俺より強いあの娘を殴りに行く。(三・一)
七月十一日月曜日、六時二十五分。
まだ本気を出さない太陽が、新築二階建てのマンションを照らしている。
上尾駅からバスで十五分ほどの建物。
その一室で玄関の鍵がカチャリと音を立てた。
扉の内側に、結婚して間もない初々しい夫婦がいる。
妻が夫の出勤を見送るところだ。
凛とした顔立ちの妻は、作業着姿の夫に「大丈夫?」と聞いた。
今日は夫の転職後、初出勤。
業種は同じ建設業とはいえ、先月まで夫はアラブ首長国連邦のドバイで働いていた。
如才ない人だが、急な環境の変化は負担にならないだろうか?
「みんないい人ばっかだし、無茶な日程も組まない会社だから」
心配ない。と胸の辺りをドンと叩いた。
丁度叩いたあたりに『石浜工務店・宮本』と金色の糸で刺繍がしてある。
作業着は随分使い込まれているが、お古をもらったわけではない。
夫はドバイに行く前も石浜工務店で働いていた。正確には転職ではなく復職だ。
安全靴を履いてから、夫は妻の顔を見て、少し申し訳なさそうにいう。
「茜今日は多分遅くなるから、先飯食っちゃって」
「……」
茜と呼ばれた新妻は、表情を曇らせる。
夫は茜の変化に瞬時に反応する。
「なんかあるなら、早く帰るけど?」
この人、直政さんと結婚してよかった。茜は思う。
『大層なことは出来ないだろうけど、俺、一生、茜を見失わない自信だけはある』
プロポーズの言葉通りだ。本当に私をよく見ていてくれる。些細な変化も見逃さない。
「あのね、忍のことなんだけど」
茜は二階で、実質、一人暮らしをしている妹の話を切り出した。
先週の月曜日に、上尾日の出高校に転校して、一週間。
始めの二日間は上機嫌で帰ってきたが、三日目に午前様で帰ってきて以来、様子がおかしい。
口数も少ないし、いつも何か考えている風だ。
学校で何かあったに違いない。
「まだ学校に馴染めてない?」
「だと思うんだ。ほら忍、空気読めないっていうか、読んでても無視するようなとこあるでしょ?」
「あるねぇ」
「上手く行かなくて、いろいろ溜め込んでるみたいだから、相手してあげて欲しいの」
「別に、茜でもいいんじゃないの? 茜のヒガンテ、動き悪くないと思うけど」
「全然ブンむくれなの。なんだかヒガンテが気に入らないみたい。私、他のキャラ満足に使えないし。大体、元コスプレ勢だもん。忍が納得するような立ち回りなんか無理よ」
ご安心いただけただろうか? この夫婦も安心と安定の格闘ゲーマーだ。
二人はドバイのゲームファンイベントで出会った。
直政はスパⅢ、スパⅣ大会で二冠王に輝き、茜はコスプレコンテスト女子の部で優勝。
二冠王、優勝と書くとなんだか凄そうだが、両方ともショウの余興で開催されたもので参加者は二十人ほど、町内運動会で一等賞。そういうレベルだ。
大会のレベルは重要ではない。
あえて、脱線して大事なことを書く。
そのイベントで、茜と直政は出会った。
三十歳ゲーマーと二四歳コスプレイヤーの二人は、そこから二年半の時をかけ、六歳の年齢差を乗り越えて結婚した。
要する書いている者は、こういうことが言いたい。
『コミケみたいなイベントで、三十過ぎたおっさんが、年下の美人系コスプレイヤー(しかも超純情)と付き合うような奇跡もこの世界には存在する! 諸君、希望を捨ててはいけない』
満足したので本題に戻る。
『私じゃ無理』という茜のお願いに。直政は頭を掻いた。
義理の妹、忍とのスパⅢは楽しいが……
「……忍ちゃん。最後、泣くからなぁ」
「泣かしていいの。それで本人満足してるんだから」
「わかった。でも今日は無理かもしれない。社長、飲み会大好きなんだよ」
「そっか。あ、飲み会あるのに三千円で大丈夫なの?」
「会社ってか社長の家で飲むから、これだけあれば平気。んじゃ行ってくる」
直政は、茜の頭を撫でて、玄関を出て行った。
「んっ、まだ六時半なのか。大工さんって朝早いんだな」
茜は寝直そうと寝室に入った。
昨日から始めたケーキ屋のパートの時間までまだ三時間もある。
ドバイで磨いた語学を生かして事務系とも考えたが、会社勤めは都合が悪い。
どうせ、赤ちゃんすぐ出来るし。
そう思った自分に茜はうろたえる。
「あわわ、私は、あ、朝から、なんてことを」
こういうことで、一々真っ赤になるあたりは、流石に忍の姉である。
そうとう清らかに育てられた姉妹なのだろう。
因みに茜も、直政に初めて名前だけで呼ばれた時、大層うろたえた。
「一人はベッドが広いねぇ」
真新しいベッドの上で四肢を伸ばし、陽気にいう。
仄かに残る直政の香りを感じながら、心地よい眠りに着こうとしたが、二階で何やら声がした。
「忍?」
寝ている場合ではない。茜は起き上がると、二階へ向った。
「あのさ、前みたく」
階段を上がると忍の声が聞こえる。
「食べてくれると、嬉しいんだけど」
誰かが居る? 彼氏?
茜はその考えを即座に打ち消す。
忍は男女の機微に対して超がつくほど鈍感だ。
去年の誕生日にクラスメイトの男の子からプレゼントを差し出され「好きなんだ」と言われた直後、二フレームで「何が?」と返した女だ。もちろんプレゼントは受け取った。
その時、茜は生身の人間が、名作漫画のボクサーのように真っ白な灰になるのを見た。
そうやって何人の男が心を折られたかわからない。
『片時も忍の側に居て離れず、どんな変化も見落とさない』
そういう男の子でないと、忍の彼氏は務まらないだろう。
一人でいるとすれば一体何をやっているのか興味がある。
悪いと思ったが、茜は部屋のドア少し開け、中をそっと覗き込んだ。
忍は自分の机の右側に立ち、左手で大きめの弁当箱を差し出しては、いろんなことを喋っている。
シャドウボクシングならぬシャドウランチボックスだ。
弁当箱の大きさから察するに、隣の席の男子にお弁当を渡すという想定らしい。
演劇部にでも入ったのかな?
ここ数日の悩みが部活のことなら安心だ。
悩んだり、苦しんだり、思う存分打ち込めばいい。
心配なのは、忍が今、上下ピンクの下着しか身につけていないことぐらいだ。
どうやら着替えの途中でスイッチが入ったらしい。
今、忍にとって弁当箱を渡す練習以外は『どーでもいい』ことなのだろう。
「べっ、別にあんたのために作ったんじゃないんだからねっ」
今時、そのアプローチはどうなのかな?
「食え、毒は入ってない」
それは言い方が怖いと、お姉ちゃんは思うよ?
「くわないか?」
忍? 方向性がどんどん違ってきちゃってるよ。
「駄目だぁ。どうやったらいいのか全然わかんない」
忍は床に倒れ伏した。納得のいく演技が出来ないらしい。
しばらく床で悶えていたが
「渡し方じゃないんだよね」
そういって沈んだ顔をする。ここ数日、茜がいつも見ている表情だ。
その表情のまま、忍はぽつり、ぽつりと呟く。
「四日も喋ってない。目も合わせてくれない。ロッキーにも来ない」
演技の話ではないんだ。
茜はようやく理解した。忍は男の子とのことで悩んでいる。
転校した翌日に、早起きして弁当を作り始めた時点で気がつくべきだった。
いつもは三合炊いていたご飯を、四合に増やしていたのも彼のためだ。
先週の木曜日と金曜日に夕食の席に来なかったのは、渡せなかった弁当を食べていたからに違いない。
「嫌われたかな? 普通、嫌うよね。だって打たれたんだもんね」
水曜日に喧嘩でもしたのだろう、だったら早く謝ればいいのに。
そういう姉の思いは届いていないのか。
「謝りたいけど、謝って仲良くして欲しいけど……やっぱり駄目。そんなことしたら、私の大事なものが一つ壊れる。そうなるぐらいなら、このままでいい」
険しい表情でそう言ってから、体育座りで膝を抱えた。
忍は時々、そうやって自分の殻に閉じこもる。閉じこもってしまったら自力で顔を上げるのを待つしかない。最悪、今日はこのまま登校しない可能性もある。
難しい娘だ。笑っていたかと思えばいきなり泣き出すし。普段は礼儀正しく気配りが出来る風なのに、何かに興味を持つと他のことは全部無視してそのことだけに没頭してしまう。
……忍はそういう自分を上手くコントロールできない。
自分との付き合い方もわからないのに、異性と付き合えるわけが無い。
「このままでいい。けど……きつい」
ようやく聞き取れた忍の声に。
……きついねぇ。けどさ、そうやって痛い思いしてわかって行くしか方法ないんだよ。
茜は心の中だけで答えて、そっとドアを閉め、浅く息を吸い明るいトーンで
「忍っ、そろそろ着替えないとまずいんじゃない?」
そういって階段を降り始めたころ。上空から。
「なっ! なんで、私、下着なんだ? これはまるっきり馬鹿じゃないか、た、大変なことになって……」
ブツブツいう妹の声が聞こえてきた。
「まだ、大丈夫そうだな」
姉がつぶやいた。




