赫い余波
ティラント、ティラント、ターチカト。星が瞬く、音がした。こんな夜は空気の純度が高い。思いきりのびをして、夜気を取りこむ。冷たい空気が肺を冷やした。ひんやりとした空気の塊に押し負けて、思わず窓を閉める。さっきの景色がそのまま、色を失って切り取られているのが見えた。星じゃ、なかった。高架を這う無数のヘッドライト。ビルやマンションのあかり。高くそびえるスカイツリーの煌びやかな点滅。それらの残像が刹那にアイリスアウトして、私を穿ちながら洗い流されてゆく。湿っぽい塩味が鼻腔を抜ける。もうあの音はしなかった。
知的で大人びた横顔。存在感を放つハイブランドの腕時計。仕立てのいい服。物静かで控えめな態度。あなたは、私に静かな衝撃をもたらした。今まで出会ったことのある誰とも違っていた。何とも言えない謎めいた感じが好奇心をくすぐる。こういう人を「つかみどころのない人」というのだろうか。一目惚れとか、恋愛対象とか、そういうことではなかった。ただ、あなたは私が心から「知りたい」と思った最初の人かもしれない。時々頬を横切る翳りの、趣味を語るときの嘘みたいな饒舌さの、その理由が知りたかった。
「遠慮しないで。何でも言って」
あなたはいつも私にそう言っていた。私は決まって、
「大丈夫」
と返す。
早く帰りたい。体調が悪い。疲れた。赤黒くて粘着質な辟易は、今日も私の喉元に引っかかったままだ。声帯がその音を形作ってくれない。冷たい空気の塊が、私の喉を閉塞している。あなたは気づかないし、気づかなかった。これからも気づかないだろう。私の躰はもうこんなにも冒涜的嫌悪で満ちているのに。
あなたは、搦め手がうまかった。今日は勝てると思っても、いつの間にかあなたの中にいた。中の外は中。中の中の外も中。結局どう足掻いても、あなたに沈んでいく。泥濘が、私の両足を掴んで離さない。抗えない波に、徒労感が募る。くやしい。
あなたは、嘘をつくのがうまいのだと言っていた。あのとき私を心配してくれたのも、努力して得た成果をほめてくれたのも、嘘だったのだろうか。疑念が思い出を曇らせる。自分の言葉の重みや価値を自ら軽くしようとするなんて、愚かしい。あなたは知らなかったのだろうか。自分を信じ、愛してもらうための術を。その無知は、哀しく黒光りしていた。
黒い無知は、形骸化した言動を生んだ。伽藍洞な言葉の中身を抉りとってみても、実質的な中身なんてなにひとつなかった。いや、中身はあったが目を背けたかっただけかもしれない。その中身を抉り取った鈍色の匙に乗っていたのは、生々しくて赫い、剝き出しの果実だった。その赫さは、さながら毒々しくて攻撃的な猛獣のようだった。綺麗なんて、とうてい思えなかった。なんて冒涜的なのだろう。私はあなたの赫い本能を昇華させるための器にすぎないのだろうか。そう思ったら、あなたの言葉も、態度も、考えも、そのすべてから赫が滴って滲んでいるようで気味が悪くなった。あなたと過ごした、なにげない過去の記憶を掬いあげる。水揚げされた記憶は、どれも赫に染まっていた。ぜんぶ、洗い流してしまいたかった。最初から何もなかったかのように。真っ白にしてしまいたかった。思い出を漂白しても、どこかに赫の残滓が残る気がして、無気力になった。
あなたは、知らなかっただけかもしれない。
あなたは、愛されたかっただけかもしれない。
わたしは、愛したかった。
わたしは、愛せなかった。
わたしは、愛さなかった。
わたしたちは、黒い無知で互いを冒涜していた。
翳は、少しずつわたしたちを覆っていった。
すこしずつ、少しずつ、少しずつ。
都会的で硬質な光は、いつだって私をあなたのもとへいざなってしまう。
わかっている。だから今日も、私はそっと瞼を閉ざす。
赫も黒も白も混ざり合った脳裏で、わたしは今日も夢をみる。