『君、格ゲー上手いね』とあの娘が言った。(五)
落ち着いた女の人の声に浩介が振り返ると、そこに居たのは。
「いず……な?」
そのものだった。もちろん、忍装束で立っているわけではない。
エンディングに登場する、私服のいずなと同じ格好。ボーダ柄のカットソーにデニムのショートパンツ、黒のスニーカー。長く伸びた黒髪は、きっちりとポニーテールに結ばれている。
細身だが弱々しさは無い、意思の強そうな顔立ちが凛とした雰囲気を漂わせている。
「どうしました?」
彼女は、浩介の言葉の意味が判らないようだった。
「いえ、なんでもないです。そこのバス停でいいんですよね?」
浩介は多少赤くなりながら、一○○メートルほど先のバス停を指差した。
「はい」
頷いた彼女の笑顔は、からっと晴れた空のように明るかった。
次の言葉が見つからず、浩介は傘の殆どを自分の右側にいる彼女の頭上にかけ、黙って歩を進めた。彼女も黙って付いてくる。
浩介の耳にはめられたイヤホンからは、大好きなアニメソングが流れているがそれはもう聞こえてない。
「何聞いてるんですか?」
彼女の質問に、浩介は内ポケットから携帯電話を取り出し慌てて停止のスイッチを押す。別にアニメが好きでも恥ずかしいことは無いはずだが、彼女に知られたくないわけがある。
「あ、いや、な、なんでもないんです」
「あ! それ!」
彼女が浩介の携帯を指差した。
しまった、気が付かれた。
何でこんなときに『超絶変人ブリーフ仮面』のキャラソンなんか聞いてるんだ俺は! よりにもよって『挟んであげる、あたしは網タイツレディ』だよ!
「い、いや好きじゃないんです。友達に勧められて……」
見てない人間がわざわざキャラソンをダウンロードして聞くわけが無い。
誤魔化し切れないだろうな。という浩介の意図に反して、彼女はがっかりした顔を見せた。
ま、まさか、この娘もブリーフスか?
ブリーフスとは、超絶変人ブリーフ仮面の愛好家に付いた名称である。ブリーフとフリークスをかけた造語だが、はっきり言ってこの話の中で一番どうでもいい情報だ。
浩介は、彼女の次の言葉を待った。
「そうか、F・Eやってる人かと思ったのに……」
F・Eとは、FINAL・EDITIONつまり、スーパーファイターⅢファイナルエディションの略称である。これはブリーフスと違ってとっても重要な情報だ。
彼女は浩介の携帯にぶら下がっているストラップを指差し。
「それスパⅢのヒガンテってキャラなの。そのぐらいはやって無くても判るかな?」
切れ長の目を糸ようにして笑った。『それ』というのはヒガンテの人形を指した発言だったらしい。彼女はバッグから、スマートフォンを取り出し、自分のストラップを見せた。
「私のはいずなってキャラなの、忍者なんだ。って見たらわかるか」
「も、もしかして……さっきロッキーでスパⅢやってた?」
浩介の質問に、彼女は小さく頷いた。
どくん。
文字で心臓の鼓動を表現するときしばしば用いられる擬音だが、実際に自分の胸からその音が響くのを浩介は生まれて初めて聞いた。
……信じられない。埼玉の片田舎の古ぼけたゲーセンで十年も前の格闘ゲームをやっている女の子がいるなんて、その上この娘は
「すごく、綺麗」
思考の最後を音声化してしまう浩介の迂闊さは、書く方にとっては大変ありがたい。
「そう、そうなんだよ。凄く綺麗なゲームなの。十年前のレトロゲーだからって侮っちゃいけない。一クレでいいからプレイしてみてよ。友達が勧めてくれたわけもわかるから。スパⅢはさ、スタッフの職人芸で支えられてるんだって私は思うんだよね。確かに3Dのゲームも綺麗だとは思うけど、スパⅢのグラはグラフィッカーさんの魂が入ってるって言うか、命削って描いてるっていうか……」
彼女は、浩介の発した『綺麗』という言葉が、スパⅢに向けられたものであると認識したようだった。それが自分に向けての賛辞だとは一フレームも思わなかったらしい。因みに一フレームは六十分の一秒を現す。
彼女はお気に入りのスパⅢの素晴らしさを浩介に力説しているが、いかんせん勢いが強すぎる、情熱に溢れすぎている。普通の人なら引く、遠慮なく言えばドン引きである。
彼女の話はまだ続いている。浩介が聞いていようがいまいがお構いなしだ。自分の言いたいことをガンガンぶつけていく『ガン攻め』のスタイルはゲームと共通のものであるらしい。
浩介は黙って頷いている。会話でもゲームと同じに『ガン待ち』だ。
おそらく、二人は会話をするよりスパⅢで殴り合った方が分かり合えるに違いない。
「私は使ってないけど、エリィの勝ちポーズなんて、動きすぎて気持ち悪いぐらいなんだから」
ここまで言って、急に彼女は言葉を止め「ごめんなさい」と小さな声で謝り。、続けて
「わけわかんないよね……スパⅢやってないんだもんね」
この世のお仕舞いが訪れたような顔をした。
二人が下を向いたまま歩を進め、程なくバス停に到着した。
埼玉の片田舎とはいえ、上尾は人口十五万人を超える中規模都市で、駅もそれなりに大きい。バス停には立派とはいえないものの屋根もついている。彼女が濡れる心配はなさそうだった。
「傘、ありがとうございました」
頭を下げた彼女に短く「いえ」と答え、浩介は自転車に戻ろうと彼女に背を向けた。
俺、さっきのヒガンテのプレイヤーです。是非また対戦してください。
そう言いたかった。でも言えなかった。四連敗した負い目もあるし、見知らぬ女の子に間接的にとはいえ、また会いたいという意思を伝える勇気が出なかった。断られたときのダメージが怖い。
足を踏み出す。「きっとまた会えるさ」自分に言い訳をしている。
「ソレデ、イイノカイ? コースケ」
あり得ないことだが、ヒガンテの声が聞こえた。気がする。
「何モシナイノト、何モ出来ナイノハ、違ウンダゼ。ガードヲ固メテイルノハ、怖イカラジャナイ。一発逆転ノ、チャンスヲ待ッテイルカラサ。サァコースケ……」
浩介は足を止める。バスのエンジンが耳に届いた、時間はもうそれほど残されていない。
「レッツゴー!」
必殺のギガトンボムを打つゲージが、満タンになったことを告げるヒガンテの声に背中を押され、浩介は振り向いたそして。
「あのっ……」
彼女を見た。
きょとんとこっちを見ている。格ゲーの話しをしていなければ、美少女といって差し支えない。
「黙っててごめん。俺さっきのヒガンテ使いです。対戦ありがとうございました」
そういって頭を下げた。
「そっか」
上目遣いで見ると、彼女は、まぶしい笑顔を見せていた。目が眩むほどだった。
停留所に到着したバスが、クラクションを一つ鳴らす。
……目が眩んだのは、バスのヘッドライトのせいかも知れない。
「そうじゃないかと、思ってたんだ。こっちこそごめん、好き勝手に喋っちゃって」
言いながら彼女はこっちに近づいてきた。
ハンカチを取り出すと、丁寧に浩介の左肩の辺りを撫でる。
「こんなに濡れちゃってたんだね。ホントごめんね迷惑ばっかりかけて」
「そんなのいいから、乗り遅れるよ」
口を動かしながら、浩介はなだらかに膨らんだボーダー柄をたった二十センチの距離で見ている。仄かに花の香りがする。
浩介には見えないが、彼女が使っているハンカチにはSFⅢFEの文字が 刺繍されている。公式商品ではない、ファンイベントで手に入れたものだろう。やはり、外見以外は筋金入りの格闘ゲーマーらしい。
彼女は、最後に仕上げの意味か掌で浩介の左肩をポンと叩いてから、その手を置いたまま浩介の耳元に唇を寄せ、短く息を吸い込んでから
「君、格ゲー上手いね」
囁いた。
生涯二回目の「どくん」という音が、浩介の鼓膜を叩いた。
バスが発車を告げるクラクションを鳴らす。彼女は踵を返して、バスのステップを二段リズミカルに駆け上がる。それから、もう一度浩介を振り向き。不敵な笑みを浮かべて
「でも、まだ強くは無い」
そこでバスの扉が閉まった。
「また、会える?」
叫ぶ浩介に、彼女はゆっくり頷いた。比喩でなく、目が眩むほどの眩しい笑顔だった。
バスを見送りながら、浩介は拳を握りしめた。
月も星も見えないが、夜空に向って叫びだしたい気持ちだった。
俺より強いやつに、会えた。
二人の熱くて短い十六歳の夏は、こうして幕を開けた。