森の妖精
しばらく歩いても森の風景は変わらなかった。
背の高い針葉樹の森が続いていて、猫に出会った時に有ったような大きな岩も見当たらない。
適当に走ってしまった所為で、せっかく猫から街の方向を聞く事が出来たにも関わらず、それがまるで無駄になってしまった。
しかも声の主が誰なのかはわからずじまい。
初めに聞いた声はともかく、後の声は急を要する声音だったので気になる所ではあるのだが、いくらユウでも声の主が声を発してくれなくてはどうしようもない。
それはわかっているのだが、ユウは気分が浮かなかった。
『ユウ、元気だしてよ。街なんかに着かなくたってフィノがいればいいじゃない』
フィノはユウが街の方向を見失ったため落ち込んでいると思っている。フィノには声は聞こえないので、ある意味当然の反応だ。
『そうだな、こうなってしまったら仕方がない。切り替えてまた街を探そう』
ユウはフィノが心配そうな顔をしているのを見て、切り換える事にした。
いつまでもフィノにそんな顔をさせておく訳にはいかない。気を取り直して人の集まりそうな場所を探す事にする。
少し歩くと、下草の丈が段々と高くなってきた。場所によっては人の背丈ほどもある草が視界を遮る事もある。
ユウはフィノと離ればなれにならないよう手をつないでいく事にした。
ユウとフィノは少しくらい離れていても念声による会話が可能なので、多少離れてしまったとしても合流する事は難しくない。しかし、手をつないでいればお互いの体温を感じる事も出来る為、より安心できる事も間違いない。
ユウがフィノを引っ張るような格好で歩いて行く。
少し行くと、森の中の小さな広場のような場所が見えてきた。奇妙な事にその辺りだけ樹が生えていない。
その場所へ近づいていくと、下草の丈は更に高くなり、すぐ後ろにいるはずのフィノの姿も見えなくなった。しかし、フィノの足取りは決して重くはない。草を踏みつける派手な音とつないだ手の動きを通じてフィノが跳ねるように歩いている事がわかる。
ガサッ、ガサササ
その時、少し先で草を鳴らす大きな音がした。
フィノの発していた音と同じような音だが、方向が違う。いくらフィノでもユウの手を後ろに引っ張りながら、前まで回り込む様な芸当は不可能だ。
現に、ユウが歩を止めたのに合わせてフィノも止まった事が手を通じて伝わってくるが、ガサガサいう音は無くならない。目の前の視界を塞いでいるこの草の向こう側に何かがいるのは確かなようだ。
音の感じからそこにいるのは二足歩行の動物の様に思える。もしかしたらこの世界の人間かもしれない。同時に擦れたような音も聞こえるのは、何か荷物を引きずっている為か。
『フィノ、すぐそこに何かいるみたいだ』
もうフィノにもわかっているはずだが、ユウは念声を使って一応フィノにそう伝えた。
そこに何がいるのかはわからない為怖くはあるが、その場で黙っていると言う選択肢は無い。ユウはフィノの手を強く握る事で震える身体に活を入れると、一歩前へと踏み出した。
しかし、それよりも早く何かがユウの横を通り過ぎて行く。
フィノだ。
フィノが繋いでいた手を離し、草むらを駆け抜けていったのだ。
フィノはユウが不安に思う気持ちをつないだ手を通じて感じ取り、それで自分が先に行く事に決めたのだ。
フィノから少し遅れてユウも視界の開けた場所に出る。その直前、フィノの声が届いて来た。
『行くね』
『ちょっと…』
フィノはユウに何の説明もせずにそこにいる相手に向かって行ってしまったらしい。
そこにいるのが敵なのかどうかもわからない状況でそれはあまりに性急な行為だと言えるのだが、ユウは咄嗟にフィノの身を案じたものの、その判断を疑う気持ちは無かった。
草むらを抜けたユウの目に飛び込んできたのは、人の背丈ほどもある毛むくじゃらの猿に向かって行くフィノの姿だった。その猿は肩に絹の様な薄手の生地で出来たワンピースを着た、華奢な体格の女性を担ぎ上げた所だった。
女性は猿の肩に体がくの字になるよう担がれていて、顔が猿の身体の向こう側にある為意識があるのかどうかはわからないが、その身体は動く気配が全くない。
せめて彼女の命が無事であればいいのだが、と思っていると、近づいて来るフィノの気配を恐れた猿がせっかく担ぎ上げたばかりの女性を今度は藪の上へと放り投げた。
ドンと言う音とともに声が出る。
『痛っ! たっ、助けて…』
女性はそれだけ言うと、気を失ってしまったのかまた静かになった。
だが、それだけで十分だった。
聞こえたのが少し前に助けを求めてきた声と同じ声だったからだ。
フィノの判断は間違っていなかったという事になる。
フィノは猿に向かって飛び掛かった。
猿の顔の高さまで飛び上がって放ったフィノの蹴りを、猿は女性を投げ捨てて空いた両腕を交差させるようにして受け止めた。
『フィノ、全力でやっていいぞ!』
フィノの蹴りを猿が余裕で受け止めたのを見たユウは念の声を飛ばした。
ユウはフィノが手加減している事に気が付いていた。女性を助けようと飛び掛かったまでは良かったが、その判断に迷いがあったのだろう。相手を思いやっていたのだ。
そのタガをユウは外し、自由にやっていいと伝えたのだ。
ユウのその言葉を聞いたフィノのスピードが明らかに上がった。
猿の周りを物凄いスピードで跳び廻り、遂には自分の位置を見失わせ、死角から猿の頭に素早く回し蹴りを喰らわせる。
見かけより遥かに重い蹴りを頭に受けたその猿は、碌に受け身も取れないまま、うつ伏せに倒れた。
その猿の横腹を蹴り上げて仰向けにし、素早く鳩尾にかかとを落とす。
猿はもう二度と立ち上がる事が出来なくなっていた。
『大丈夫か、フィノ』
ユウは、猿の隣に平然と立っているフィノの元へと駆け寄った。
猿は白目を剥いて倒れたまま、動く気配は全くない。
『ぜーんぜん平気。ユウがいいぞって言ってくれたから、遠慮なくやっちゃった』
フィノに悪気がないのはわかるのだが、その可愛らしい言い方と実際に彼女がやった事のギャップはかなり大きい。見るからに狂暴な、人の背丈ほどもある大猿をあっという間に倒してしまうのだからユウなどフィノが本気になれば瞬殺されるのが落ちだろう。
しかし、フィノはそんなユウの指示に背く気配は全くない。もちろん自ら判断して動く事は有るのだが、その基本はユウの望みをかなえるためだ。
そして、それをユウに褒められるのがうれしいのだ。
『ありがとうフィノ、助かったよ』
ユウがフィノの前に立って頭を撫でると、フィノは満面の笑みでそれに応えた。
『でも、あまり無茶はしないでくれよ。いつも助けられてばかりで偉そうなことは言える立場じゃあないんだけど、フィノに怪我をして欲しくはないからね』
『平気よ、あれくらい。最初少し迷っちゃったけど、ユウが指示してくれたから大丈夫。大体、良く考えたら女の子を放り投げる奴なんていい奴の訳ないしね』
フィノのその言葉でユウは思い出した。
今はまだのんびりしている場合ではなかったのだ。
『そうだった、その女の子はどこ? その女性がさっき助けを求めてきた声の主みたいなんだ』
『こっち』
ユウがそれを言い終わる前に、既にフィノはユウの手を引いて歩き出していた。
そして、少し背の高い藪の前へと連れてくる。
『ここ』
密に生い茂る草を掻き分けると、そこには一人の女性が倒れていた。
草がクッションになったのか、その女性には少なくとも見かけ上は怪我らしい怪我は見当たらない様だが、くたっと倒れたまま全く動く気配がない。よく見ると胸が上下に動いているので死んでいる訳ではないらしいが、意識は戻って無いようだ。
ユウはフィノと共に女性の前へと回り込み、その顔を覗き込んだ。
透き通るように白い肌にエメラルドグリーンのストレートの髪。
彫りが深く目鼻立ちははっきりとしているのだが、緩やかな丸みを持った輪郭が女性らしい柔らかな印象をもたらしている。はっきり言って美人だ。
そして何よりも目を惹くのは、普通の人間のものとは大きく異なる先の尖ったその耳だ。
ユウが知る限り、そんな耳を持っているのは物語に出てくるエルフくらいのものだ。
と言ってもユウはエルフについて詳しい訳でもない。
ゲームのキャラの中にそんな種族がいた事は覚えているがその程度で、それ以上の事は知らない。
けれど、目の前の女性はそのエルフに極めて似ている。というか、エルフそのものの様にしか見えなかった。
ユウがひたすら無言で目の前の女の子の事を見つめてしまったため、それまで黙ってユウの行動を見守っていたフィノが、急にやきもきし始めた。
『どうなの、ユウ。反応はないの?』
その言葉で我に返ったユウは、そこでようやく彼女に何も話しかけていなかった事に気が付いた。それだけ彼女に引き込まれていたという事だ。
慌ててその女性に話しかける事にする。
『大丈夫ですか、…お嬢さん』
しかし、いざ声を掛けようとしてみると、なんと言って呼びかけていいかわからない。
迷ったあげく、お嬢さんと呼んでしまったユウだったが、目の前の女性にその呼び方は似合わないように思え、恥ずかしくなった。
ユウの様子をじっと見ていたフィノの目つきが厳しくなる。
ユウの様子を訝しんでいる事は明らかだ。
しかし、それに反応する訳にはいかない。なので、あえてフィノの事は無視するようにしてユウはその女性の肩を掴んで抱き上げた。
『しっかりしてください』
その女性の身体はその外観から想像する以上に軽く柔らかで、しかもいい匂いがした。
猿が何のためにこの女性を連れて行こうとしたのか本当の所はわからないが、彼女を独り占めしようとしていたのだとすればその気持ちもわからなくはない。そう思ってしまう程人を惹きつける何かを彼女は持っているようだっだ。
『う…、…うんっ』
女性がユウの腕の中でその柔らかな瞼をゆっくりと開けていく。少しして、その瞳の中に優しい光が灯った。
その女性は初めは何が起こったのか理解できていない様子だったが、その目がユウの姿を捕えると身体をビクッと震わせ、怯えた目で座ったまま後ずさった。
気が付いたら目の前に知らない男がいる訳なので、当然と言えば当然の反応なのだが、目の前の美人にそんな態度をとられては、ユウとしては、落ち込んでしまいそうになる。
しかし、フィノの刺すような視線のおかげで、ユウはそうはならずにすんだ。
『僕たちは怪しい者ではありません。助けを求める声が聞こえたので、その声の主を探していたら、猿に襲われているあなたを見つけたので…。もしかして、余計な事をしましたでしょうか?』
ユウのその言葉を聞いたその女性は、思い出したように辺りを見回し、猿が倒れて動けなくなっている事を確認した後、ユウとフィノを値踏みするようにじっくりと見まわした。
そして、ようやく安堵したのか大きく一度息を吐き、美しくも優しい色の瞳で二人の事を交互に見つめてきた。中でも特に二人の腕の辺りをよく確認しているようだった。
『不躾な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした。私が助けを求めた事は事実ですが、まさか私のあの声を聞きとめて下さる方が近くにいるとは思っておりませんでした。なので、あなた方の事を疑ってしまったのですが、その腕輪に嵌めこまれた種、それはこの森に認められた証、「森の標章」ですよね。それをお持ちの方が悪い方であるはずがありません。失礼いたしました。そして、助けて頂き、本当にありがとうございました』
思わず腕に嵌めた銀の腕輪を見つめるユウ。それに気づいたフィノも自分の腕に付けた見事な装飾を施された腕輪に視線を落とした。
腕輪も、そこに嵌めた種も、以前助けたモノ達にお礼としてもらった物だった。その時に、この先きっと役に立つ事があるはずだとは言われていたのだが、そんなに凄い物だとまでは思っていなかった。
ユウが黙って腕輪を見つめているその間に、女性はゆっくりと立ち上がった。
女性の周りには神聖な空気が漂っている。
ユウがその気配に引き寄せられるように女性の方へと顔を向けると、その女性はユウの目を見て言った。
『私はオルシェ、この森に住む妖精です』