カルテ05:治せない毒
結局、着替えを終えて診療所を出たのは、深夜4時近くになっていた。
思わずため息をついたのは、今更ながらに彼との約束を思い出したからである。
さすがにこの時間はもう彼も寝ているだろう。急な仕事で約束をすっぽかすことは珍しいことではないが、だからこそ私は気が重かった。
謝れば彼はいつも許してくれる。だけど彼は勇者ではあっても怒りを知らない女神様ではない。
いつか呆れられるのではないか、愛想を尽かされるのではないか、私は約束を違えてしまうたび、そんな不安に縛られる。
彼と私はもう旅の仲間ではなく。そしてそれを選んだのは私のはずなのに、未だ側にいる彼に期待する気持ちは消えてくれない。だからといって自分に素直にもなれない。
そして一番たちが悪いのは、何だかんだ言って今の生活を心の底では気に入っていることだ。
睡眠時間をロクに取れないほど忙しくても、やっぱり私は自分の手と魔法で、人の傷を癒やす仕事が好きなのだ。そしてそんな忙しい日々の中で、時折彼が些細な傷を見せに来てくれることが、私は嬉しくて仕方がないのだ。
だが一方で忙しさは増し、年も取り、その上睡眠不足で肌はがさがさだし髪の枝毛も増える一方だ。
そんな女の側に、彼は一体いつまでいてくれるのかと考えるたび、私の心は重く沈む。
「シチュー食べたかったな」
ぼそりとこぼれた独り言に無性に悲しくなりながら、私は自分の家があるアパートへ向かおうとした。
だがそのとき、唐突に私の前に人影が立ちふさがる。
こんな時間に外に出ている輩といったら夜盗のたぐいだろう。
そう思うと同時に炎を発動させる魔法呪文を唱えた直後、慌てた声が私の魔力を四散させる。
「エイナ、俺だ」
それは、今夜はもう会えないと思っていた男の声で。途端に、私は体の力が抜けてしまった。
「どうしたのよこんな時間に?」
「待っても来ないから」
彼の言葉に私は慌てて謝罪する。
「ごめん、急な団体さんが来ちゃって」
「わかってる、だから来た」
そう言うと、彼は何の躊躇いもなく私の手から荷物を攫う。
「お腹空いてるだろうと思って、迎えに来た」
「でももうこんな時間だし。あなた明日からまた遠征じゃないの?」
「だからこそだ」
さり気なく手まで取られて、私はもう逃げ場がなくなってしまった。
「シチューが残ってしまうだろ」
「捨てればいいのに」
「エイナのために作った物は捨てられない」
町の街灯に照らされた彼の顔は酷く優しくて、だからうっかり泣きそうになってしまった。
「そう言うこと、息吐くみたいにするっと言わないで」
「事実を口にしたらまずいのか?」
「あんたの事実は私にとって毒なの」
そしてその毒は、未だに解毒の仕方がわからないからたちが悪い。
「毒か……、なんだかそれも悪くないな」
「喜ぶ所じゃないわよ」
「でも毒だったらエイナに解毒の魔法をかけて貰える。俺は、エイナの魔法にかかるのが好きだから、だから毒で良い」
どういう発想だと呆れつつも、何故だか堪えていた涙がうっかりこぼれてしまった。もちろん、彼に気付かれる前に拭ったが。
「解毒したらあんたは消えるのよ」
「俺はしつこいから、そう簡単には消えない」
繋がれた上に指まで絡められて、私はもう今度こそ降参した。
「もういい、あんたの好きなようにしなさい」
「じゃあ家に来てくれ。ご飯を食べて、少しだけ話がしたい」
「下らない話だったら寝るからね」
「じゃあ俺はソファで、エイナはベッドで、昔野営した時みたいに一緒に、寝っ転がりながら話そう」
「話ながら寝ちゃうかもよ」
「それでも良い」
エイナと一緒なら良いと言う言葉に、私は返す言葉を見失った。
そんな私の動揺を知ってか知らずか、彼はおもむろに私と繋いでいた手を持ち上げた。
「あと、実は料理してるときに指を切ったんだ。だからあとで、魔力が戻ったら回復してほしい」
「わざと切ったんじゃないの?」
「わざとやるならもう少し大きい傷にしてる」
そう言う彼に呆れながらも、私は彼と繋いだ掌に魔力を込める。
「女神の加護と癒しを」
そしてそのままぎゅっと握ってやれば、魔法は絡んだ指を伝い、彼の傷を優しく癒やした。
「やっぱりエイナの魔法が一番好きだ。それに呪文を唱えているときのエイナは、凄く綺麗だ」
何気ない言葉ではあったが、夜勤明けの治癒術師の体力を0にするくらいの一撃は秘めている。
「あんたって、本当に毒ね」
思わず項垂れた私に、私の毒は穏やかに微笑んだ。
その微笑みは忌々しいほど優しげで、だから私は治癒術師の癖に、この毒を消すことが出来ないのだ。
午前三時の回復魔法【END】