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 それでも俺は、隣の部屋のキミが戻ってきてくれるのを今も待っている。

作者: 神経水弱
掲載日:2026/06/28

 

 満開の桜がピンク色の絨毯のように大阪城を囲う。そんな春の色で華やかに彩られた花見日和の大阪城を、今日も一人で病棟の多目的ルームにある展望窓から眺めているよ。初めてこの景色を見た一年前の四月、俺は隣の部屋のキミと出会った。

 出会って、一緒に過ごす中で俺たちは恋人になって、今日で一か月が経ったな。キミはまだ、手術室へ行ったきりで、ただいまと言ってくれないけれど。


 それでも俺は、隣の部屋の彼女きみが戻ってきてくれるのを今も待っている。


 退院まで残り一週間となった今も、この景色と共に恋人であるキミを待っているよ。約束をしたあの日と変わらずに、今も俺はキミを愛しているから。


⭐︎⭐︎


「隣の八五室に奈緒哉くんと同い年の女の子がおるんよ。めっちゃ可愛いんよ」


「へえ」


 担当の看護師さんである櫻木さんは採血をしながら、唐突に色恋じみた話題を振ってきた。正直、どうでもいい。

 一年後、自分が生きている保証すらない。そんな状況で、俺は平気な顔をするだけで精一杯だった。恋愛だとか、誰が可愛いだとか、そんなことに興味を向ける余裕なんてなかった。


「いっぺん見てみたら?名前は言われへんけどすぐわかるわ。あ、惚れても、がつがついったらあかんよ」


「すいません、興味ないです」


「あれ?ひょっとして彼女持ち?」


「飛躍しすぎです。いませんし、そもそもどうでもいいです」


 なんやあ。つまんないのお。と櫻木さんは採血の片付けを済ませる。


「次は十二時に採血するからねえ」


 そう言い残して、仕切りカーテンを閉める。

 櫻木さんの足音が遠のいていく中、俺はベッドを跨いでいるキャスター付きテーブルの上に置いていたワイヤレスイヤホンを耳に押し込み、再び体内に音楽を流し込む。


「そんな余裕ないわ」


 余裕がない。死を身近に感じた時の恐怖、不安、苛立ち、やるせなさ。こうしたマイナスの感情を音楽で誤魔化している。

 来年死ぬとするならば、俺はこんな風に残りの時間を音楽で誤魔化して過ごさなければならないのか?

 それならばいっそのこと、もう今この瞬間にでも死んでしまえば楽だと思っている。


⭐︎⭐︎


 俺の場合、外出こそはできないが、治療がまだ本格的に始まっていないため、病院内なら自由に移動できる。

 この病院はかなり大きな部類で、一階にはカフェやコンビニ、その他にも床屋やアパレルショップまである。ちなみにコンビニはローソンで、朝食後の採血が終わった後、からあげクンのチーズ味と爽健美茶を買って、八階の自分の病棟にある多目的ルームで大阪城を見ながら食べ飲みするのが日課だ。

 展望窓前のカウンター席から大阪城を一望しながら食べるからあげクンと爽健美茶のコンビは最強である。入院してから今日まで二週間、毎日食べている。

 お花見シーズン真っ只中の大阪城は人がいっぱいで、今日も大手門をたくさんの人が行き来している。満開の桜がぐるっと大阪城を囲み、そのピンク色の絨毯が華やかに彩っている。

 真下から見たら、また違う感動があるのか。でもそんな日は来るのか。と、気を抜いた時に沸々と湧き上がるいつものマイナスな感情を爽健美茶と共に流し込んだ時だった。


「綺麗……」


 隣から声が聞こえ、思わず振り向く。さっきまでいなかった女の子が、俺の隣に立ち、透き通るように大きな瞳を輝かせて、ピンク色に彩られた大阪城を眺めていた。


── 隣の八五室に奈緒哉くんと同い年の女の子がおるんよ。めっちゃ可愛いんよ

── いっぺん見てみたら?名前は言われへんけど、すぐわかるわ


 今朝、櫻木さんが言っていた例の子だとわかった。

 肩まで伸びた少し明るい茶色の髪。長いまつ毛。上下ともに薄い唇。

 可愛いというより綺麗だ。眼下に広がるピンク色に染まった大阪城よりも綺麗だ。そんなことを本気で思って、ますます彼女を見入っていた。


「え」

 

 小さく声を溢した彼女と思わず目が合ってしまい、混乱して謝ってしまう。


「ごめん」


「えと……何が?」


「いや……」


 見惚れてました、なんて言えるわけがない。他の言い訳を考えていると、くすりと彼女は笑った。


「もしかして、隣の病室の少年くん?」


「え」


「八六室の十四歳の少年くんでしょ?」


「少年くんって、それじゃあ君は少女ちゃんやん。なあ、キミの担当の看護師さんってさ、櫻木さん?」


「うんっ、櫻木さん」


「やっぱりな。なんか俺のことについて他になんかうてた?いらんこととか」


 彼女はにやっと控え目に唇の端を上げた。


「んーん。たぶんっ。なーんにも!」


「それ絶対言うてるやん」


「あ!それ新喜劇のツッコミみたい!」


 くつくつと笑う彼女。そんな彼女を見て、色恋なんてどうでもいいと言っていた自分が遠ざかっていくように思えた。


「新喜劇って吉本の?」


「そう!入院した日にテレビつけたら、たまたまやってるの見たのっ。ほんっとおもしろくって、毎週土曜日が楽しみなんだよねえ。いやあ、もっと早く入院すべきだったよ」


「いつから入院してんの?」


「二週間前!」


「同じや」


「ほんと?じゃあ同期だねっ」


「同期て…てか名前は?なんて言うの?」


「あっ、えと……んっ、んんっ……どうも!私、橋本環奈です!」


「いや、それ定番のボケ。てか吉本新喜劇はもうええから」


 環奈ちゃんまでとはいかなくても美人な方ではあるので、ツッコミを入れるのは気が引ける。だが話が進まないような気がしたのでぺしっとツッコミを入れると、彼女は頬を赤らめて苦笑いした。


水月みづき紫陽花あじさいですっ。神奈川から来ました!あ、タメだよっ」


「タメって、中二?」


「うん!インガスンガスン」


「いや、新喜劇はもうええって」


「ちょっと!約束が違うじゃん!そこは椅子からこけないと!ほら、もう一回やるよっ」


「いや、やらんて」


「てかなんで君は名乗らないの?」


「あんたのボケひろてたんや」


「今のツッコミ、や、の語尾伸ばしたら吉田よしだゆたかさんみたいだね」


「どんだけ新喜劇好きやねん。まあおもろいけど」


「でしょっ!あんなに面白い番組、関東では放送してないもん」


「あー、そっか。関東は新喜劇放送してないんやったっけ」


「んで、なんで名乗らないの?」


「君が話を脱線させたんやあぁぁ」


「それそれっ!いやあ、上手いね!七里しちり奈緒哉なおやくんっ」


「なんで知ってるんやあぁぁぁ」


 手を叩いて、真っ白い歯を見せて笑う彼女に、久しぶりに気持ちが温かくなり、俺も自然と口角が上がるのがわかった。


「奈緒哉くんっ」


「いきなり下の名前呼び」


「いいじゃんっ!ほらっ」


 水月さんは手を差し出してきた。小さくて、真っ白なシルクのような手を、合ってるよな?と戸惑いながら掴むと、ぶんぶんと上下に振り回す。


「シェイクハンズっ!」


「普通に握手してよ」


「あたし流シェイクハンズっ!」


「技名みたいに言うな」


 同じ病棟の患者とは思えないくらいに元気な彼女の握手した手は驚くほど温かかった。


⭐︎⭐︎


 あの日以降、俺と水月さん毎日会った。


「奈緒哉くん見て!サブスク入ったら吉本新喜劇見れた!」


「まじか」


「すごいんよ!一番古いので、あたしたちが生まれる前のやつも視聴できるの」


「え、見たい」


「そう言うと思って、あたしは奈緒哉くんと一緒に見ようと決意し、見るのを我慢していたのだあ」


「そこまでせんでええよ」


 水月さんは顔をしかめ、口を尖らせる。


「そんな寂しいこと言うなら見せないよ?」


「えー」


「ほら、言うことあるでしょ?」


「ごめん」


「ちゃんと丁寧に言って」


 最近、水月さんの影響で土曜日の十三時は四チャンをつけて吉本新喜劇を見ている。ちょうど先週の回に出演していた座長のアキさんを思い出した。


「すいません」


「いいよお」


 アキさんの持ち芸の一つで、他の座員が「すいません」と謝ると、「いいよお」とアキさんが返すもので、吉本新喜劇を見た人たちは一度は使ったことがあるだろう人気のネタだ。

 その時のアキさんと同じように目尻をとろんと下げて口先を尖らせる水月さんは可愛かった。そんな感想は恥ずかしくて口には出せないので、違う形で彼女を褒めることにした。


「まさか、いいよお、にもっていくために不機嫌になったふりをしたのか?」


「にひひひ。まあね」


「素人目線としては上手いことネタまで運んだなあって感心してる」


「上手いだろお。あたし、万が一退院できたら吉本新喜劇の座員を目指すべきではないかと思ってるんだよねえ」


 万が一、その言葉がちくりと刺さる。最近忘れかけていたマイナスの感情が沸々と湧き上がる。


──そんな余裕ないわ。


 余裕がなかったはずなのに、マイナスの感情で埋め尽くされていたはずなのに。水月さんと出会ってから、俺は病気が治った後、あわよくば水月さんとどうしたいかなんて考え出していた。

 そんな未来は不確かだと、冷静に考えればわかるはずなのに。


「なあ」


「ん?」


 俺の呼びかけに水月さんは小さく首を傾げる。


「お互い退院したらさ。勉強がてら、一緒に難波にさ、新喜劇観に行こうや」


 言った瞬間、マイナスの感情は吹き飛び、ナンパしてるみたいな自分の発言に恥ずかしくなった。やっぱなしと言おうと思った。


「行くっ!!」


 水月さんの弾んだ声に恥じらいは消え失せた。よっぽど行きたいのか、口約束の段階にも関わらず、笑顔を浮かべて、興奮を抑えられずに身体を小さく弾ませる水月さん。


「すっごく行きたかったの!えー!楽しみすぎるんだが」


「ほんま?」


「うんっ!あ!あと、大阪城も散策したいな!あたし、寄り道しないでこの病院に来たから大阪城の敷地内に入ったことないんだよね」


「じゃあさ」


 一旦言葉が喉に留まる。俺たちがこの病院にいる意味を、彼女もわかっていないはずがないからである。それでも、俺は彼女と少しでも長くいたいと思った。いや、生きたいと思った。

 

「とりま退院しよ」


「退院……かあ」


 水月さんは一瞬、表情を固めた。だがすぐに目元をとろんと柔らかくさせ、小指を差し出してきた。


「じゃあ退院したら絶対行こうねっ!約束っ!」


「あぁ。約束や」


 俺は水月さんと小指を絡ませながら、こないだ読んだ太宰治の斜陽の一文を思い出した。


──人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。


 あぁ、なるほどなと今この瞬間納得した。今がそれらを成し遂げる時なのだと。死を身近に感じ、震えている場合じゃないのだと。


⭐︎⭐︎


 年が明けて、あっという間に三月になった。俺と紫陽花の髪は薬の副作用で一度全て抜けたが、投薬治療が一旦終わった後から、薄っすらとだがまた生えてきた。

 治療はしんどかったが、俺には紫陽花という強い味方がいて耐えることができた。

 そうして俺は紫陽花よりも一足先に革命を起こした。手術が終わり、ついに昨日、退院の話が出たのだ。嬉しい……はずだった。

 俺の胸の奥には、まだ消えない火種が残っていた。


 紫陽花の運命を変える手術が、まだ終わっていないこと。


 そして俺は、まだ一度も紫陽花に「好きだ」と伝えていないこと。


 その二つが、消えかけたマイナスの感情の残火を何度も燻らせていた。紫陽花の手術は脳の手術で、難しい手術だと聞いている。それでも俺は成功すると信じている。万が一は考えない。いや、考えたくなかった。

 だけど、想いを伝えることだけは別だった。

 もし断られたら。もし迷惑だったら。そんな情けない不安ばかりが頭をよぎる。本当なら手術が終わるまで待つべきなのだろう。


 それでも俺はもう我慢できなかった。


「好きだ」


 夕陽が差し込む多目的ルーム。

 花柄ワンポイントがついた真っ白いニット帽をオレンジ色に染まらせながら、紫陽花は呆気に取られたまま固まっている。


「俺は紫陽花が好きだ」


 二度目の告白は長い沈黙を生む。その沈黙を破るように彼女は小さく笑った。でもその笑顔は心なしか悲しそうだった。


「嬉しい…けどごめん」


 心臓が止まりそうになる。


「ごめんね、奈緒哉くん」


「あ、いや、まあ……うん」


「……」


「わかった。てか俺こそごめんな。手術前にわけわからんこと言うて」


 もう採血の時間やな。じゃあ、また明日。と言って、俺は逃げるように椅子から立ち上がり、一瞥もせずに部屋に戻った。

 仕切りカーテンをしゃっと閉めると、身勝手な振る舞いをしたことの後悔と、苛立ち、情けなさを押し付けるよう枕に顔を押し付けた。


「何してんねん、俺。紫陽花は大事な手術を控えてるんやぞ。メンタルを保つことがどれだけ大事か、自分が一番わかってるはずやろ」

 

 声に出さずにはいられないくらい自分に腹が立った。


「アホやろ……」


 足をばたばたと暴れさせる。


「ほんま、クソ野郎やろ……」


 情けなくて、寂しくて、とにかくどうしようもないくらい、辛かった。

 それでも謝罪くらいはしないといけないと思った。だからとにかく明日、謝ろう。土下座でもなんでもしよう。と誓いながら俺はこの日、手術後以来、久しぶりにシャワーを諦めた。廊下に出ると紫陽花に会うかもしれないからだ。紫陽花に会う資格はなかったから。


⭐︎⭐︎


「…くん……くん……奈緒哉くん」


 コンコンと窓を叩く音と共に紫陽花の声がする。


「奈緒哉くんっ」


 はっきりと聞こえた紫陽花の声で覚醒し、目を開ける。

 ないとは一瞬思ったが窓の外を見ると、月明かりに照らされた紫陽花の姿があった。窓のすぐ外には、わずかな足場しかないはずなので下手をすれば落ちてしまう。

 俺は飛び起き、ライトアップされた大阪城を背にした紫陽花の方へと向かい、早速窓を開けた。今朝、同室の人が一人退院して、四人部屋が一人部屋になっていたことを幸運に思った。


「何してんねん!」


 紫陽花は俯いていた。


「ごめんなさい」


「とりあえず早よ入り」


 俺は窓から身を乗り出し紫陽花を抱き上げる。耳に吹きかかる彼女の吐息、そして温かく柔らかい彼女の身体が押し付けられる感覚が心臓の鼓動を早める。

 紫陽花を部屋に入れると、俺は彼女を自分のベッドに座らせた。


「なんで外から入ろうとしたん」


 紫陽花は膝の上で手を握りしめたまま、小さく答える。


「廊下から入るとバレるから」


「バレたとしても隣の部屋やねんから、寝ぼけて部屋間違えましたで済むやろ。もう、焦るわ……あんなとこに立ってんねんもん」


「ごめん。冷静になって考えられるくらい余裕なかったから。早く奈緒哉くんと……お話…したくて……」


  しゃくり上げる声とともに紫陽花の瞳から涙が溢れた。その姿に胸が痛んだ。どう見ても、夕方の件を引きずっている。

 でも今は後悔に浸っている場合じゃない。巡回に来た看護師に見つかれば大騒ぎになる。


「とりあえずトイレ行くふりして、看護師がおらんか見てくる」


「うん…ごめん」


「話は明日や。大丈夫やったら、自分の部屋に戻るんやで?」


 袖をぎゅっと掴まれる。


「だめ。今話したいの。どうしても…」


 引っ張られる袖越しに、紫陽花の意思の強さが伝わってくる。

 月明かりに照らされた俯きがち紫陽花の顔からは疲れが見えた。そんなところまで彼女を追いつめてしまったのかと、自分に腹が立つ。


「わかった。でも様子だけ見てくる。だからちょっと待ってて」


 紫陽花はこくりと頷くと、ようやく袖を離してくれた。

 仕切りカーテンを閉め、扉を開けた瞬間、不運にも巡回中の櫻木さんと遭遇してしまった。

 虚をつかれたが、なんとか頭を働かせ、部屋は俺一人だけってことになっているから、俺が部屋から離れば櫻木さんも部屋に入る必要がなくなると踏んだ。


「ちょっと、トイレ」


 そうして櫻木さんの脇を通り抜けた瞬間、後ろから肩をがしっと掴まれた。


「なあ聞きたいことあるんやけど」


 すっと横顔に風圧を感じるとともに、櫻木さんの看護帽からはみ出た髪が頬につく。

 夜の薄暗い廊下で、横顔にじわりと突き刺さるような櫻木さんの視線は貞子が前髪の隙間から睨みつけるような視線、いや死線のようだ。


「な、なんですか?」


 声が震えてしまう。動揺を勘繰ったのか、がしっと肩を掴んだ櫻木さんの握力は痛いくらいに強くなっていく。


「ひょっとして紫陽花ちゃん、奈緒哉くんの部屋におる?八五室に紫陽花ちゃんだけおらんくて、窓開いてたから」


 思いっきりバレていた。思わず唇を噛み締める。なにか上手い言い逃れはないかと考えていると、櫻木さんは深いため息を吐いた。


「やっぱりなあ。まあそれやったらええわ」


「え」


「紫陽花ちゃん、夜の採血の時、めっちゃ元気なくてさあ。たぶん奈緒哉くん関連かと」


「あ、いや、え……」


「その反応…あー…やっぱりなんかあったんやな」


「な、何がですか?」


「わかってんで。奈緒哉くん、紫陽花ちゃんからの告白を断ったな」


 逆なんやああ。と吉田裕さん風に突っ込みたくなったが、他の看護師さんに見つかるとめんどくさいので一旦生唾を飲み込んだ。


「逆ですね」


「え…あ…そうなん……ぷっ」


「笑うなああ」


 小さい声で突っ込むと、櫻木さんは笑い声が溢れる口を手で押さえながら、もう片方の手はお腹を押さえていた。


「いやあ、ごめんごめん。そんな報告、自分で言うんやとおもてさ」


 櫻木さんは煙たがる視線を向ける俺の肩をぽんぽんと叩きながら笑い声を飲み込む。


「まあ、なんとなくわかったから、はよ紫陽花ちゃんの悩み聞いて、部屋に返してや。やないと私以外の人が巡回来たら知らんよ。私裏切るから」


「あ、ありがとうございます」


 ほな、はよ部屋戻り。と俺を部屋に押し戻す。櫻木さんの大人義おとなげに感服していると、周りをきょろきょろした。


「えっちいことはやめてや」


 あぁ、やっぱり櫻木さんだ。と思いながら、しません。ときっぱり言って締め出した。

 今はそれどころじゃないと軽く憤りながらも、少し気持ちが楽になった。

 ところが、仕切りカーテンを開けると紫陽花はしゃくりあげながら、涙と鼻水でぐしょぐしょに顔を濡らしていた。俺はさっそく頭を下げた。


「夕方のときは…ごめん」


 紫陽花はしゃくりあげながら、顔を横に振る。


「あたしの方こそごめん…ごめんなさい」


 辿々しく言葉を詰まらせながら謝る紫陽花に、また罪悪感が心臓を力強く握りしめ、一瞬呼吸が止まる感覚に陥る。全く俺はなんて愚かなことをしてしまったんだろうか。


「いや、悪いのは俺の方や。紫陽花はもうちょっとしたら手術やのに。いらんことを言うてもうた」


 ごめん。と再び頭を下げると、すっと紫陽花の白く華奢で小さな手がまた袖をぐいっと掴んで引っ張る。顔を上げると、涙を頬に伝わらせながら紫陽花は何度も顔を横に振っている。


「いらんことじゃない」


「え?」


「あたしも…あたしも奈緒哉くんのことが好きだし」


 面を食らった俺は、思考回路がショートするままに言葉を紡いだ。


「じゃあなんで…断ったん?」


 紫陽花は乱暴に腕で涙と鼻水を拭って、震える声で答えた。


「手術で……記憶を失うかもしれないから」


 予想だにしていなかった事態に俺の頭は真っ白になり、言葉が喉につっかえて、唇を意味もなく何度も開いては閉じた。

 そんな俺を見て、紫陽花は視線を足元に落とす。それでもとうとうと詳細について話してくれた。


「命は助かるけど、九割の確率で一年くらい前までか、もしくはそれ以上かの記憶がなくなるかもしれないんだって」


「記憶はなくなったら、戻らんのか?」


「わからない。戻るかもだし、戻らないかもしれないだし……」


「なら待つ」


 考えた結果でも、慰めようとしたわけでもない。ただ、本心だった。

 紫陽花は俺の言葉を聞いた瞬間、弾かれたように顔を上げた。


「なくなった記憶が戻るとしても、いつ戻るかわからないんだよ?十年後かも、二十年後かもしれない。ひょっとしたら戻らないかもしれないし」


「ええよ」


「酷いこと言うかもしれないよ?傷つけるようなことを言うかもしれないよ?」


「ほんま、こんな時まで俺の心配するなんてアホやな」


「違う。記憶を無くしたとしても奈緒哉くんに嫌われるのが今のあたしにとっては嫌なの。そんな気持ちがずっと消えないまま、新しい自分にリセットされてしまうのが嫌なの」


「悲しいなあ。俺って、そんなに信頼されてかったんかあ」


「そんなことないよ!」


 紫陽花が勢いよく顔を上げる。涙で潤んだ瞳が大きく見開かれていた。

 その顔が滲む。気づけば俺の頬にも熱いものが流れていた。声が詰まる。それでも、今だからこそ言わなければいけないと思った。


「それでも俺は紫陽花が、どうしようもないくらいに好きなんや」


 紫陽花の肩が震える。


「奈緒哉くん……」


 紫陽花は、目尻から涙が溢れているけれど彼女らしく真っ白い歯を見せて満面の笑みを浮かべた。


「あたしも、大好き…奈緒哉くんのことが…大好きだよ」


 紫陽花の言葉に反応するように、俺は彼女を抱きしめた。


「ありがとう。ほんまありがとう」


 壊れてしまいそうなくらい細い身体を遠慮なく力いっぱい抱きしめた。

 どれほど時間が経ったかわからないくらいで、俺は紫陽花の肩を掴んで、一旦彼女を胸から離し、小指を差し向けた。


「約束や。俺は紫陽花を待つ。ずっとずっと待ってる」


 紫陽花は目尻に涙を残しながら、目元をとろんと柔らかくさせ、小指びを絡めてくれた。


「約束っ。あたしも絶対、ぜーったい、奈緒哉くんのところに戻る。んで、ずっと一緒にいるの」


「せやな。難波にも行かなあかんしな。大阪城も一緒に回らなあかんしな」


「あたし、それずっと楽しみにしてるから」


「じゃあ何がなんでも約束守らなあかんな」


「ねぇ、奈緒哉くん」


「ん?」


「大好き」


「俺もや」


「奈緒哉くんが大大好き」


「俺も紫陽花が大大好き」


「あたしの方が大大大好き」


 何度もそう言い合って、抱きしめる。結局、紫陽花が自分の部屋に帰ったのは午前三時を過ぎた頃だった。巡回は誰一人来なかった。きっと櫻木さんがありがたいお節介をやいてくれたからだと思いながら、俺は紫陽花と交わした約束を胸の奥に刻み込んだ。


⭐︎⭐︎


 俺は今日退院する。荷物を持った俺は一人、いつものように病棟の多目的ルームの展望窓から眼下に広がる大阪城の景色を眺めている。

 お花見シーズンの大阪城は一年前と変わらず人がいっぱいで、今日も大手門をたくさんの人が行き来している。桜が開花し、ピンク色の絨毯に囲まれ、華やかに彩られた大阪城。

 初めてこの景色を見たあの日、俺は紫陽花と出会った。


 そして俺は今も待っている。


 紫陽花との約束を果たすため。俺は彼女が恋人として戻ってくるのを、今も待っている。

 そんな紫陽花とは一時間前、最後に部屋を出た際に廊下で鉢合わせした。

 今の紫陽花に俺との記憶はない。だから彼女の挨拶は相変わらずとても淡白なものだった。


「七里さん、退院ですか?」


「そうやねん」


「おめでとうございます」


「ありがとう」


「お身体、お大事にしてください」


 他人行儀な挨拶。本当に俺と紫陽花の間には何もなかったような、そんな気になってしまいそうだ。そんな時、俺はあの日の約束を思い出すようにしている。


── 約束っ。あたしも絶対、ぜーったい、奈緒哉くんのところに戻る。んで、ずっと一緒にいるの


 弱気な自分を俺は笑って、彼女の大きな瞳を見つめて言った。


「待ってるから」


 紫陽花は首を傾げる。


「え?」


「待ってる。ずっと待ってるから」


 俺は笑顔だけを見せて、多目的ルームへと向かった。


⭐︎⭐︎


 病棟受付で退院手続きを済ませて看護師さんたちに挨拶をする。特に櫻木さんには最初から最後までお世話になったので、長々と話し込んでしまった。

 途中で涙ぐみだした櫻木さんを見て、俺も貰い泣きしそうになったので深々と頭を下げた。


「本当にお世話になりました」


「元気でね」


 顔を上げて、櫻木さんを見ると、十も歳が違うのにまるで俺よりも子どものようにぐしゃぐしゃに顔を濡らしていて、おかしくて、嬉しくて、ありがたくて。自然と笑みが溢れた。


「はい」


 涙を頬に伝わらせる櫻木さんはふいに俺の後ろを見る。


「あれ?」


 不思議そうな顔をする櫻木さんの視線を追うと紫陽花が息を切らして立っていた。

 紫陽花の瞳には涙が溢れている。


「紫陽花?」


 俺が声をかけると彼女は一歩前へ出た。震える唇から彼女は言葉を紡いだ


「ただいま」


 そのたった一言を聞いた瞬間、俺の時間はようやく動き出した。


「俺が……わかるんか?」


 紫陽花は涙を流しながら頷いた。


「思い出したの」


「いつ?」


「さっき」


 声を詰まらせながら笑う。


「待ってるって言った時の笑顔、あの時のまんまなんだもの」


 俺は言葉が出ない。紫陽花は泣きながら言った。


「あたし、今でも…あの時と変わらず、奈緒哉くんを愛してる」


 俺はもう堪えられなかった。泣きながら彼女を抱きしめた。


「おかえり」


 紫陽花も俺を抱きしめ返した。


「約束守ってくれてありがとう…」



 高校生になった紫陽花は言った。記憶が戻ったのは本当に奇跡みたいなものだったのよ、と。難波の街を二人で歩きながら、笑ってそう話していた。

 けれど、紫陽花が戻ってきてくれたあの時、俺にはそんなことはどうでもよかった。ただキミが帰ってきてくれた。その事実だけで、胸がいっぱいになったんやでと。俺は紫陽花の手を握りしめて伝えた。

まだまだ未熟者で勉強中ですので、おかしい点や不明な点、また誤植、誤字、脱字があればぜひ教えてください!

あ、友達のように気軽に教えてくださいね!


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