離婚届を書いた夜、夫から初めてデートに誘われました
「来週の日曜、出かけないか」
離婚届の横へボールペンを置いた夫が、言った。
私は、食卓の端へ置いた封筒から顔を上げた。
「役所、日曜も出せるの?」
「そうじゃなくて」
夫の指が、書き終えたばかりの紙の隅を押さえた。
私の名前と、夫の名前。
同じ姓を並べて書くのも、もう最後かもしれなかった。
「デートがしたい」
私は返事をしなかった。
驚いていたのだと思う。
結婚して四年。その前に三年、付き合っていた。
七年間で一度も聞いたことのない言葉が、離婚届を書いた食卓で出てきた。
「どこに行くの」
訊いてから、いつもの返事を待ってしまった。
どこでもいいよ。真帆の行きたいところでいい。
夫は、伏せていたスマートフォンを手に取った。
「バッティングセンター」
思ってもみなかった場所だった。
*
五月の半ば、離婚を切り出したのは、私だった。
浮気をされたわけではない。
お金の問題もなかった。生活費は二人で出し、家事も、それぞれ担当を決めていた。
夫の担当は洗濯と、浴室の掃除。私の担当は料理と、台所の片づけ。
休日は二人で床を掃除した。
「平和じゃない」
以前、大学時代の友人に、そう言われたことがある。
私は「そうだね」と答えた。
そのあと何を言えばいいか、分からなかった。
夫の名前は、藤崎祐司。三十四歳。
私は真帆、三十二歳。
勤め先は別々で、平日は似たような時間に家を出る。
夜、どちらかが遅くなるときは連絡をした。夕飯を取っておくか訊けば、返事は来た。
返事は、ちゃんと来るのだ。
「土曜日、出かけない?」
「いいよ」
「何か、食べたいものある?」
「なんでもいい」
「この映画、どう?」
「真帆が観たいなら」
私はしばらく、それを優しさだと思っていた。
私の希望を否定しない人。
一緒にいると、揉めない人。
付き合い始めた頃、行きたいところはたくさんあった。
気になる店を見つけたら誘ったし、雑誌で温泉を見たら、ここへ行ってみようと話した。
祐司は、誘えば来てくれた。
雨の中でも駅まで迎えに来てくれたし、私が体調を崩せば、薬局へ行ってくれた。
だから、彼も私と一緒にいたいのだと思えた。
結婚して一年ほど経った頃から、少しずつ、分からなくなった。
私が何も言わない週末には、何も起きなかった。
祐司は朝から洗濯をして、干し終わるとソファで動画を観た。私が横に座っても、台所へ行っても、同じ姿勢で画面を見ていた。
「お昼、どうする?」
「なんでもいいよ」
言われる前から、その返事は知っていた。
二度、話したことがある。
「たまには、祐司が考えて誘ってくれたら嬉しい」
最初は、夕食のあとだった。
祐司は「分かった」と言った。
翌週、何もなかった。
忙しかったのだろうと思った。その次の週も、何もなかった。
二度目は、私が予約していた店をキャンセルした夜だった。
記念日に、どこかで食事をしようと話していた。
店を探したのも、予約したのも私で、祐司には二週間前から伝えていた。
当日、祐司から残業の連絡が来た。
仕事なら仕方がない。店へ電話をした。
帰ってきた彼は「ごめん」と言った。
「別の日、祐司が決めてくれる?」
「うん。考えとく」
私は待った。
一か月後、彼は「あの店、結局いつ行く?」と言った。
そのときには、もう行きたくなくなっていた。
「私と、何かしたいことって、ある?」
離婚の話をした夜、私はそう訊いた。
祐司は、困った顔をした。
「真帆が喜ぶことをしたいとは思ってる」
「うん。それは、聞いたことある」
食卓の上には、二人分の湯呑みがあった。
私は、自分の湯呑みの縁を見ていた。
「でも、私が言わなかったら、何もないでしょう」
祐司は黙った。
私は、責める言葉を続けたいわけではなかった。
もう、この話をするたび、自分が欲張りな人間になったように感じるのが、嫌だった。
「一緒にいたいって思ってるのが、私だけみたいで、寂しかった」
声にしたら、泣くかと思っていた。
涙は出なかった。
「離婚したい」
祐司は長いあいだ黙っていた。
それから、何度か口を開きかけて、閉じた。
最後に「分かった」と言った。
その返事まで、私に合わせたように聞こえた。
それから一週間、必要な話をした。
今の賃貸には祐司が残り、私は来月末を目処に出ていく。
次の部屋は、これから探す。
貯金の扱いや、持っていく家具についても、少しずつ決めた。
そして金曜日の夜、二人で離婚届に名前を書いた。
証人欄はまだ空いていた。互いの家族への報告も、これからだった。
全部を済ませた紙ではない。
それでも、夫が自分の名前を書き終えたとき、四年間が、もう動かせないものになった気がした。
その夜に、夫は私をデートに誘った。
*
「どうして、今なの」
私は、離婚届から目を離さずに訊いた。
祐司は、しばらく考えていた。
「今まで、誘ってって言われても、真帆が喜ぶ場所を探さなきゃと思ってた」
「うん」
「行った店も、行きたいって言ってたところも、真帆のほうがよく知ってるから。それで、あとに回してた」
私は封筒の口を指で押さえた。
「それ、聞いたら、納得できると思う?」
「思わない」
祐司が、顔を上げた。
「言われたことを、そのままにしてた。二回とも」
数えていたのかと思った。
忘れていたのかもしれないと思っていたのに。
「真帆が何も言わなくなって、予定がない週末が増えて、家でゆっくりできてると思ってた」
私は、思わず顔を上げた。
祐司は、視線を逸らさなかった。
「違ったんだよな」
違った。
あの頃、私は、誘うのをやめていた。
やめても同じ家にいられることが、かえってつらかった。
「バッティングセンターは、祐司が行きたいの?」
「うん。前は、一人で行ってた」
「知らなかった」
「結婚してからは、行ってない」
七年も一緒にいて、私は、夫が一人でどこへ出かけていたのかも、あまり知らなかった。
好きな食べ物は知っている。
苦手な野菜も、風邪を引いたときに食べられるものも。
でも、行きたい場所を訊くと、いつも、どこでもいいと返ってきた。
「真帆、球技は苦手って言ってたから、誘ってなかった」
「苦手だけど、行きたくないとは言ってないよ」
「うん」
祐司はスマートフォンの画面を見せた。
年季の入った建物と、緑色のネットが写っていた。
「三十分くらいで、疲れると思う。そのあと、駅の向こうに定食屋がある。昔、一度行った」
私は、画面の中の古びた看板を見た。
行ってみたかった店でも、好みに合わせて選ばれた店でもなかった。
「断ったら?」
「残念だけど、無理には誘わない」
「行ったら、離婚しないってことには、ならないよ」
「分かってる」
私は封筒へ離婚届をしまった。
「じゃあ、行く」
*
約束の日曜日は晴れた。
祐司は、出かける二十分前から、玄関のあたりをうろうろしていた。
「まだ、早いよ」
「うん」
私は、七年前にもこんなふうに緊張してくれたのだろうかと思った。
最初のデートでは、私が待ち合わせの時刻と場所を決めた。
祐司は十分前には着いていた。
あの日のことを思い出したのは、久しぶりだった。
駅まで歩き、二駅分、電車に乗った。
バッティングセンターは、大きな道路から一本入ったところにあった。
ボールの打ち出される音と、金属バットが鳴る音が、入口まで聞こえていた。
「最初は、見るだけでもいいから」
祐司が言った。
私はネットの手前で立ち止まり、貸し出し用のバットを見た。
「一回は、やる」
祐司は、一番遅い球速の打席を選び、立つ位置を教えてくれた。
最初の球は、バットを振る前に通り過ぎた。
二球目は、振り終わってから来た。
「全然、合わない」
ネットの向こうで、祐司が口を押さえていた。
「笑った?」
「ごめん」
「祐司も、最初はこうだった?」
「最初に来たの、小学生だったから」
「それ、今、言わなくてよくない?」
祐司が、今度こそ笑った。
私も笑ってしまい、次の球を見逃した。
二十球のうち、当たったのは三球だった。
一本は、思ったよりいい音がした。
終わって振り返ると、祐司が、私より嬉しそうな顔をしていた。
「今の、よかった」
「見てた?」
「見てた」
息が上がっていた。
こんなことを楽しいと思うとは、来る前は考えてもいなかった。
次は祐司が打席へ入った。
彼が脱いだ上着を受け取り、私はネットの外から見た。
構えると、いつも家で見る肩とは違って見えた。
球が来る。祐司が振る。
大きな音がして、私は思わず「おお」と声を出した。
祐司が、こちらを見た。
その拍子に、次の球を見逃した。
「見てなくていいから、前」
私が言うと、彼は片手を上げた。
終わってから、自動販売機の前で飲み物を買った。
祐司はスポーツドリンクを、私は麦茶を選んだ。
ベンチへ座ると、右の二の腕が重かった。
「明日、仕事できるかな」
「二十球なら、大丈夫だと思うけど」
「私は、二十回以上振ったから」
祐司が頷いた。口元が、まだ笑っていた。
「好きなの、こういうの」
訊くと、彼はネットのほうを見た。
「球が来たら、打つ。それだけ考えてればいいから」
「ふうん」
「仕事で、考えても分からないことがあると、よく来てた」
ボールがネットへ当たる音がした。
私は、結婚する前の祐司を想像した。
私の知らない仕事の日があって、うまくいかないことがあって、ここへ来ていた。
「また、来たい?」
私が訊くと、彼は少し迷った。
「来たい」
それから、私を見た。
「真帆と」
私は、麦茶の蓋を閉めた。
すぐに返事をすると、声が変になりそうだった。
「明日の腕を見て、決める」
そう言うと、祐司は「うん」と答えた。
*
その日、家へ帰ってから、私は湯船に長く浸かった。
楽しかった。
それは、否定できなかった。
でも、洗面所へ出て、棚の中の封筒が目に入ると、気持ちが沈んだ。
楽しかったから、今までのことはいい。
そうは、ならなかった。
私は、ずっと今日みたいな日を待っていた。
待っているあいだに、誘われたいと思うこと自体を、恥ずかしく感じるようになっていた。
髪を乾かしていると、祐司が洗面所を覗いた。
「腕、大丈夫?」
「今のところは」
「夕飯、作ろうか」
私はドライヤーを止めた。
「今日、楽しかった」
祐司の顔が、明るくなった。
その顔を見たら、続けるのがつらくなった。
でも、ここで黙ったら、また同じになると思った。
「でも、離婚の話がなくなったとは、思わないでほしい」
彼の表情が止まった。
私も、手に持ったドライヤーを見下ろした。
「一回で、今までのことを忘れられない」
「うん」
「私、今日が楽しかったぶん、怖い。次を待って、また何もなかったらと思うと」
祐司は、入口の枠に置いていた手を下ろした。
「分かった」
同じ返事だった。
私は、彼の顔を見た。
「何が、分かったの?」
訊いた瞬間、自分の声が尖ったのが分かった。
祐司は、少し黙った。
「今日、楽しかったことと、今まで寂しかったことは、別だってこと」
私は、何も言えなかった。
「また誘う。けど、それで、もう大丈夫だろって思わないようにする」
彼が、私の手元を見た。
「夕飯は、どうする。俺は、うどんを作ろうと思ってた。真帆の分も、いる?」
私は頷いた。
祐司が台所へ行くのを見送ってから、ドライヤーのスイッチを入れ直した。
翌朝、腕は痛かった。
カーテンを開けようとして、思わず声が出た。
「大丈夫?」
祐司が、寝室の入口から顔を出した。
「大丈夫じゃない。二十球なら平気って、言った」
「ごめん」
彼は上へ手を伸ばし、代わりにカーテンを開けた。
朝日が入ってきた。
私はまだ笑うつもりではなかったのに、笑ってしまった。
*
その週の木曜日、祐司からメッセージが来た。
『再来週の土曜、駅前の映画館でこれを観たい。真帆もどうかな』
作品の紹介ページが添えられていた。
私は昼休みに開いた。
昔の建物を修復する職人を追った、ドキュメンタリー映画だった。二週間限定の特別上映だと書いてあった。
興味は、あった。
祐司がこういうものを観たいとは、知らなかった。
『行きたい』
返すと、上映時刻の候補が送られてきた。
私は、午後の回を選んだ。
『予約が始まったら、席を取るね』
画面を閉じてから、しばらく、机の上のスマートフォンを見ていた。
その週の土曜日、私は部屋の内見へ行った。
会社へ通いやすい駅で、二つの物件を見た。
一つ目は、洗面所が狭かった。
二つ目は、窓を開けると大きな道路の音がした。
担当の人が、ほかの候補も出してくれると言った。
私は、六月末までには決めたいと伝えた。
まだ、探すのをやめるとは言えなかった。
帰ると、祐司が洗濯物を取り込んでいた。
「どうだった」
「今日は、どちらも決めなかった」
「そうか」
それ以上は、訊かれなかった。
私は着替えて、二人分のお茶を淹れた。
映画の前日の金曜日、祐司の帰りが遅くなった。
九時過ぎに届いたメッセージには、明日、午前中だけ会社へ出る、と書いてあった。
『映画には、間に合うと思う』
私は、その文字を何度も読んだ。
前に予約した店をキャンセルした夜が、急にはっきりと蘇った。
『分かった』
そう返した。
部屋の明かりが、ひどく白く見えた。
翌日、十一時四十分。
祐司から電話が来た。
「ごめん。まだ終わらない」
私は、着替えたばかりの服の裾を見た。
映画は午後二時からだった。
会社から映画館まで、三十分ほど。
「何時に、終わるの」
「まだ、分からない。昨日の見込みが甘かった」
私は、空いたほうの手を握った。
やっぱり。
頭の中に浮かんだ言葉を、口にしそうになった。
「もう、いいよ」
先に出たのは、それだった。
何度も言ってきた言葉だった。
「真帆」
電話の向こうで、祐司が言った。
「今日、行けないかもしれない。ぎりぎりまで待っててほしいとは、言えない」
私は、黙っていた。
「真帆は、一人で観たい? それとも、今日はやめたい?」
「……今日は、やめたい」
「分かった。買った分は変更できないから、そのままになるけど、真帆は気にしないで」
私は、スマートフォンを持ち直した。
「そういうことじゃ、ない」
「うん」
返事のあと、祐司が黙った。
今度は、その沈黙を、自分で埋めようとしなかった。
「楽しみにしてた」
言ったら、ようやく涙が出た。
「今回は、私が探した映画じゃなかったから。祐司が一緒に行きたいって言ってくれて、嬉しかった」
鼻をすすった。誰にも聞かれないようにする必要はなかった。
「前の店のときも、そう言いたかった。仕事なのは分かってた。でも、残念だった」
「うん。ごめん」
「また、忘れる?」
祐司の息が、聞こえた。
「忘れない。別の日を、俺から話す」
私は目を閉じた。
その言葉だけなら、前にも聞いた。
電話を切ったあと、着替え直す気にはなれず、ソファに座った。
*
祐司が帰ってきたのは、夕方の六時前だった。
玄関の音がしても、私は座ったままだった。
「ただいま」
彼がリビングへ来て、仕事の鞄を床へ置いた。
「今日は、ごめん」
私は頷いた。
彼はスマートフォンを取り出した。
「あの映画、来週の木曜までだった。平日の夜、七時十分からの回がある。水曜か木曜、俺は仕事を早く切り上げられる。真帆は、どうかな」
私は、彼を見た。
「今度は、本当に?」
「月曜に、上司に話す。今の仕事は月曜で区切りがつく予定だから。ただ、絶対に何も起きないとは、言えない」
私は、また膝へ目を落とした。
分かっている。
仕事をしていれば、私にも急なことはある。
「そのときも、俺から連絡する。また次を、考える」
祐司は、隣へ座ってもいいか訊いた。
私が頷くと、少し間を空けて腰を下ろした。
「真帆がもう観たくなかったら、別の映画でもいい。でも、俺は、一緒に行きたい」
私は、彼の手を見た。
離婚届を書いた指が、今はスマートフォンの端を握っていた。
「木曜日なら、行ける」
言うと、彼が顔を上げた。
「木曜で、いい?」
「うん」
彼が、カレンダーを開いた。
私は隣から覗き込み、自分の予定も確かめた。
月曜日の昼、祐司から連絡が来た。
『木曜、早く帰れるように話した。真帆の予定が変わっていなければ、席を取る』
私は『大丈夫』と返した。
木曜日、仕事を終えて映画館へ着くと、祐司は入口で待っていた。
私を見ると、少し手を上げた。
「お疲れ」
「お疲れさま」
彼の横へ並んだ。
展示されているポスターには、建物の梁を見上げる職人が写っていた。
「これ、どうして観たいと思ったの」
ずっと訊きたかったことを、ようやく口にした。
「実家が、古い木造だったから。小さい頃に、一度、床を直してもらったことがあって」
「あの家?」
「うん。廊下の、奥のほう」
結婚の挨拶に行った家だった。
廊下の床の色が違っていたことまでは、覚えていなかった。
「今度、見せて」
祐司が私を見た。
私はポスターを見たまま、続けた。
「直したところ。まだ、分かるなら」
「分かると思う」
案内の放送が流れた。
祐司が、私へチケットを渡した。
*
映画のあと、駅のホームで、祐司が言った。
「今日、一緒に来られてよかった」
私は頷いた。
電車が来るまで、あと四分あった。
「私も」
少し考えてから、付け足した。
「土曜日は、嫌だった。でも、今日、ちゃんと誘い直してくれたのは、嬉しかった」
祐司は、ゆっくり頷いた。
「今まで、謝ったら、話が終わったと思ってた」
「私は、謝ってもらったら、もう怒っちゃいけないと思ってた」
線路の向こう側で、電車が通り過ぎた。
風に押され、私は少し足を開いて立ち直した。
「言ってくれたら、分かったのにって、言わない?」
訊くと、祐司は首を振った。
「二回、言われてた」
それから、少し間があった。
「三回目が離婚の話になるまで、ちゃんと考えなかった」
私は、目の前の白線を見た。
許すという言葉を、まだ、口にできる気はしなかった。
でも、彼が何を聞いたのか分からないまま、会話が終わることは、今日はなかった。
「私、部屋を探すの、いったん止める」
祐司が私を見た。
「ここにいたいか、もう少し考えたい。祐司と一緒に」
彼はすぐに喜ばなかった。
少し唇を結んで、それから頷いた。
「ありがとう」
電車が入ってきた。
二人で乗り、空いていた席へ並んで座った。
祐司は、私の手のそばに自分の手を置いた。
私は、その指先に触れた。
*
部屋探しを止めてからも、何度か言い合いになった。
祐司が休日の予定をぎっしり組もうとして、私が「毎週出かけたいわけじゃない」と言ったこともある。
私が、もう別にいいよ、と会話を終わらせかけて、祐司に「まだ、聞きたい」と止められたこともあった。
そういう日は、気持ちよく眠れなかった。
翌朝、何事もなかった顔で出勤するのも、少し難しかった。
でも、夕方に続きを話せた。
ある金曜日、祐司から、日曜は家にいたいと言われた。
私は一瞬、顔を見た。
「疲れた?」
「うん。今週は、ちょっと」
それから彼は、私へ顔を向けた。
「真帆は、どうしたい?」
「私も家にいたい。先週買った本、まだ読んでないし」
「じゃあ、そうしよう」
日曜日、祐司は洗濯をした。
私はソファで本を読んだ。
干し終えた彼が、隣へ座った。
「お昼、俺、パンを買いに行こうと思ってる」
「あそこの?」
「うん」
「私も行く」
彼が頷いた。
何も特別な予定はない。
それでも、あの頃と同じ日曜日ではなかった。
九月の終わり、私は、洗面所の棚から封筒を出した。
祐司を呼んで、食卓へ座った。
離婚届の証人欄は、空いたままだった。
両方の家族へ話す前に、私たちは、いったん待つと決めていた。
「私、離婚しない」
紙を見ずに、祐司を見て言った。
彼が、膝の上で手を握った。
「祐司と、ここで暮らしたい」
まだ、前と同じように寂しくなることはあった。
彼が変わろうとしているからといって、私の記憶まで変わるわけではない。
それでも、この先の週末を思い浮かべたとき、もう一人で予定を作っている自分しか見えない、ということはなくなっていた。
「俺も、真帆と暮らしたい」
祐司が言った。
私は頷いた。
「だから、これは、もう使わない」
食卓に置いた離婚届を、二人で見た。
私が片側を持ち、祐司が反対側を持った。
「破って、いい?」
「うん」
私は、紙の端から少しずつ裂いた。
祐司は、私が引くのに合わせて、紙を押さえていた。
裂けた紙を重ね、もう一度、小さくした。
最後の一枚を手放すと、指先が少し震えた。
祐司が、私の手を包んだ。
「真帆」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
「好きだよ」
私は唇を噛んだ。
泣くつもりはなかった。
「知ってる、って、今は言える」
祐司が、私の肩を引き寄せた。
私は彼のシャツを掴んだ。
抱きしめられるのは久しぶりではなかったのに、その日は、なかなか手を離せなかった。
*
翌週の日曜日、また、あのバッティングセンターへ行った。
私は二十球のうち、六球に当てた。
祐司は、そのうちの一本を見逃した。
「今、当たったのに」
「見てた」
「嘘。飲み物、見てた」
私が言うと、彼は持っていた麦茶を下ろした。
「ごめん。次は見る」
次の球は、空振りだった。
私は振り返り、祐司の顔を見て、笑ってしまった。
「そこは、見なくていい」
「見てた」
今度は、本当だった。
次の球が出てくる音がして、私は慌てて前を向いた。
~完~




