迷い子
その後猫とはすぐに別れる事になった。
教えてもらった街の方向と猫の子供の待つ巣のある方向が反対方向だったためだ。
猫は街まで案内したいと申し出てくれたのだが、ユウはそれよりは早く子供の元に戻った方がいいとその申し出を断った。
『また二人きりになっちゃったね』
フィノがユウの顔を窺うようにして言って来る。
しかし、別に寂しそうにしている訳ではない。
その顔にはむしろ笑みが浮かんでいる。
『その割には嬉しそうだな』
『ふふふ…』
フィノは軽いステップでユウの少し前に出ると、くるくると回りながら踊り始めた。
そんな風にすると着物の裾がバラの花びらのように大きく開いて、綺麗な足が少しだけ覗いて見える。
自然と目が惹きつけられそうになるが、ユウは意識してそこから目を逸らした。
それに気づいたフィノが踊るのを止める。
『ユウは嬉しくないのですか?』
突然、顔を逸らされた事を否定的に受け止めたフィノは、ユウの前へと回り込み、ユウの頭を両手でつかんで自分の顔の正面まで強引に持って来た。
フィノとしては手加減しているつもりなのだろうが、フィノのバカ力で掴まれれば、必然的に身動きが取れなくなる。結果、二人で見つめ合うような格好になり、その状態でフィノは動きを止めた。ユウの答えを待っているのだ。
何と答えたらいいのかわからずユウが黙っていると、少ししてフィノは身体をガタガタと震わせ始めた。そして…、目からは涙があふれ出す。
『もう、一人ぼっちはイヤ…』
そのフィノの震える声に、只ならぬ思いを感じたユウは、フィノに掴まれた頭を強引に振ってフィノの手をすり抜け、そのままフィノの身体を抱きしめた。
フィノはとある場所に一人きりで長く閉じ込められていた経験から暗所と孤独に弱く、それを思い出すと震えが止まらなくなり、おかしくなってしまうのだ。
それを解消するためには、ユウが抱きしめてあげるしかない。そうする事でフィノは闇から救われた事を思い出せるようなのだ。
ユウは必死に取り繕った。
『フィノと一緒にいられる事は嬉しいよ。でも、二人きりでこんな山深い森の中にずっといる訳にはいかないだろう。さっきの猫の話だと、山を下りれば街もあるみたいだし、まずはとにかくここが何処だかはっきりさせないとダメだと思うんだ』
二人が今いるこの世界は、ユウが元々住んでいた世界でない事も確かなのだが、フィノが言うには、フィノが元々住んでいた世界でもないらしい。
ユウはフィノを助けた後、突然聞こえてきたフィノとは違う声に導かれ、気が付いた時にはこの森の中にいた訳なので、その辺でユウの世界ともフィノの世界とも違う世界に入ってしまったという事なのかもしれない。
フィノが異様に強いのは、どうやらこの世界の違いも影響しているらしく、フィノは元の世界にいた時にはこれほどの力は持っていなかったとも言っている。
しかし、そうなると二人ともここでは余所者だという事になる訳で、ここにはどんな人が住んでいるのか、想像もつかない状態だ。
フィノを孤独の暗闇から救い出したつもりが、逆にとんでもない世界に迷い込んでしまった、と言うのも有り得る話なのだ。
だからこそまずは街に行きたい、人と会って情報を得たいとユウは思っていた。
『フィノを一人にしないって約束して』
「**×****×*****××*」
ユウの腕の中にいるフィノの念声と肉声が、二つダブって聞こえてくる。
肉声の方は、ユウの知らない、全く理解できない言葉だ。
それはフィノも理解しているので、普段は念声だけで実際には声は出さないのだが、興奮して無意識に声が出てしまったのだろう。
『もう何度も約束しただろ。大体、フィノとはぐれたら俺も一人になるんだ。俺だって一人ぼっちは嫌だからな』
ユウの言い訳もフィノの耳には全く届いていない。
構わず強く主張する。
『約束して』
ユウの腕の中には、フィノの髪のいい匂いが充満している。
ユウはこんな言い合いをしている間にもフィノの震えが大分納まって来ている事を感じて取っていた。フィノの震えはひどくなると手を付けられなくなるので、これはいい傾向である事は間違いない。
『わかったよ』
ユウはフィノのいい匂いのする髪を軽く撫でながら、身体を少し放した。そしてフィノの震えがそれ以上大きくならない事を確認してから、フィノの正面に立ち、自分の胸に手を当てて言った。
『私、オトナシ・ユウは、我が姫フィノ・キルストックの事を、この先二度と一人きりにしないと誓います』
これはフィノがこんな風に言うように要求したもので、フィノの元いた世界のしきたりに従ったやり方なのだそうだ。
ユウはフィノに落ち着いてもらう為に、このセリフを言うようになった。これを言うようになる前までは、フィノが孤独を感じる度に暴れ出し、手が付けられなかったのだ。
過去にフィノの事を一人ぼっちにしたのは、元の世界の何某で、もちろんユウが関係している訳ではない。しかし、こうなった場合はそう言わないとフィノが納得しない為、ユウは言うようになったのだ。
ユウのその言葉が終わった瞬間、フィノの震えは完全に収まった。
都合のいい様にも思えなくもない態度だが、これはフィノが意図的に起こした事でないのはユウには良くわかっている。それほど強いトラウマをフィノは背負っているという事だ。
ユウの苦労が報われ、ユウの宣誓が終わった時にはフィノはすっかり元気になっていた。
そして、ユウの手を掴んだまま、突然勢いよく走り出す。
『ユウ、早く行きましょうよ。こっちでしょ』
こうなると、ユウは引きずられて行くしかない。
それでも一応抑えてはいるのだろうが、とはいえ回復したフィノの走りにユウがついて行ける訳がない。
体のあちこちを周囲の木にぶつけながら、ユウは何とかフィノについて行った。
『フィノ、落ち着いて。そんなに早く走らなくていいよ』
『えっ、ああ、ごめんなさい』
そんなユウの言葉が届き、自分が速く走り過ぎていた事に気付いたフィノが、ようやく速度を落とした時には、ゆうは既にあちこちに痣をつくっていた。
そんな時だった。
森を渡る風の音に紛れて、微かに声が聞こえてきた。
どことなく高貴さを感じさせる透き通った声だ。
『どなたか…、私を迎えに来…ください…せ…か…』
最後の方は聞き取りづらくなっていたが、この声には聞き覚えがある。
暗闇に閉じ込められていたフィノを助けた直後に聞こえてきた声だ。
どことなく凛とした雰囲気の、きれいなソプラノの声が聞こえてくる。
森にいることがわかってから先程の猫まで、ユウは三種類の声を聞いているのだが、この声はそれよりも前に聞いた、森に入るきっかけになった声だ。
一度消えた後、今の今まで聞こえなくなっていたのだ。
と言う事は、もしかしたら、より近くの声が聞こえた場合には、それより遠くの声は聞こえなくなるのかもしれない、という思いが湧いて来るが、ともあれこの世界へ来る原因となったその声を、ユウはようやくまた聞く事ができたという事だ。
立ち止まり、辺りを見回し始めたユウの姿を見て、ユウが何かの声を聞いている事を察したフィノは、ユウを黙って見守った。
こんな時に話しかけると、今聞いている声が聞こえにくくなる事がある事を、フィノはよく知っている。
だから、それを感じた時のフィノはおとなしくしていてくれるのが常だった。
ユウは声のする方向を頭の中で探り、その方角を確認すると、そちらへ向かって歩き出した。
猫から街があると聞いた方向とは違う方向だが、この世界へ来た本来の目的はこの声なのだ。
経験上、助けを求めている事は間違いないようだし、これを解決しない事には元の世界に戻れない気がする。
だから、この声を優先しようと考えたのだ。
同時に、元の世界に戻る事が出来る様になった場合は、フィノは別の世界へ行ってしまうのだろうか、などという疑問も湧いて来るが、今はそんな事を考えている場合ではないと、ユウはその疑問を心に奥へと仕舞い込んだ。
『わたし……、……にいます…………だ…い』
そうこうしているうちに声は次第に小さくなっている。
しかし、まだ声の主の位置は把握できていない。
今度はユウが、フィノの手を引き走り出した。
『誰か、助けて!』
その時だった。今まで向かっていた方向とは別の方向から、さっきまで聞いていた声よりも少しだけ低い、しかし、やはり透き通った綺麗な声が頭の中に響いた。
ユウが身体をビクンと震わせたその姿を見て、フィノも何かを感じ取ったようで、すぐに眼つきが厳しくなる。
『フィノ、こっちだ』
ユウはフィノの手を引いたまま、今までとは別の方向へと走り出した。
こうなるともう新しい声の主の方を解決するくらいしか、追っていた前の声の主にたどり着く方法は思いつかない。
しかも新しい声の主の状況の方が切迫している様に感じる。
ならばその声の主を助けるのも当然と言えば当然だ。
しかし、走り始めてすぐにその声も聞こえなくなってしまった。
それならと耳を澄まして前の声を探してみるのだが、そちらの声もいくら耳をそばだててみても聞こえない。
今にも飛び出して行こうと準備をしていたフィノが戸惑っているのがわかる。
しかし辺りにはもう何の気配も感じない。前後左右全く同じにしか見えない変わり映えのしない森が続いているだけだ。
こんな時、一方通行の声は不自由だ。こちら側から声を掛ける事が出来ないからだ。
少しして、ユウは突然立ち止まった。
そしてゆっくりフィノの方を振り返り、そこで思いっきり頭を下げた。
『ごめん、迷ったみたいだ』