船は船首を上にスローモーションで沈んでいった。


「ここが船の墓場か」


少年が何かをはばかるように小さな声で尋ねる。


「そう、ここが船の墓場よ。」


人魚の彼女も小さく返した。


それから互いに何も話さない。


二人はいつまでも谷底へ耳を傾けていた。



最後まで読んでくださりありがとうございました。

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