次の森
アーダはいつの間にか右腕に傷を負っていた。
手首から肘にかけてが一直線に裂けている。
ルティナによると、この傷はガリーボックにつけられたものだろう、という事だった。
ガリーボックは『人斬りネズミ』とも呼ばれる猫くらいの大きさのネズミに似た獣で、その爪の一本が異様に長く伸びていて、かつ細身の刀のように研ぎ澄まされているらしい。
その爪の一撃を腕にくらったのだろう、というのだ。
思い当たるのは、ビグーの亡骸から離れる時、木の上から何かが落ちて来た、あの時だ。
ユウは目の前を黒い塊が斜めに通り過ぎて行ったのを覚えている。
その塊と接触した覚えはないのだが、そいつが長い爪を持っているのなら、その長い爪がアーダに届いていたとしても決しておかしな事ではない。
その傷を、ルティナは持っていた薬草と包帯を使って手際よく手当していった。
だが、それも所詮は応急手当でしかない。
傷は意外に深いらしく、アーダは右手をしばらく動かせくなりそうだ。
「これくらい、何ともないさ。さあ、ぐずぐずしてないで早く先に進もうぜ」
そんな状況だというのに、アーダは意図して平然を装っている。
その姿はかえって痛々しい。
自分の所為で、皆に迷惑をかけるのが嫌なのだろう、だいぶ無理をしているのがわかる。
ルティナのおかげでようやく止血する事が出来たとはいえ、既に血をかなりたくさん流してしまっている為、そんなに楽な訳がない。
にもかかわらず、アーダはユウの事を気にかけている。
ユウはそんなアーダの気持ちを汲んで、もう一度意識を声に集中させてみた。
すると、すぐに、意外にはっきりした声が頭の中に響いてくる。
『困った、困ったぞ。はてさて、どうしたものか…。何か手は打たねばならんと思うのじゃが、我々だけでは…、誰か助けてくれんもんかのう』
その明瞭さから、声の主はもうそう遠くない場所にいる事がわかる。
最初に声が聞こえた後、いろいろな事があった間に、もうだいぶ近くまで来ていたらしい。
今までそれに気が付かなかったのは、声に集中できなくなっていたからなのだろう。
ともあれ、声の主が近い事は有難い。
その言葉の内容から、声の主の近くには他にも誰かがいるようだし、アーダを休ませるにしてもその方が都合がよい。
少なくともここでじっとしているよりはずっとましなはずだ。
「よし、行こう。声は…こっちだ」
ユウは声のした方向に向けて、馬を出した。
フィノとルティナがすぐ後ろに続いてくる。
アーダの様子を気にしているのか、今度はフィノも先行しない。
アーダは無事な方の左手でラビアローナの槍を必死になって握りしめている。
ユウはアーダの身体を抱えたまま、アーダの左手のすぐ後ろで槍を脇に挟み、アーダが槍を楽に持ちやすいようにしてあげた。
「ありがとう」
そんな風に言いつつも、アーダはほとんど表情を変えていない。
かなり我慢をしている事が窺える。槍を持つだけでも辛いのだ。
ユウは馬を急がせる事にした。
すぐにフィノとルティナもそれに倣って速度を上げる。
この森は規則的に木が並んでいるのでスピードは上げやすい。
なので、早く走っても大丈夫そうだ。
が、少し走った所でユウは突然馬を止めた。
声を見失った訳ではない。
声の方向が突然変わったように感じられたのだ。
つい少し前まで確実に前方にあると思っていた声の主の方向が、いつの間にかユウの左側から感じられるように変わっている。
それは今までに感じた事のない感覚だった。
「どうしたの?」
「何か不穏な気配でもありましたか?」
フィノとルティナが怪訝な顔で覗き込んでくる。
二人の視線はアーダの身体を気遣って、ユウとアーダの間を行き来している。
その視線で今はあまり慎重になっている訳にもいかない事を思い出したユウは、手綱を強く握り直した。
「いや、なんでもない。声は、…こっちだ」
そして、声を感じる方向、すなわち左に折れて馬を走らせる。
フィノはすぐにその後ろに続いた。
一方、ルティナはその場で辺りを見回して、しばし首を捻ってから、自分が置いて行かれそうになっている事に気づき、慌てて後を追いかけた。
この森は真っ直ぐ走る分には視界が利く為、少し離されても追いつく事は難しい事ではない。
徐々に距離を詰めていけば、そう時間がかからずに元の位置まで戻って来れる。
そうやってようやくルティナが一行の最後尾に追い付いた時、先頭を行くユウは声の主の気配をより強く感じるようになっていた。
目的地はもう近い。
それとは別に、違う気配もたくさん感じられるようになっている。
それはある程度予想していた事でもあったのだが、その数は思っていたよりも多そうだ。
しかし、さらに近づくと、たくさんあったその気配が、突然、綺麗に無くなった。
ほぼ時を同じくして、少し開けた場所に出る。
そこは、明らかに人の手で作られた、小さな村のようだった。
だが、見える範囲に人の姿は見られない。
恐らく、ユウ達の来た事に気づいたこの村の住人は、一斉に家の中に隠れ、息をひそめているのだろう。
だから気配が消えたのだ。
知らない人間がいきなり駈け込んで来たのだから、警戒するのは当たり前だ。
増してやそれがこんなに大きな人なのだから、恐ろしく思わない方がおかしいだろう。
声の主の気配はユウのすぐ目の前の家の中にある。
ユウがその家の前で立ち止まると、少し遅れてフィノとルティナもそこに止まった。
「ユウ様、ここは…」
ルティナが周りをきょろきょろと見回している。
フィノとアーダは二人で目を見合わせている。
それもそのはず、この村は、家はもちろん、畑も、その周りを囲む柵も、中央にある見張り台の様な塔も、全てがユウ達の知っているものの三分の一程の大きさしかなかったのだ。
しばらく無言でその場に立ちつくしていると、少しして、目の前の家の小さくて可愛らしい扉がゆっくりと開いた。
その家の中から現れたのは、ユウの腰くらいの背丈の長い髭を蓄えた可愛らしい老人だった。




