無限シャンプー【中編という名の蛇足】
「湯冷めしそう……」
夜道は暗く、肌寒かった。
こぼした不平を聞くや否や、隣を歩く彼女は、肘鉄を僕のこめかみにお見舞いした。
「つっ!!!」
「『ごめんね愛する玲奈ちゃん、ちょっと僕の不注意で、君の分のシャンプーを切らしちゃったから、申し訳ないが400メートル先のコンビニまで、か弱い女子大生独りで買いに行ってきてくれないか?』とでも言うつもり?」
「まだ口には出していなかったじゃないか」
「五月になってもまだ出しっぱなしのコタツにこれから潜らんとする体勢を取ったのはもう意思表明したも同じ、ってかそう思ってたんかい!」
「だからって顎に膝はダメだよ、脳がまら揺れれるよ」
昨今表立っては見なくなった暴力的な彼女という存在と、隣り合って歩く。
一緒にいるだけで医療費がかさみ、いつ命を落とすかわからないリスクを抱えながらも、僕が彼女と一緒にいる理由はひとつしかない。
めちゃくちゃ可愛いのだ。
大学で一番と言っても過言では無い。
人の好みは千差万別といえど、個人の価値観を握りつぶして月の裏まで放り投げてしまうほどの強制力と説得力を、彼女のルックスからは感じる。
駅で見かけても、キャンパスで見かけても、彼女はどこにいても、群衆のなかで一際輝いていた。
そんな彼女が、あの日、僕と出会ってくれた。
忘れもしない、あの日。
***
「もう、忘れっぽいんだから」
売り場で一番値段の高いシャンプーを、有無を言わさずカゴに入れられたが、けして文句はない。
「ごめんよ」
会計を済ませ、店を出る。
ビニール袋の中では、パッケージに描かれた、流麗な髪を靡かせたモデルの女性が、僕を見下して嘲笑っていた。
電柱の街灯が点々とアスファルトを照らす。
「自分のシャンプーは買わなくて良かったの?」
彼女が尋ねる。
「いいのいいの」
僕は得意げに言う。
「よくないでしょ」
「いいの、無限だから」
「はい?」
「無限に使えるんだ、魔法がかかっているみたいに」
そのとき、突風が吹いた。
周囲の木々は、揺れていない。
しかし、彼女のスカートは翻り。
その下がーー。
「呆れてハイキックも躊躇われるわ」
突風が吹いたと思っていたのは、眼前に寸止めされた彼女の足先から推察するに、僕の鼻先がいま折れていないことと深く関係しているようだった。
「もう少し、もう少しでいいから、賢いサンドバッグでいなさい」
「僕は君の彼氏であって、スマブラの飛距離チャレンジに使われる砂袋ではないぞ?」
「三桁で赤字なんて柔ね、四桁まで耐えなさい」
「ずっとそばに居させて!」
彼女がそっと足を下ろす。
僕はホッとして言う。
「今日は、水色なんだね」
次の瞬間、僕はどこかへ吹っ飛んでいた。
***
「そんなことがあったの」
「うん、二日前からね。シャンプーは切らしているはず……なんだけど、一回だけなら、ポンプから出てくるんだ」
彼女は僕の話を聞きながら、タオルを首にかけ、長い黒髪をゴシゴシ拭いていた。
部屋着姿がやけに愛らしい。
コタツの方へやってきて、座るや否や。
「これ」
コタツの天板の上に、それをドンと置く。
彼女が持ってきたのは、風呂場にあった、例の「無限シャンプー」だった。
二日前から切らしているはずのシャンプーボトルである。
「押してみて」
「いま?」
「今」
「一日一回しか出ないよ」
「いいから」
言われるがまま、ポンプを押す。
ーーにゅっ。
「え、まただ」
二回目のプッシュ。
ーーしゅこっ。
「ほら、まただよ!嘘じゃなかっただろう?やっぱり無限なんだ!魔法のシャンプーだよ!」
貧乏苦学生のひもじい生活を見かねた妖精さんの心優しい粋なはからいに違いない!
「魔法を解いてあげましょう」
彼女は、いたずらっぽくニヤリと笑った。
僕は、その笑顔に心臓を止められそうになった。
「はい、もう一度、どうぞ!」
ドン、と彼女が、再びボトルをコタツの上に置いた。
僕はポンプを押す。
ーーにゅっ。
「はあ!?」
二回目のプッシュ。
ーーしゅこっ。
「魔法を、解くどころか、まさか……かけたのは君だったのかい!?」
拳が眼前に止まる。
僕の息も止まる。
静かに拳は引かれて、美しい彼女の顔が再び見える。
呆れながらも、楽しげに笑っていた。
「たしかに、一見すると不思議よね。でも、魔法でもなんでもないわ。明かすのも馬鹿馬鹿しいくらいだけど、タネがあるのよ」
僕は彼女の継句を待った。