カルテ01:胃痛の種
「あと5分で仕事終わるから、もう少し待っててくれる?」
「5分でも10分でも、エイナと一緒に帰れるならいくらでも待つよ」
見ているこっちまでうっとりしてしまうやり取りに、それを柱の影からこっそり見ていた私は、思わずため息をついた。
のぞき見はいけないと分かっているが、それでもやめられないのは目の前で繰り広げられるやり取りが私の理想その物だからだ。
甘い言葉に頬を赤らめているのは私の勤める診療所の治癒術師エイナ先輩。そして先輩と向き合っているのは、誰もがうらやむ本物の勇者様なのだ。
超がつくほど完璧な美形にああやって甘い言葉を囁かれたらどんな気持だろう。
先輩から彼を奪う気はないし、奪えるほどの美貌はないが、恋愛経験がない故にウッカリそんなことを妄想してしまう。
ああやってさり気なく手を取られたら、どれくらいドキドキするんだろうか。
耳元で甘い台詞を囁かれたら、どれほどこそばゆい気持になるのだろうか。
思わずそんなことを考えてさらにうっとりしていると突然、とられてみたいと思っていた右手を乱暴に握られた。
ギョッとした途端、私の耳元にかかったのは低い呆れ声。
「乙女な思考を持つなとは言わないが、仕事をサボったあげくに同僚のちちくりあってる姿をのぞき見るのは感心しないな」
甘い言葉とは言い難い。むしろ毒のある台詞に思わず悲鳴を上げれば、私の宿敵が不敵な笑顔で私を見下ろしている。
私を見つめる深緑の瞳は甘いと言えなくもないが、徹夜あけと思わしき目元には深いクマが張り付いている。
その上顎に生えた無精髭はせっかくの整った鼻梁と魅力的な唇を台無しにしており、私に言わせれば浮浪者と大差ない相貌で、そんな顔を耳元に近付けられたかと思うと、新しい悲鳴を上げたくなる。
先輩の事務員達は彼の粗野な風貌を魅力的だと言うが、私にとってそれは魅力的でも何でもない。
「別にサボってたわけじゃありません。ただ、患者さんがいないか見に来たら二人がいて、その……」
「きわめて地味で女としてぱっとしない君があの手のちちくりあいに憧れるのは分かるが、憧れたところで適う訳がないので無駄な希望は捨てた方が身の為だ」
その上彼は、私に対して妙に容赦がない。
けれど嫌味でも何でもなく、本気の親切心から言っているらしいというのは、最近の付き合いから分かってきているので怒るわけにもいかない。彼はとにかく一言……いや三言は多いのだ。
「ご忠告には感謝しますが、どうせなら放っておいて頂けないでしょうか」
「放っておけるわけないだろう。君は私の助手だぞ」
「何度もおっしゃっていますが、私はただの事務員です。先生の助手にはふさわしくないですし、ふさわしくても助手になる気はありません」
「相変わらず強情だな。だがそれくらい骨のある方が良い、前の助手は3日でやめてしまったからな」
「それは先生に問題があるのでは?」
「私に?」
本気で尋ねている所にも問題がある気がするが、それを今ここで説明する気力はない。
「ともかく私は助手でもなければ、助手になるつもりもありません。それでは、そろそろ仕事に戻りますので」
失礼しますと彼から背を向けたものの、私の腕はまだとられたままだった。
勿論振り払おうと思ったが、それよりも早く彼が私を引き戻す。
「君の話は分かった。だからこうしよう」
その先は聞きたくなかったが、耳を塞ぐ為の腕は彼にとられたままだった。
「あと5分で仕事は終わるし、飯でも食いに行こうじゃないか。そこでゆっくりと私の問題と君が私の助手になるべき理由を語った後、はれて師と助手の関係になろう。うん、それがいい。それで決まりだ」
と言うことで何が食べたいと尋ねられ、私は頭を抱えた。
「行きたくないです」
「そう来ると思っていた! だが問題ないぞ、私には切り札がある」
そこでもう一度耳元に口を寄せ、彼は笑った。
「君が首を縦に振らないなら、君が必死に隠したがっている過去をバラす」
「先生は悪魔ですか……」
「いや、これでも元勇者だ」
ということで何が食べたい、と再度尋ねる元勇者ローガン=ウェイン。
ようやく新しい職場と仕事にも慣れてきた私にとって、彼は唯一残った最大にして最強の胃痛の種だった。