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俺より強いあの娘を殴りに行く。(四・一)

 七月十五日。明日はいよいよ終業式だ。

 忍が日の出高校に来てから十一日が経った。

 浩介と口をきかなくなってから九日。

 いつの間にか、仲が良かった時間より喋っていない時間のほうが長くなってしまった。

 クラスでは、二人が付き合っているというのは勘違いだったということに落ち着いたようで、忍は昨日、身長一八二センチでバスケ部の爽やかなイケメン、代田有司(だいたゆうじ)から「明後日、二人で、カラオケに行かない?」と誘われた。

 歌うのは嫌いではないが、カラオケ一回で二十回以上スパⅢが遊べる。

 お小遣いが厳しいと断った。

 終業式に一対一でカラオケなんて、夏休み前の告白以外の何物でもないが、デートに誘われたという認識は、忍には無い。


「最悪な天気になってきたな」

 窓の外を見る。三時だというのに空は真っ暗だ。今に土砂降りの雨が降ってくるだろう。

 短縮授業なので、教室には忍の他に一人しか残っていない。

 皆、家に帰ったか、部活や同好会にいってしまっている。純(あや)はバイトだ。

 忍は純の席に座って、早めに出された夏休みの宿題をやったり、スパⅢBBSを覗いたりしながら、トシのお笑い同好会が終わるのを待っている。今日も一緒にロッキーに行くのだ。

 図書室で借りてきたカフカの『変身』という本は一ページで諦めた。

 タイトルから爽快なヒーロー物だと思って借りたのに『起きたら虫になっていた』などという恐ろしい書き出しだった。

 忍は虫が怖い。足が六本生えていたり、角があったりする姿を見ると鳥肌が立つ。

 神様が人間を造ったのなら、昆虫を作ったのは悪魔だ。本気でそう思っている。

 遠くで雷鳴が鳴った。

 続いて、大粒の雨が降り出す。アスファルトに校庭の土の上にぶつかって水煙を上げる。

 手元が暗くなってきたので、忍は教室の電気をつける。

「おや?」

 忍が座っている席の上方にある蛍光灯がきちんと点かない。

 ジジジッ、ジジジッ。

 音を立て、点滅している。

 忍は職員室に向った。

 不備を見つけると直さないと気が済まない。誰かがやってくれるだろう、という他人任せの発想は忍にはない。先生が蛍光灯を換えてくれないなら、自分が取り替える覚悟まである。


 担任の倉貫先生は「じゃぁ、後でやっておくよ」と答えてくれたが、忍は「私がやります」と強引に新しい蛍光灯を受け取り脚立を借りて、階段を昇った。

 約二メートルある折りたたみ式の脚立、これを持つのは初めてではない。引越しのときに直政を手伝って、家の階段を昇ったり降りたりしていた。肩に担ぐようにすると大して重くないというのも直政に教わった知識だ。

 教室に戻って、机をガタガタと退けていると一番後ろの席の男子が一心不乱に書き込んでいたノートから顔を上げて、ちらりとこっちを見た。

 久しぶりに目が合ったが「手伝って」とは言わない。

 彼とはもう、そういう関係にない。

 脚立を広げて、おかしいな? と思いながら、一歩一歩登っていく。

 八十五キロある直政が昇ってもびくともしなかった脚立が、ぐらつく。

 体重、お兄ちゃんの半分ぐらいしかないのにな……首を傾げながら蛍光灯を目指す。

 ぐらつくのは当然で、脚立を安定させるための留め金がかかっていない。

 持ち運びは手伝ったが、昇るのは「危ないから」とやらせてもらえなかった。忍は留め金の存在を知らない。

 なんとかバランスを保ちながら、丁度一メートルの高さにあたる四段目に足をかけ、蛍光灯に手を伸ばしたとき。

 ブウゥゥゥゥゥゥン

 モーター音のようなものが、後ろから聞こえてきてとまった。

 点滅している蛍光灯の出す音ではない。嫌な予感がした、後ろを振り向く。

 忍の右肩にどこから入ったのか、大きな蜂が止まっていた。

「やっ」

 声を上げて目を瞑る。脚立が一瞬傾いて、止まった。

 じっとしていると、蜂は羽音を立てて飛び去っていった。

 ほっとして目を開ける。脚立が傾いたのに落ちなかった理由を忍は知らない。

 脚立に昇っている忍の膝下五センチ。ちょうど黒のソックスと白いふくらはぎの境界線と同じ高さに、男子生徒の頭がある。

 両手が、がっちりと脚立を掴んでいた。彼が留め金の役割をしている。

 脚立が僅かに震えていることで、忍はそのことに気がついた。

 視線を下に落とす。彼と、目が合う。


「あ」

「……あ」

「あ?」

「あっ」

 一つ目の「あ」は目が合ってしまった二人の「あ」

 二つ目は視界に、忍のスカートの中を捕らえてしまった彼の「あ」

 三つ目は、二つ目の「あ」を理解できない忍の疑問で、四つ目は理解した忍の驚きだ。

 忍は、慌ててスカートを抑えた。バランスが崩れる、脚立が大きく揺らいだ。

「危ないっ!」

 彼は、忍と床の間に体を滑り込ませた。

 落下する忍と床の間に、板ばさみになる『リアルギガトンボム』の完成だ。

 忍にダメージは無かったが、下敷きになってしまった彼には相当な衝撃があったに違いない。それにも関わらず彼は

「平気? 怪我はない? どこも痛くない?」

 忍を心配する発言ばかりを繰り返す。

 留め金の代わりをし、落下した忍を受け止め、忍の背中に手を回し優しく抱きとめている彼は、名前を石浜浩介という。

「一応、保健室行く?」

 浩介の真っ白いワイシャツに顔を押し付けたまま、忍は二度首を横に振る。

 忍が見て見ぬふりをしていただけで、浩介はずっと教室に居た。

 図書室で忍が覗き見たノートにずっと何かを書いていた。

 忍が純の席にいたのは、浩介が自分の隣の席に座っていたからだ。

 二人きりで並んで座ったら、ようやく心の奥に押し込めた感情が目を覚ましてしまう。そんなことになったらまた、苦しくなる。辛くなる。だから逃げた。

 ネット対戦で拒否されて以来、忍は浩介に近づこうとする努力の一切を止めている。もっと正確に言えば、全力で浩介に近づかない努力をしている。

 授業中は絶対に浩介の居る左側を向かなかった。休み時間になれば真っ先に純かトシの側へ行った。浩介は居ないものだとして過ごしてきた。

 今はそういうわけには行かない。忍は浩介の腕の中に居る。

「大丈夫?」

 浩介の問いに忍が、ゆっくり頷くと

「よかった」

 浩介は二度そう繰り返し、腕に力を込め忍を抱き寄せた。痛いほどだ。

 頭の奥がじぃんとする。涙が出そうだ。それが嬉しいからなのか辛いからなのかは判断できない。

 ただ、とても気持ちがいい。それだけは確かだ。

 二人はそのままの姿勢で、一ラウンド、つまり九十九秒間動かなかった。


「ごめん」

 先にそういったのは浩介だった。

 両腕で忍の肩を掴んで二人の体を離し、ぺたんと床に座った忍の前に片膝をついて、もう一度

「ごめん」

 謝って立ち上がった。背中を見せて忍から離れていく、他には何も無い。

 何についてのごめんなのかの説明も無い。

 浩介はまたノートに目を落とした、耳にはイヤフォンがはまっている。

 何も無かったように、今までの姿に戻ってしまった。

 忍も浩介に習おうと思った。

 何も無かったように蛍光灯を換え、純の席に座り、トシを待とうと思った。

 ……駄目だった。病気が始まった。

 忍は立ち上がる。浩介に向かって真っ直ぐ歩く。

 顔目掛けて飛んできた蜂を右手で払った。

 倒れたままの脚立も、チカチカしている蛍光灯も、気にしない。

 大量のマグネシウムにいっぺんに火をつけたように外が明るくなって、雷鳴が爆音を上げても気にならなかった。

 どうして私の存在を無視するのか? 無視するほどに嫌いならどうして私を助けたのか? そして、どうしてあんなに強く……。

 それらの疑問に比べれば、その他は忍にとって『どーでもいい』ことだ。

 浩介の前に立つ、手を伸ばして浩介の耳からイヤフォンを外した。

 驚いて、こっちを見る浩介の顔を睨んで。

「なにそれ? わかんない。全然わかんない」

 言葉をぶつけていく、浩介は答えない、視線を逸らす。

「逃げんなっ!」

 浩介はもう一度顔を上げたが、口はぎゅっと結ばれたままだ。

 忍は三十秒待った。そこで我慢の限界が来た。

「なんなの? どうしたいの? コースケは私をどうしたいの? 好きなの? 嫌いなの? わかんない、ぜんっぜんわかんない。好きならちゃんと側に居てよ、嫌いなら中途半端に優しくしないで。もう、わけわかんないよ。頭……おかしくなりそうだよ」

 なんて恥知らずで、傲慢で、下手糞な言い方だろう。当たるはずのない超必殺技をぶっ放してるみたい……。

 本人が感じている通り、忍は自分をコントロールできていない。

 わけもわからず、自分の一番強い感情を、浩介に叩きつけているだけだ。

 浩介は忍の言葉を聞いていた。

 奥歯を噛み締めて、何かを堪えるように聞いていた。

 外では雨が盛んに地面を叩いている。また、雷鳴が響いた。

「俺だって……」

 浩介は言いかけて、また口をつぐんだ。

 忍はそれに続く言葉を考えた。

 俺だって……好きなのか、嫌いなのか、側に居たいのか、そうでないのか……おかしくなりそうなのか。

 わからない。この問題は忍には難しすぎる。

 浩介は続きを言わず、もう一度

「ごめん」

 謝って、ノートに目を落とした。

 悔しさと、苛立ちと、怒りと、愛おしさがない交ぜになって忍の体を突き動かした。

 振り上げられた右手が、浩介の机を叩く。

「そんなもんどーでもいいっ! 教えてよ、ぜんぜんわかんない。いっこも答えてくれてない。なんにもわかんない。なんなの? それがそんなに大事なの? 毎日何書いてんのか知らないけどさ、私がずっと見てるのに顔も上げないで、おはようって言ってんのに挨拶もしないで、お、お弁当だって私、毎日作って来てたんだからね」

 止まらない、理性はもう止めろと言っている気がするが、こうなったら止まれない、突っ走ってしまう自分の体と心を止める方法を知っていたら、忍はこんなに不器用に生きて来なかった。ロケットと同じ。一度点火してしまったら、燃料がなくなるまで飛び続けるだけだ。

「お弁当あるのに……毎日、毎日焼きそばパン一個だけ食べて。お金浮かせてるくせにロッキーにも来ないで……何、やってるんだ。何やってるんだよぉ……わ、私は待ってるんだ。コースケと遊びたいんだ。それなのにネットもブロックして……もぉ、いい。私謝ってもいい。コースケとスパⅢしたい。コースケにとってスパⅢが、そんなに大事な物じゃなくっても……もぉいい、一緒に居てよ……たかが……」

 そこで忍は大きく息を吸った。覚悟を決めた。自分にとって一番大事なのはやっぱり……。

「忍っ!」

 忍が最後の言葉を言い切る前に、浩介が大きな声で名前を呼んだ。

「……はい」

 びっくりして、忍はそういう返事を返した。

「たかがゲームなんて、お前が言うな」

 浩介は、忍が見たことのない顔をしていた。

 こんなに怖い顔が出来るの人だと初めて知った。

「……ごめんなさい」

 忍が謝ると、浩介は急に泣きそうな声で

「ごめん」

 忍を驚かせたことを、詫び。鞄を持って席を立つと

「俺たち。今は、一緒に居ない方がいいね」

 そういい残して、教室を出て行ってしまった。

「……んだよぉ、何が今はだよ。私たちもうずっと一緒なんかじゃないよ。隣同士の席に座ってるけど、二人なんかじゃないよ。ずっと一人と一人だよ、一緒なんかじゃないよ」

 忍はしばらく浩介の席の前に立っていた。

 雷鳴が遠くなって、外が明るくなり始めた頃。ようやくトシがやって来た。


 忍はトシと蛍光灯を換え、脚立と切れてしまった蛍光灯を倉貫先生に返し、ロッキーに向った。

 鞄の中に、自分の物で無いノートが一冊入っている。

 浩介が、置き忘れたノートだった。



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