俺より強いあの娘を殴りに行く。(三・二)
茹だる様な暑さの中、体育の授業が行われている。
太陽が容赦なくグラウンドを照らしていた。
忍は、ポニーテールを揺らして、サッカーボールを追いかけている。
通常の四分の一の広さのコートを使った五対五のミニゲーム中だ。
他のチームメイトが、暑さを避けるようにダラダラ動いている中、忍だけが元気に走り回っている。
「ドバイで育ったから、暑さに強いんだ」
クラスメイトの一人がそう言ったが、育ちは関係ない。
忍は、運動することで胸の中にあるモヤモヤを追い出そうとしていた。
今は四時間目。朝から四度、浩介と目が合ったが、口を開く前に顔を背けられてしまった。
避けられてる、間違いなく避けられてる。
心の奥に広がっている鉛のような感情を、吐き出すようにボールにぶつける。
二点取ったところで、ホイッスルがメンバー交代を告げた。
「お疲れ」
コートを出たとき声をかけて来たのは小島純。
日の出高校に転校してきてから、初めて出来た同性の友人だ。
忍の見立てでは、純はこのクラスで一番の美人。
一七○センチの長身で見事なモデル体型、小さく、整った顔に、いつも少し物憂げな雰囲気を漂わせている。
「頑張った」
そういって、忍の頭を撫でる純は、今のゲームで一歩も動かなかった。
純は体育のときだけでなく普段から無駄に動かない。
休み時間も滅多に席を立たない。
浩介の四つ前の窓際の席で、細いフレームの眼鏡をかけて難しい本を読んでいるか、眼鏡を外してぼんやり外を眺めている。クラスメイトと話すこともほとんど無い。
男子曰く『近寄りがたい美人』女子に言わせると『いまいちよくわからない人』だ。
物憂げに窓の外を見つめているのは、今の恋人とは不倫で、そのことについて悩んでいるから。
そういう噂を立てられてしまうほど、純は大人びている。二十三、四といっても通るだろう。
忍と仲良くなったのは、不倫の噂がきっかけだ。
四日前、純の噂を聞いた直後、忍はそのことを確かめに行った。
気になることは、直接本人に聞いてみるのが一番だと忍は思っている。
ぼんやりしている純の右側に立って。
「小島さん。いつもそうやって外を見てるけど、何考えてるの?」
純は顔を外に向けたまま大きな瞳だけを忍に向け、一言。
「眠い」
簡潔に答えた。
忍が笑い、純もつられて笑った。それで二人は仲良くなった。
「なんかあった?」
純が聞きたくなるぐらい、忍は懸命にコートを走り回っていたらしい。
「ちょっと、むしゃくしゃしてることがあってね、動きたかったの」
忍が理由を話すと純は
「石浜?」
いきなり核心に飛び込んでくる。
不意を付かれた忍は思わず頷いてしまう。
「喧嘩?」
純は会話のときも無駄に口を動かさない。必要なことだけを二言三言、短くしゃべる。
「なんだかね。避けられてるの、口聞いてくれないし、目も合わせない」
「なんかした?」
「うんと、いろいろあって……殴った」
「謝れ」
『殴った』と『謝れ』の間は二フレームしか開かなかった。
「……それが出来たら、苦労はないんだけど。出来ないの、込み入った事情があってね」
「ならいい」
純は話を打ち切り、サッカーコートに隣接している、野球グラウンドを見た。
日の出高校は、田舎の学校だけあって、校庭が広い。陸上トラック、野球グラウンドにサッカーコート、他にテニスコートまであるが、残念ながらプールは無い。
野球グラウンドでは男子が試合をしている。
金属音がして、バックネットのほうにボールが打ちあがった。キャッチャーフライだ。
「補るっ」
浩介が後方に素早く下がり、背面飛びのようにボールに飛びついた。
「アウト!」
周囲から「おおっ」と驚きの声が上がった。
浩介は野球をやっていたことを誰にも話していない。もちろん忍も知らない。
「……すごい」
忍は目を丸くした。
野球のことはほとんどわからないが、あれがファインプレーと呼ばれるものなのはわかる。
忍の贔屓目かもしれないが、浩介は、普段ほとんど目立たないくせに、いきなり凄いことをやってのける。そういう姿をみるといつも心臓の鼓動が早くなる。一日に二回ぐらいそういうことがある。
守備を終えてベンチに戻る浩介を見て、純がぽつりといった。
「石浜いいよね」
「うん」
「ご馳走様」
「……何が?」
純は首をすくめた。こういう皮肉が通じるほど、忍は大人ではない。
攻守が入れ替わった。
トップバッターのトシが臀部に死球を受け、のた打ち回る。
「ケツがぁぁぁ~ 俺のケツが割れるぅぅぅ~」
クラス一番のスポーツマン。野球部の澤田のストレートが直撃だ、痛いだろう。
澤田は一年生だが、背番号一○を背負っている。二番手の投手の番号だ。
日の出高校野球部は毎回、初戦突破が目標というチームだが。それでも相当力はある。
「トシ、リード取らなくていい。歩いて帰れる」
左のバッターボックスに入った浩介の言葉に、校庭中から「は?」という声が上がった。
真面目だけが取り得の格闘ゲームオタクが、野球部のホープの球をホームランすると言ったのだ。
「コースケ、そんなこと言って大丈夫か?」
若干風化したネタをトシがふると、浩介は
「大丈夫だ、問題ない」
真顔で答えた。
面白くないのは、マウンド上の澤田だ。
地味なオタクにコケにされてたまるか、そういう気持ちの表れだろう。
マウンド上で浩介に三本指を立てて見せた。
三球三振にするぞ。というアピールだ。
「なんか、面白いことになってきた」「コースケが澤田君に喧嘩売った」「ゲームと勘違いしてんじゃないの?」「やっぱ、オタクはどっかおかしいね」
そういう陰口を聞きながら忍も思っている。
コースケ、どうしちゃったの? 大丈夫なの?
澤田が投球のモーションに入った。
忍にはものすごい速球に見えたが、浩介は表情一つ変えずバットを振りぬく。
金属音が響き、ボールが一塁側にピンポン玉のように飛んでいった。
「ファール!」
ほっと胸を撫で下ろす澤田に対し、浩介は悠然と構えなおした。
「まぐれだよ、まぐれ!」
「もう当たらないよ!」
澤田のファンを公言する、女子三人組が野次を飛ばし始めた。
二球目にやって来た高めの球を、浩介はフルスイングする。
ボールはバットにかすりもせず、キャッチャーミットに収まった。
三人組の野次が俄然大きくなった。
「無理かな?」
純の言葉に、忍は首を横に振った。
「打つよ」
「信じないと?」
もう一度、首を横に振る。
「打つ」
空振りをした後、納得したように浩介が頷いたのを忍は見た。ああいう時は何かを狙っている。
コジローのいずなに『ジャイアントスピアー』を仕掛け反撃を誘い。『ギガトンボム』を叩き込む前も、浩介はああやって頷いていた。
『打つ』と言ったのは応援でも祈りでもない。そうなるだろうという忍の予測だ。
三球目、内角に来た球を、浩介は一歩下がって避けた。やはり顔色は変わらない。
「三球使ったけど、終わってねぇぞ~」
トシの野次に、澤田は答えなかった。そんな余裕は無い。
三球三振に出来るような相手ではない。本気でかからないとやられる。
澤田は額の汗を拭う。
バッターボックスの浩介から、強豪校の選手が持っているものと同種の雰囲気がする。わけがわからない、ただのゲームオタクだとはとても思えない。
……意外といい試合になっちゃってるのって、浩介のせいなのか?
単純に名前の順で決まったチーム編成、野球部が三人も居る澤田のチームが圧勝していいはずの戦力差。
それなのに、四回を終わってスコアボードの数字は一対〇。
向こうのチームでピッチャーをやっているバスケ部の有司の球種は、一二〇キロ台のストレートと微妙に曲がるスライダーしかない。それでも一点しか取れていないのは、今バッターボックスに入っている浩介のリードのせいだ。
さっきのキャッチャーフライだって、並みの捕手なら捕れない。そもそも追うこともしないだろう。
……なんなんだ、コイツ?
そう思いながら投げ込んだ四球目は不安が手元狂わせたのか、明らかにボールとわかる球だった。
浩介は、全く動かない。明らかに野球を知っている打者の見送り方。
澤田の背筋を冷たい汗が伝う。
「あっ!」
五球目が浩介の胸元目掛けて飛んで行くのを見て、忍は目を瞑った。
浩介は後ろに倒れこんでそれを避ける。
「だっせ。コケた」
「当たっといた方がよかったんじゃないの?」
「生きてるうちに諦めた方がいいぞ~」
三人組の野次も、危険なボールも、全く気にしないという感じで浩介は立ち上がった。
また、悠然と構える。
六球目は外角低めのボールだった、浩介はバットを振る……ファール。
七球目、内角低め、コレもファール。
八、九、十、球が投げ込まれる度にファールの数も増えていく。
十一球目で、三人組の苛立ちは頂点に達する。
野球は関係なくゲーマーという人種を馬鹿にする発言をはじめた。
「早く諦めろよ、野球は、ゲームじゃないんだよ、魔法とか奇跡とかねぇんだよ」
「バットなんか似合わないんだから、コントローラーで打てよ」
「斬空拳とか、キモっ。死ねよ」
忍の隣に居た純が、三人組に刺すような視線を投げつけ、短く言う。
「喧しい」
殺気さえ感じられるその言葉で、サッカーコートに静寂が訪れる。
すぐ側に居たのに、一人だけ純の言葉が耳に入らなかったものが居る。
胸の前に祈るように両手を組み、小さく呟いている。
「がんばれ……がんばれ……がんばれ……がんばれ……」
涼やかな風が吹き、声の主の束ねた黒髪をそっと揺らした。
投球数が十四を数えた時、澤田が致命的なミスをする。
高めに何の工夫もない直球。
浩介の目が光った。
浩介は注目を集めようとしたわけではない、ただ勝ちたかった。
勝つにはホームランが必要だった。そのためにまず挑発して澤田の平常心を失わせた。二球目の高めを空振りしたのは、高目が苦手だと思わせて、この球を投げさせるための誘いだ。高めに甘く入った球なら、非力な自分でも遠くに飛ばせる。そういう計算の元の空振りだ。
澤田が焦って内角にボール球を二つ放ってくれた時点で、ほぼ勝ちは決まっていた。カウント的にもうストライク以外は投げられないからだ。
その後のボールのいくつかはヒットには出来た。
それでは足りないからわざとファールにしていた。ヒガンテで戦うときと同じだ。
耐えて耐えて、欲しいものを待つ。
声援なんかいらない。誉めてなんかもらわなくていい。
浩介が欲しいものは一つだけそれは、一発逆転の
「チャンス!」
忍が叫ぶと同時に浩介は思い切りバットを振る。
打球は青い空に、白い糸を引くように放物線を描いて、グラウンドの外に飛び出していった。




