『いつも、いつでも……』あの娘はそう言って目を閉じた。(ラウンド0)
七月十六日、午前六時十五分。
父が建築関係なので、石浜家の朝は早い。あと五分で朝食の時間だ。
浩介は自分の勉強机に座って登校の準備をしていた。
胸の所に『Let's go』という文字がプリントされている濃い紫色のTシャツを着ている。 大事なことがある時、浩介はこのTシャツを選ぶ。
今日は『たかがゲーム』という自分の言葉と決別する大事な日だ。
もう少し時間が欲しかったが、これ以上は待てない。学校が夏休みに入ってしまう。
これ以上忍を待たせたくないし、浩介自身、我慢の限界だった。
何をしていても、忍が気になった。
忍がこっちを見ていると思うと、格好をつけたくなった。
体育で『二度とやらない』と思っていたキャッチャーを引き受けたのもそう。
非力な自分に似合わないホームランを狙ったのもそう。
忍に、自分が勝つところを見せたかった。
授業中もちらちらと忍の横顔を見ていた。
授業中だけではない、隙があれば忍を見ていたといっていい。
トレードマークのポニーテールの結び目についているシュシュが、いつどういう色だったか覚えているし、毛先をそろえるために美容院にいったことにも気がついた。
一昨日、バスケ部の有司が忍をカラオケに誘ったときなど、心臓が止まるかと思った。
「忍ちゃんとコースケって付き合ってないの?」
三日前、有司に聞かれた浩介は、それがデートの誘いだとわかっていたからだ。
忍は、音楽の時間にピアノで『きゃしーはぐはぐ』の『にんじゃでばんばん』を弾いて他の女子たちと陽気に歌っていた。歌うことも騒ぐことも好きなのだ。
単に、歌って騒ぎたいという気持ちで有司についていってしまっても不思議は無い。
こっちがどう思うかなど考えはしない。いつだって自分のやりたいことをやるのが忍だ。
浩介の胸の中は不安でいっぱいだったが、声はかけなかった。
忍に『行くな』という資格は無いからだ。
今日、その資格を取りに行くつもりでいる。
その決意が、白い封筒の中に入っている。
「なんか、ラブレターみたいになっちゃったな」
駅前の文具店で買ってきた可愛らしい封筒と、封をしたハートマークのシールを見て浩介は苦笑した。
ラブレターか? といわれればその通りだと答えるだろう。
ラブレターではなく別のものなのか? といわれてもその通りと答える。
表に新明忍様、裏に石浜浩介より。と書かれた封筒の中の便箋にこういう一文を記した。
『今夜九時半。ロッキーにあなたを殴りに行きます』
ここにはいろんなものが詰まっている。
忍の側にいて、ずっ見ていたいという気持ち。たかがゲームといってしまったことを申し訳なく思う気持ち。それを撤回したい気持ち……そういう想いの全てを込めた。
十日間、入念に準備はしてきた。
ネットにある技表をノートに書き取って全て覚えた。
睡眠時間を二時間削って、ネット対戦をやり続けた。
食費を極限まで切り詰め、毎日二時間自転車を漕ぎ、KILALAでヒデと戦った。
大介にしか話していないが、塾もサボった。
爆発的に強くなったわけではない。格ゲーにいっぺんに強くなるということは無い。
昨日もヒデと二十回戦って、五勝十五敗。
勝率二割五分、それでも、十分すぎるほどの成果だと浩介は思っている。
何度も何度もプレイして、一歩ずつ階段を昇っていくしかない。
「少しずつ強くなっていく、それがいいんだ」
スパⅢの拳治のセリフを真似てみる。浩介はこの言葉が大好きだ。
「それにしても……昨日は、危なかった」
忍が留め金をかけずに脚立を昇り始めたとき、思わず体が動いてしまった。
父の手伝いで何度も脚立に昇ったことのある浩介は、それがどれだけ危険なことかわかっていた。落ちてきた忍を受け止めたのも、考えてやったことではない。体が勝手に動いた。
忍が無事だとわかった時、忍が腕の中に居るというのがわかった時。
わけがわからなくなった。
忍の髪から伝わってくる香りと、忍の身体の軽さ、腕を回した時の細さ、密着した時の柔らかさ、ちゃんと捕まえていないと消えてしまいそうな儚さに、我を忘れた。それを自分の所に引き止めておきたくて。自分の物にしたくて、腕に力を込めてしまった。
「一時の過ちって、ああいうのを言うんだな……」
浩介が呟いたとき、右肩に激痛が走った。
「貴様、ヤったのか? もうヤッたのか……」
大介が常人離れした握力で、浩介の肩を掴んでいた。
「いだだだだだっ。やってないよ、やるのは今夜だよ」
「貴様……そのまま、死ね!」
MAX一四五キロの豪腕が、全力で浩介の肩に襲い掛かる。
「兄ちゃん何考えてんだよ。やるのはスパⅢだよっ」
ふっと、力が緩んだ。
「ならいい。母ちゃんが呼んでる。メシだぞ」
大介は先に階段を降りていく、今日勝てば甲子園なのに緊張感はなさそうだ。
「浩介、今日はお互いに負けられないな」
そういって右肩を回した。
「まじか、早い」
学校の玄関で『新明』と書かれた下駄箱を開いて浩介がいった。
HRの四十分も前なのに、そこには上履きではなく、踵に踏み後のあるローファーの靴が綺麗にそろえて入れられていた。
ラブレターのような果たし状を下駄箱に突っ込んで、何食わぬ顔をしていようと思ったがあてが外れた。いつもならHRの十分前にゆっくり登校してくる忍が、今日に限って早い。
仕方なく教室に行き、中にはいろうとドアを少しあけたところで、手が止まった。
忍が、浩介の席に座っている。
椅子の上に体育座りをして一冊のノートを見ていた。
浩介がスパⅢの技性能を書き写したノートだ。
昨日懸命に探したが、見つからなかったものだ、どうやら置き忘れていったらしい。
忍は浩介には気づかず、うっとりした顔でノートを指でなぞったり、目を細めたりしている。仕草も表情も実に愛らしい。
クラスの男達が「一番可愛いのは忍ちゃん」というのも頷ける。
顔のつくりはとても理知的なくせに、忍は驚くほどわかりやすい。喜怒哀楽を一つも隠さずに全部表に出す。忍という名前なのに全然、忍ばない。
知的な美人が無邪気に振舞っているような、そういうギャップがある。
忍の複雑な内面を知らなければ、誰もが好意を抱くだろう。
浩介が好きなのは、実は外見より内面だ。
笑っていたかと思えばすぐに泣き出す。冷静かと思えば、これと決めたことには考え無しに突進していく。そういう扱いにくい所が、浩介の心を捕らえて離さない。
側に居てあげなくてはと思う。俺が見ていなくてはと思う。
……好きになるって、こういうことなのかもしれない。
覗いているのは悪いなと思ったが、見とれてしまう。
忍は浩介の努力を見てああいう顔をしている。生きているのが本当に幸せだという顔をしている。
忍に幸福感を与えることができたのが嬉しい。
「石浜」
後ろから、あまり感情のこもっていない呼びかけが聞こえた。
振り返ると、小島純が立っていた。
この美人には得体の知れないところがある。
ほとんど単語しか発音しないし、表情もあまり変えない。
何もかもを隠さない忍と、何もかもを隠す純。ほとんど間逆の二人がどうして親友なのか、そこだけは浩介にもわからない。
「入れない」
「あ、悪い」
慌てて、ドアを離れると。
教室の中から
「うわっ!」
忍の悲鳴が聞こえ、続いて椅子がひっくりかえる音が聞こえた。
「……赤か」
純が意味不明な単語を呟いた。
「とにかく、長い休みになるからな。この機会に何かに全力で取り組んでみてもいい。部活でも趣味でも、アルバイトでもいい。この夏はこれをやったんだ。っていうものが一つでも残るような夏休みにして欲しい」
担任の倉貫先生が、夏休みの心構えみたいなものを話している。
このHRが終われば夏休みだ。
「格ゲーでもいいの?」
トシの突っ込みに、先生が「お前、ゲームはいつも全力でやってるだろ?」と苦笑した後。
「格ゲーかぁ、学生の頃は俺もやったなぁ」
そう付け足した。生徒たちがひそひそ話を始めた。
古典の教諭で、趣味は史跡めぐりという倉貫先生の口から格ゲーをやっていたという発言がでたことが意外なのだろう。確かに、先生とゲームというのはなかなか結びつかない。
「そんなにびっくりするなよ。俺が高校の頃、男子の半分はやってたぞ」
倉貫先生は三十五歳、学生時代と格ゲーの黄金期がぴったり重なった世代だ。
「やっぱスーパーファイターやってたの?」
トシの突っ込みに、先生が答える。
「うん。ウィリアム少佐使ってたな、ソニック、ソニックってやつな……」
先生の話に目を輝かせている忍の机に向って、浩介は封筒を滑らせた。
忍が封筒に気づき便箋を開く。
その時の忍の顔を、浩介は一生忘れない。
忍は便箋を封筒にしまい、胸元に持っていって大事そうに抱え、目を閉じた。
殺すなら今殺して欲しい。そんな顔をしていた。
「……新明? 新明?」
気がつくと倉貫先生が、忍の横に立っていた。
浩介が忍に見とれている間に、格ゲーの雑談は終わっていたようだ。
「お願い、ほっといて」
幸福のど真ん中に居る顔のまま忍はそう呟いた。
先生は頭をかいて、優しく言う。
「進路希望の用紙。お前のだけ貰ってないぞ」
「進路なんかどーでもいい」
忍はまだ夢見心地のままだ。
「どうした?」
先生に肩を叩かれて、忍はやっと現実に帰ってきた。
「ど、どうもしません」
「悩み事か?」
先生は怒っていなかった。優しく、忍に聞いた。
「ゆ、ゆ、言えません」
忍は、ますます下を向いて真っ赤になる。
「忍れど、色にいでにけりわが恋は、物や思うと人の問うまで……当たらずとも遠からずだろ」
百人一首の平兼盛の詩をそらんじた先生は「後で職員室に書きにきなさい」そういって教壇に戻っていく、その途中、純が。
「意地が悪い」
薄く笑って先生にいう。
「そうかな?」
先生が、純に微笑みを返す……その後ろで、忍が涙目になっている。
チャイムが鳴って夏休みが来た。
『しのぶれど、色にいでにけりわが恋は、物や思ふと人のとふまで』
(知られないように隠してきた恋だが、「どうかしたの?」と質問された。私の想いは顔に出てしまっているらしい) 正確ではないが、大体そういう意味の歌だ。
浩介は、その歌は知っていたが、意味まではわからなかった。
七月十六日、午後九時二十五分
浩介は、須藤第一ビルの駐輪スペースに自転車を止めた。
十日ぶりに行った塾の授業の内容は全然頭に入らなかった。入らなかったというより聞く気がなかったという方が正しい。そんな場合ではない。この十日間の遅れは明日から取り戻せばいい。
今の自分にはもっと大事なことがある。
チェーンロックをかけた時、ポケットの中の携帯が震えた。
大介からのメールだった。文面は
『お前も勝て!』
浩介はにこりとして、小さく
「兄ちゃん。優勝おめでとう」
三年目にして悲願の甲子園出場を果たした兄を祝福した。
ロッキーに通じる階段の前に立つ。
いつもの狭い階段。いつものパチンコ屋のネオン。
見慣れた光景だが、気持ちが引きしまる。
格闘ゲーマー人生最大の一戦が待っている。
今の浩介にとって、この試合は甲子園出場をかけたものより、ずっとずっと重要なものだ。
気合を……入れようとしたが、パチンコ屋から流れてきたのはよりにもよって演歌だった。
「これはちがう」
携帯にイヤフォンを繋いでお気に入りの曲を再生する。
その曲はエレキギターのフィードバックから始まる。ギュィーンとかブゥゥゥゥンと表現される音だ。それが遠くから段々近づいてくるとドラムがリズムが刻みだすのを皮切りに、有名なリフが繰り返される。
大リーグの球場でのBGMや、野球を舞台にしたコメディー映画の主題歌として有名な曲だ。MAX一六〇キロのノーコン投手の活躍する場面に流れるあの曲とかけば察しの良い方にはお分かりだろう。
「よしっ!」
ボーカルが歌いだすのと同時に、浩介は階段を昇り始める。
色あせたポスターの拳治と目が合う。
『俺より強いやつにまた会える』
「そうだ、俺より強いやつに会いに来た」
一歩ずつ、階段を昇る。この先にあの娘がいる。
俺を……待っている。
浩介は、ロッキーの自動ドアの前に立った。
その先で、あの娘が笑った。




