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離婚届を書いた夜、夫から初めてデートに誘われました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/26

「来週の日曜、出かけないか」


 離婚届の横へボールペンを置いた夫が、言った。

 私は、食卓の端へ置いた封筒から顔を上げた。


「役所、日曜も出せるの?」

「そうじゃなくて」


 夫の指が、書き終えたばかりの紙の隅を押さえた。

 私の名前と、夫の名前。

 同じ姓を並べて書くのも、もう最後かもしれなかった。


「デートがしたい」


 私は返事をしなかった。

 驚いていたのだと思う。

 結婚して四年。その前に三年、付き合っていた。

 七年間で一度も聞いたことのない言葉が、離婚届を書いた食卓で出てきた。


「どこに行くの」


 訊いてから、いつもの返事を待ってしまった。

 どこでもいいよ。真帆の行きたいところでいい。


 夫は、伏せていたスマートフォンを手に取った。


「バッティングセンター」


 思ってもみなかった場所だった。



     *



 五月の半ば、離婚を切り出したのは、私だった。


 浮気をされたわけではない。

 お金の問題もなかった。生活費は二人で出し、家事も、それぞれ担当を決めていた。

 夫の担当は洗濯と、浴室の掃除。私の担当は料理と、台所の片づけ。

 休日は二人で床を掃除した。


「平和じゃない」


 以前、大学時代の友人に、そう言われたことがある。

 私は「そうだね」と答えた。

 そのあと何を言えばいいか、分からなかった。


 夫の名前は、藤崎祐司。三十四歳。

 私は真帆、三十二歳。

 勤め先は別々で、平日は似たような時間に家を出る。

 夜、どちらかが遅くなるときは連絡をした。夕飯を取っておくか訊けば、返事は来た。


 返事は、ちゃんと来るのだ。


「土曜日、出かけない?」

「いいよ」

「何か、食べたいものある?」

「なんでもいい」

「この映画、どう?」

「真帆が観たいなら」


 私はしばらく、それを優しさだと思っていた。

 私の希望を否定しない人。

 一緒にいると、揉めない人。


 付き合い始めた頃、行きたいところはたくさんあった。

 気になる店を見つけたら誘ったし、雑誌で温泉を見たら、ここへ行ってみようと話した。

 祐司は、誘えば来てくれた。

 雨の中でも駅まで迎えに来てくれたし、私が体調を崩せば、薬局へ行ってくれた。


 だから、彼も私と一緒にいたいのだと思えた。


 結婚して一年ほど経った頃から、少しずつ、分からなくなった。


 私が何も言わない週末には、何も起きなかった。

 祐司は朝から洗濯をして、干し終わるとソファで動画を観た。私が横に座っても、台所へ行っても、同じ姿勢で画面を見ていた。


「お昼、どうする?」

「なんでもいいよ」


 言われる前から、その返事は知っていた。



 二度、話したことがある。


「たまには、祐司が考えて誘ってくれたら嬉しい」


 最初は、夕食のあとだった。

 祐司は「分かった」と言った。

 翌週、何もなかった。

 忙しかったのだろうと思った。その次の週も、何もなかった。


 二度目は、私が予約していた店をキャンセルした夜だった。

 記念日に、どこかで食事をしようと話していた。

 店を探したのも、予約したのも私で、祐司には二週間前から伝えていた。


 当日、祐司から残業の連絡が来た。

 仕事なら仕方がない。店へ電話をした。

 帰ってきた彼は「ごめん」と言った。


「別の日、祐司が決めてくれる?」

「うん。考えとく」


 私は待った。

 一か月後、彼は「あの店、結局いつ行く?」と言った。

 そのときには、もう行きたくなくなっていた。



「私と、何かしたいことって、ある?」


 離婚の話をした夜、私はそう訊いた。

 祐司は、困った顔をした。


「真帆が喜ぶことをしたいとは思ってる」

「うん。それは、聞いたことある」


 食卓の上には、二人分の湯呑みがあった。

 私は、自分の湯呑みの縁を見ていた。


「でも、私が言わなかったら、何もないでしょう」


 祐司は黙った。

 私は、責める言葉を続けたいわけではなかった。

 もう、この話をするたび、自分が欲張りな人間になったように感じるのが、嫌だった。


「一緒にいたいって思ってるのが、私だけみたいで、寂しかった」


 声にしたら、泣くかと思っていた。

 涙は出なかった。


「離婚したい」


 祐司は長いあいだ黙っていた。

 それから、何度か口を開きかけて、閉じた。

 最後に「分かった」と言った。


 その返事まで、私に合わせたように聞こえた。



 それから一週間、必要な話をした。

 今の賃貸には祐司が残り、私は来月末を目処に出ていく。

 次の部屋は、これから探す。

 貯金の扱いや、持っていく家具についても、少しずつ決めた。


 そして金曜日の夜、二人で離婚届に名前を書いた。

 証人欄はまだ空いていた。互いの家族への報告も、これからだった。


 全部を済ませた紙ではない。

 それでも、夫が自分の名前を書き終えたとき、四年間が、もう動かせないものになった気がした。


 その夜に、夫は私をデートに誘った。



     *



「どうして、今なの」


 私は、離婚届から目を離さずに訊いた。

 祐司は、しばらく考えていた。


「今まで、誘ってって言われても、真帆が喜ぶ場所を探さなきゃと思ってた」

「うん」

「行った店も、行きたいって言ってたところも、真帆のほうがよく知ってるから。それで、あとに回してた」


 私は封筒の口を指で押さえた。


「それ、聞いたら、納得できると思う?」

「思わない」


 祐司が、顔を上げた。


「言われたことを、そのままにしてた。二回とも」


 数えていたのかと思った。

 忘れていたのかもしれないと思っていたのに。


「真帆が何も言わなくなって、予定がない週末が増えて、家でゆっくりできてると思ってた」


 私は、思わず顔を上げた。

 祐司は、視線を逸らさなかった。


「違ったんだよな」


 違った。

 あの頃、私は、誘うのをやめていた。

 やめても同じ家にいられることが、かえってつらかった。


「バッティングセンターは、祐司が行きたいの?」

「うん。前は、一人で行ってた」

「知らなかった」

「結婚してからは、行ってない」


 七年も一緒にいて、私は、夫が一人でどこへ出かけていたのかも、あまり知らなかった。

 好きな食べ物は知っている。

 苦手な野菜も、風邪を引いたときに食べられるものも。

 でも、行きたい場所を訊くと、いつも、どこでもいいと返ってきた。


「真帆、球技は苦手って言ってたから、誘ってなかった」

「苦手だけど、行きたくないとは言ってないよ」

「うん」


 祐司はスマートフォンの画面を見せた。

 年季の入った建物と、緑色のネットが写っていた。


「三十分くらいで、疲れると思う。そのあと、駅の向こうに定食屋がある。昔、一度行った」


 私は、画面の中の古びた看板を見た。

 行ってみたかった店でも、好みに合わせて選ばれた店でもなかった。


「断ったら?」

「残念だけど、無理には誘わない」

「行ったら、離婚しないってことには、ならないよ」

「分かってる」


 私は封筒へ離婚届をしまった。


「じゃあ、行く」



     *



 約束の日曜日は晴れた。

 祐司は、出かける二十分前から、玄関のあたりをうろうろしていた。


「まだ、早いよ」

「うん」


 私は、七年前にもこんなふうに緊張してくれたのだろうかと思った。

 最初のデートでは、私が待ち合わせの時刻と場所を決めた。

 祐司は十分前には着いていた。

 あの日のことを思い出したのは、久しぶりだった。


 駅まで歩き、二駅分、電車に乗った。

 バッティングセンターは、大きな道路から一本入ったところにあった。

 ボールの打ち出される音と、金属バットが鳴る音が、入口まで聞こえていた。


「最初は、見るだけでもいいから」


 祐司が言った。

 私はネットの手前で立ち止まり、貸し出し用のバットを見た。


「一回は、やる」


 祐司は、一番遅い球速の打席を選び、立つ位置を教えてくれた。

 最初の球は、バットを振る前に通り過ぎた。

 二球目は、振り終わってから来た。


「全然、合わない」


 ネットの向こうで、祐司が口を押さえていた。


「笑った?」

「ごめん」

「祐司も、最初はこうだった?」

「最初に来たの、小学生だったから」

「それ、今、言わなくてよくない?」


 祐司が、今度こそ笑った。

 私も笑ってしまい、次の球を見逃した。


 二十球のうち、当たったのは三球だった。

 一本は、思ったよりいい音がした。

 終わって振り返ると、祐司が、私より嬉しそうな顔をしていた。


「今の、よかった」

「見てた?」

「見てた」


 息が上がっていた。

 こんなことを楽しいと思うとは、来る前は考えてもいなかった。


 次は祐司が打席へ入った。

 彼が脱いだ上着を受け取り、私はネットの外から見た。

 構えると、いつも家で見る肩とは違って見えた。

 球が来る。祐司が振る。

 大きな音がして、私は思わず「おお」と声を出した。


 祐司が、こちらを見た。

 その拍子に、次の球を見逃した。


「見てなくていいから、前」


 私が言うと、彼は片手を上げた。



 終わってから、自動販売機の前で飲み物を買った。

 祐司はスポーツドリンクを、私は麦茶を選んだ。

 ベンチへ座ると、右の二の腕が重かった。


「明日、仕事できるかな」

「二十球なら、大丈夫だと思うけど」

「私は、二十回以上振ったから」


 祐司が頷いた。口元が、まだ笑っていた。


「好きなの、こういうの」


 訊くと、彼はネットのほうを見た。


「球が来たら、打つ。それだけ考えてればいいから」

「ふうん」

「仕事で、考えても分からないことがあると、よく来てた」


 ボールがネットへ当たる音がした。

 私は、結婚する前の祐司を想像した。

 私の知らない仕事の日があって、うまくいかないことがあって、ここへ来ていた。


「また、来たい?」


 私が訊くと、彼は少し迷った。


「来たい」


 それから、私を見た。


「真帆と」


 私は、麦茶の蓋を閉めた。

 すぐに返事をすると、声が変になりそうだった。


「明日の腕を見て、決める」


 そう言うと、祐司は「うん」と答えた。



     *



 その日、家へ帰ってから、私は湯船に長く浸かった。

 楽しかった。

 それは、否定できなかった。


 でも、洗面所へ出て、棚の中の封筒が目に入ると、気持ちが沈んだ。

 楽しかったから、今までのことはいい。

 そうは、ならなかった。


 私は、ずっと今日みたいな日を待っていた。

 待っているあいだに、誘われたいと思うこと自体を、恥ずかしく感じるようになっていた。


 髪を乾かしていると、祐司が洗面所を覗いた。


「腕、大丈夫?」

「今のところは」

「夕飯、作ろうか」


 私はドライヤーを止めた。


「今日、楽しかった」


 祐司の顔が、明るくなった。

 その顔を見たら、続けるのがつらくなった。

 でも、ここで黙ったら、また同じになると思った。


「でも、離婚の話がなくなったとは、思わないでほしい」


 彼の表情が止まった。

 私も、手に持ったドライヤーを見下ろした。


「一回で、今までのことを忘れられない」

「うん」

「私、今日が楽しかったぶん、怖い。次を待って、また何もなかったらと思うと」


 祐司は、入口の枠に置いていた手を下ろした。


「分かった」


 同じ返事だった。

 私は、彼の顔を見た。


「何が、分かったの?」


 訊いた瞬間、自分の声が尖ったのが分かった。

 祐司は、少し黙った。


「今日、楽しかったことと、今まで寂しかったことは、別だってこと」


 私は、何も言えなかった。


「また誘う。けど、それで、もう大丈夫だろって思わないようにする」


 彼が、私の手元を見た。


「夕飯は、どうする。俺は、うどんを作ろうと思ってた。真帆の分も、いる?」


 私は頷いた。

 祐司が台所へ行くのを見送ってから、ドライヤーのスイッチを入れ直した。



 翌朝、腕は痛かった。

 カーテンを開けようとして、思わず声が出た。


「大丈夫?」


 祐司が、寝室の入口から顔を出した。


「大丈夫じゃない。二十球なら平気って、言った」

「ごめん」


 彼は上へ手を伸ばし、代わりにカーテンを開けた。

 朝日が入ってきた。

 私はまだ笑うつもりではなかったのに、笑ってしまった。



     *



 その週の木曜日、祐司からメッセージが来た。


『再来週の土曜、駅前の映画館でこれを観たい。真帆もどうかな』


 作品の紹介ページが添えられていた。

 私は昼休みに開いた。

 昔の建物を修復する職人を追った、ドキュメンタリー映画だった。二週間限定の特別上映だと書いてあった。


 興味は、あった。

 祐司がこういうものを観たいとは、知らなかった。


『行きたい』


 返すと、上映時刻の候補が送られてきた。

 私は、午後の回を選んだ。


『予約が始まったら、席を取るね』


 画面を閉じてから、しばらく、机の上のスマートフォンを見ていた。



 その週の土曜日、私は部屋の内見へ行った。

 会社へ通いやすい駅で、二つの物件を見た。

 一つ目は、洗面所が狭かった。

 二つ目は、窓を開けると大きな道路の音がした。


 担当の人が、ほかの候補も出してくれると言った。

 私は、六月末までには決めたいと伝えた。

 まだ、探すのをやめるとは言えなかった。


 帰ると、祐司が洗濯物を取り込んでいた。


「どうだった」

「今日は、どちらも決めなかった」

「そうか」


 それ以上は、訊かれなかった。

 私は着替えて、二人分のお茶を淹れた。



 映画の前日の金曜日、祐司の帰りが遅くなった。

 九時過ぎに届いたメッセージには、明日、午前中だけ会社へ出る、と書いてあった。


『映画には、間に合うと思う』


 私は、その文字を何度も読んだ。

 前に予約した店をキャンセルした夜が、急にはっきりと蘇った。


『分かった』


 そう返した。

 部屋の明かりが、ひどく白く見えた。



 翌日、十一時四十分。

 祐司から電話が来た。


「ごめん。まだ終わらない」


 私は、着替えたばかりの服の裾を見た。

 映画は午後二時からだった。

 会社から映画館まで、三十分ほど。


「何時に、終わるの」

「まだ、分からない。昨日の見込みが甘かった」


 私は、空いたほうの手を握った。

 やっぱり。

 頭の中に浮かんだ言葉を、口にしそうになった。


「もう、いいよ」


 先に出たのは、それだった。

 何度も言ってきた言葉だった。


「真帆」


 電話の向こうで、祐司が言った。


「今日、行けないかもしれない。ぎりぎりまで待っててほしいとは、言えない」


 私は、黙っていた。


「真帆は、一人で観たい? それとも、今日はやめたい?」

「……今日は、やめたい」

「分かった。買った分は変更できないから、そのままになるけど、真帆は気にしないで」


 私は、スマートフォンを持ち直した。


「そういうことじゃ、ない」

「うん」


 返事のあと、祐司が黙った。

 今度は、その沈黙を、自分で埋めようとしなかった。


「楽しみにしてた」


 言ったら、ようやく涙が出た。


「今回は、私が探した映画じゃなかったから。祐司が一緒に行きたいって言ってくれて、嬉しかった」


 鼻をすすった。誰にも聞かれないようにする必要はなかった。


「前の店のときも、そう言いたかった。仕事なのは分かってた。でも、残念だった」

「うん。ごめん」

「また、忘れる?」


 祐司の息が、聞こえた。


「忘れない。別の日を、俺から話す」


 私は目を閉じた。

 その言葉だけなら、前にも聞いた。

 電話を切ったあと、着替え直す気にはなれず、ソファに座った。



     *



 祐司が帰ってきたのは、夕方の六時前だった。

 玄関の音がしても、私は座ったままだった。


「ただいま」


 彼がリビングへ来て、仕事の鞄を床へ置いた。


「今日は、ごめん」


 私は頷いた。

 彼はスマートフォンを取り出した。


「あの映画、来週の木曜までだった。平日の夜、七時十分からの回がある。水曜か木曜、俺は仕事を早く切り上げられる。真帆は、どうかな」


 私は、彼を見た。


「今度は、本当に?」

「月曜に、上司に話す。今の仕事は月曜で区切りがつく予定だから。ただ、絶対に何も起きないとは、言えない」


 私は、また膝へ目を落とした。

 分かっている。

 仕事をしていれば、私にも急なことはある。


「そのときも、俺から連絡する。また次を、考える」


 祐司は、隣へ座ってもいいか訊いた。

 私が頷くと、少し間を空けて腰を下ろした。


「真帆がもう観たくなかったら、別の映画でもいい。でも、俺は、一緒に行きたい」


 私は、彼の手を見た。

 離婚届を書いた指が、今はスマートフォンの端を握っていた。


「木曜日なら、行ける」


 言うと、彼が顔を上げた。


「木曜で、いい?」

「うん」


 彼が、カレンダーを開いた。

 私は隣から覗き込み、自分の予定も確かめた。



 月曜日の昼、祐司から連絡が来た。


『木曜、早く帰れるように話した。真帆の予定が変わっていなければ、席を取る』


 私は『大丈夫』と返した。


 木曜日、仕事を終えて映画館へ着くと、祐司は入口で待っていた。

 私を見ると、少し手を上げた。


「お疲れ」

「お疲れさま」


 彼の横へ並んだ。

 展示されているポスターには、建物の梁を見上げる職人が写っていた。


「これ、どうして観たいと思ったの」


 ずっと訊きたかったことを、ようやく口にした。


「実家が、古い木造だったから。小さい頃に、一度、床を直してもらったことがあって」

「あの家?」

「うん。廊下の、奥のほう」


 結婚の挨拶に行った家だった。

 廊下の床の色が違っていたことまでは、覚えていなかった。


「今度、見せて」


 祐司が私を見た。

 私はポスターを見たまま、続けた。


「直したところ。まだ、分かるなら」

「分かると思う」


 案内の放送が流れた。

 祐司が、私へチケットを渡した。



     *



 映画のあと、駅のホームで、祐司が言った。


「今日、一緒に来られてよかった」


 私は頷いた。

 電車が来るまで、あと四分あった。


「私も」


 少し考えてから、付け足した。


「土曜日は、嫌だった。でも、今日、ちゃんと誘い直してくれたのは、嬉しかった」


 祐司は、ゆっくり頷いた。


「今まで、謝ったら、話が終わったと思ってた」

「私は、謝ってもらったら、もう怒っちゃいけないと思ってた」


 線路の向こう側で、電車が通り過ぎた。

 風に押され、私は少し足を開いて立ち直した。


「言ってくれたら、分かったのにって、言わない?」


 訊くと、祐司は首を振った。


「二回、言われてた」


 それから、少し間があった。


「三回目が離婚の話になるまで、ちゃんと考えなかった」


 私は、目の前の白線を見た。

 許すという言葉を、まだ、口にできる気はしなかった。

 でも、彼が何を聞いたのか分からないまま、会話が終わることは、今日はなかった。


「私、部屋を探すの、いったん止める」


 祐司が私を見た。


「ここにいたいか、もう少し考えたい。祐司と一緒に」


 彼はすぐに喜ばなかった。

 少し唇を結んで、それから頷いた。


「ありがとう」


 電車が入ってきた。

 二人で乗り、空いていた席へ並んで座った。

 祐司は、私の手のそばに自分の手を置いた。

 私は、その指先に触れた。



     *



 部屋探しを止めてからも、何度か言い合いになった。


 祐司が休日の予定をぎっしり組もうとして、私が「毎週出かけたいわけじゃない」と言ったこともある。

 私が、もう別にいいよ、と会話を終わらせかけて、祐司に「まだ、聞きたい」と止められたこともあった。


 そういう日は、気持ちよく眠れなかった。

 翌朝、何事もなかった顔で出勤するのも、少し難しかった。

 でも、夕方に続きを話せた。


 ある金曜日、祐司から、日曜は家にいたいと言われた。

 私は一瞬、顔を見た。


「疲れた?」

「うん。今週は、ちょっと」


 それから彼は、私へ顔を向けた。


「真帆は、どうしたい?」

「私も家にいたい。先週買った本、まだ読んでないし」

「じゃあ、そうしよう」


 日曜日、祐司は洗濯をした。

 私はソファで本を読んだ。

 干し終えた彼が、隣へ座った。


「お昼、俺、パンを買いに行こうと思ってる」

「あそこの?」

「うん」

「私も行く」


 彼が頷いた。

 何も特別な予定はない。

 それでも、あの頃と同じ日曜日ではなかった。



 九月の終わり、私は、洗面所の棚から封筒を出した。

 祐司を呼んで、食卓へ座った。


 離婚届の証人欄は、空いたままだった。

 両方の家族へ話す前に、私たちは、いったん待つと決めていた。


「私、離婚しない」


 紙を見ずに、祐司を見て言った。

 彼が、膝の上で手を握った。


「祐司と、ここで暮らしたい」


 まだ、前と同じように寂しくなることはあった。

 彼が変わろうとしているからといって、私の記憶まで変わるわけではない。

 それでも、この先の週末を思い浮かべたとき、もう一人で予定を作っている自分しか見えない、ということはなくなっていた。


「俺も、真帆と暮らしたい」


 祐司が言った。

 私は頷いた。


「だから、これは、もう使わない」


 食卓に置いた離婚届を、二人で見た。

 私が片側を持ち、祐司が反対側を持った。


「破って、いい?」

「うん」


 私は、紙の端から少しずつ裂いた。

 祐司は、私が引くのに合わせて、紙を押さえていた。

 裂けた紙を重ね、もう一度、小さくした。


 最後の一枚を手放すと、指先が少し震えた。

 祐司が、私の手を包んだ。


「真帆」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。


「好きだよ」


 私は唇を噛んだ。

 泣くつもりはなかった。


「知ってる、って、今は言える」


 祐司が、私の肩を引き寄せた。

 私は彼のシャツを掴んだ。

 抱きしめられるのは久しぶりではなかったのに、その日は、なかなか手を離せなかった。



     *



 翌週の日曜日、また、あのバッティングセンターへ行った。

 私は二十球のうち、六球に当てた。

 祐司は、そのうちの一本を見逃した。


「今、当たったのに」

「見てた」

「嘘。飲み物、見てた」


 私が言うと、彼は持っていた麦茶を下ろした。


「ごめん。次は見る」


 次の球は、空振りだった。

 私は振り返り、祐司の顔を見て、笑ってしまった。


「そこは、見なくていい」

「見てた」


 今度は、本当だった。

 次の球が出てくる音がして、私は慌てて前を向いた。


~完~

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