婚約破棄されたお転婆令嬢は、チャンスの神様を逃さない
久しぶりの投稿です。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
「よく聞け、ロレッタ! 婚約者である俺を立てようともせず、淑女としての恥じらいを忘れた厚顔なお前には、ほとほと愛想が尽き果てた。俺は元々、品の無いお前との婚約など少しも望んではいなかったのだ。よって、この場でお前との婚約を破棄する!」
とある貴族令息によって前触れもなく始まった婚約破棄宣言は、ただでさえ厳かで重々しい空気が漂う夜会会場に、新たな緊張感を走らせることになった。
それもそのはず、ここは王宮の中にある大ホールで、国中から集められた貴族たちが今か今かと王族の登場を待ちわびていたところなのだ。
そんな重大な場面で、「そこに居たのかロレッタ!」などと己の婚約者を大声で呼んだ挙句、醜聞以外の何物でもない個人的な話を持ち掛けるなど、貴族の常識では考えられないわけで――
予告も無しに名前を呼ばれ、あまつさえ婚約破棄を突き付けられてしまった伯爵令嬢のロレッタが、思わずポカンと口を開けて呆気に取られてしまったのも当然のことだった。
は? ライナルト様は一体何を言い出したのかしら?
どう考えても今この場、このタイミングで話すべき内容ではないわよね?
……え、馬鹿なの?
ロレッタは、予期せぬトラブルに見舞われたことを自覚し、眉をひそめた。
周囲からは気遣うような視線と共に、夜会を台無しにするつもりかという苛立ちも感じられるが、それは至極真っ当な感覚だろうと思う。
現在、ロレッタが立っているのはホールのど真ん中なのだから。
贅を尽くした精巧なシャンデリアがキラキラと煌めくその下では、年に数回しか行われない王家主催の夜会が、今まさに始まろうとしていた。
この日の為に仕立てた、流行最先端の華やかな装いを身に纏った貴族たちが、歓談を止めて背筋を伸ばし、扉が開いて王族が現れるのを待っている――そんな張り詰めた空気の中、まさか婚約破棄をかましてくる愚か者がいるとは。
そんな居たたまれないはずの雰囲気の中、騒動の中心人物であるロレッタの婚約者ライナルトは、非常識なことをしでかしているという認識すらないようだ。
むしろ、なぜかドヤ顔でロレッタを睨み付け、その手は親密そうに可愛らしい令嬢の腰を抱いている。
それを目にした貴族たちが、一様に不快な表情を浮かべたことにも気付いていないに違いない。
これって、どう見ても不貞行為の現行犯よね?
エスコートを断ってきたと思ったら、まさか他の女性と堂々とイチャついているなんて。
その上、向こうから婚約破棄だなんてどうかしているわ。
ライナルトに代わり、ロレッタのパートナーを務めてくれている彼女の兄、マルティンが強張った顔でロレッタを気遣うように前へ出ようとしたが、ロレッタは『ここは任せて』とばかりに自らが進み出る。
そもそも彼女は婚約破棄をされようと構わないし、むしろ望んでいたくらいなのだ。
ショックなどあるはずもない――いや、正しい手順を踏まず、この公の場で一方的な主張を始めたことには大いに腹を立てているが。
「ライナルト様、ここがどのような場で、今がどういう状況かおわかりですわよね? この話はまたのちほど、お互いの両親が揃った正式な場で……」
「あぁ、嫌だ嫌だ。俺はお前のそういう正論を振りかざす、可愛げのないところも嫌いなんだよ。俺を見下しやがって。俺はお前とは正反対の、慎み深く愛らしいイヴリンと結婚をするんだ!」
とりあえず穏便にこの場を収めようと、落ち着いた声で諭すように口を開いたロレッタだったが、それがかえってライナルトの不満を煽ったらしい。
腹立たしそうに途中で言葉を遮られてしまった。
いやいや、そんなの知らんがな。
せっかくこっちが表面上は穏やかに済ませようとしているっていうのに。
大体、正論の何が悪いっていうのさ?
私は確かに可愛げも慎み深くもないけれど、ライナルトってこんなに頭が悪かったっけ?
思わず思考から令嬢らしさが抜け、遠い目になってしまうロレッタ。
その周囲では、ライナルトの行いに呆れ、ロレッタに同情する者がほとんどだったが、揉め事を始めた彼らのまわりにはいつの間にかぽっかりと空間ができあがっている。
不自然に空いた円の最前列では、ロレッタと仲の良い友人たちが心配そうに彼女を見つめていた。
もう、どうしてこんなことに……。
もっと早く言ってくれれば、私は喜んで婚約解消したのに!
ロレッタは小さく溜め息を吐いた。
◆◆◆
ライナルト・エリックとロレッタ・ファンネルの婚約は、二人が五歳の時には決まっていた。
お互い伯爵家同士、領地も年齢も近いというだけでまとまった政略的な婚約である。
いや、もはや政略なんていうほどの複雑な意味合いもなく、いわば思い付きと成り行き、その場のノリだけで決まったという方が正しいかもしれない。
そんな経緯もあったからか、当初からライナルトとロレッタの仲はさほど上手くはいっていなかった。
お互い、子供心に相性の悪さを感じていたからである。
ロレッタは幼少期から活発な女の子だった。
伯爵令嬢でありながら、走り回ったり飛び跳ねたりは日常茶飯事。
そんなお転婆なロレッタを、ライナルトが快く思っていないことも理解していた。
両親の手前、月に一度は顔を合わせていたものの、ロレッタが庭で捕まえた虫を見せたことが決定打となり、二人の仲はより冷めたものとなってしまった。
まあ、これに関してはロレッタも少しは反省している。
まさかライナルトがあれほど怖がるとは思っていなかったのだ。
その後、年頃になるにつれてお転婆を隠し、淑女然と振舞うようになったロレッタだったが、時すでに遅し。
二人の仲は修復不可能なところまできていた。
いつか頃合いが来たら婚約を解消しようと、言葉に出さずともお互いに考えている――と、少なくともロレッタはそう思っていた。
それがなぜ、この場で婚約破棄などと言い出したのか。
ロレッタは腹立たしさを抑え付け、笑顔でライナルトへと話しかける。
「私はお二人の邪魔をする気など毛頭ありませんわ。イヴリン様でしたっけ? どうぞそちらの女性とお幸せに。お二人の為にも、私たちは早々に婚約解消の手続きを……」
「ほらな、相変わらず可愛くない女だ。お前は何年も俺の婚約者だったのだから、縋り付くなり、泣いて引き留めるなりすればいいものを。お前が俺に捨てられないようにと、ガサツな態度を改めたことくらいお見通しなんだからな」
ハッと鼻で笑われたロレッタは、ライナルトの言い分に開いた口が塞がらない。
あまりの見当違いぶりに、今なら臍で茶を沸かせそうな気すらしてしまう。
はぁ!?
どうして私がライナルトに縋らなきゃいけないのよ?
まさか、私があなたの為にじゃじゃ馬をやめたと勘違いしているの?
なんておめでたい人……というか、いちいち言葉をかぶせてこないでよ。
ロレッタは決してライナルトの為に自分を変えたわけではないし、お転婆だってやめた覚えもない。
ただ、ある時から自分の令嬢としての立場を弁えるようになっただけのことだった。
憤りを精一杯飲み込み、笑顔で対応するロレッタに、見守る貴族たちの気遣わしげな視線が刺さるが、感情の機微に疎いライナルトには何も感じ取れないらしい。
彼はすでに盛大にやらかしているにも関わらず、この期に及んで更なる悪態をついてきた。
「そういえば、お前の家族も腑抜けたやつらばかりだもんな。地味で面白みもないし。特にひどいのが、そこにいるお前の兄の妻! あれは控えめというより、ただヘラヘラ笑っているだけのつまらない女だからな。もしかして頭が弱いのか? ほんと、あんな連中と身内にならずにすんでせいせいしたよ」
「もう、ライナルトったら。そんなことを言ったら元婚約者さんに失礼じゃないの」
「なに、事実を言ったまでさ」
ライナルトがイヴリンと意地悪くクスクス笑い合っているが、怒りで目の前が真っ赤に染まったロレッタにはどうでもいいことだった。
兄のマルティンの拳が、愛する妻を馬鹿にされた屈辱で震えているのが彼女の腕にも伝わってくる。
ロレッタも優しくていつも穏やかな兄嫁が大好きだったし、妊娠中で今は屋敷で過ごしている義姉を想うと、胸が張り裂けそうになった。
私を馬鹿にするだけでは飽き足らず、愛する家族と優しいお義姉様にまで暴言を吐くなんて!
許すまじ、ライナルト!!
メラメラと憤怒するロレッタの隣で、いつもは温厚な兄が低い声を放った。
「私の大事な妻への中傷、訂正して詫びてもらおうか」
「は? 何を本気で怒っているんだ? あ、図星を指されたから腹が立ったのか。ははっ、このくらいの戯言も聞き流せないなんて興覚めだな。まあいい。伝えたいことは以上だ。イヴリン、帰るぞ」
肩をすくませ、イヴリンに帰宅を促し始めたライナルト。
彼は言いたいことを言い終えたからか、満足げな笑みさえ覗かせている。
ロレッタとマルティン兄妹の逆鱗に触れたことにも気付かず、夜会の招待客らの嫌悪に満ちた表情すら目に入っていないようだ。
「えーっ、まだダンスもしてないじゃない」
「今度ネックレスを買ってやるから」
「んー、じゃあ許してあげるわ」
謝罪すること無く、二人の世界に入ってしまったライナルトたちは、ロレッタとマルティンに背を向けた。
もう兄妹に用はないと言わんばかりに。
「待て!」
引き留める兄の言葉を無視して立ち去ろうとする二人に、ロレッタの中でとうとう何かがプツリと切れた。
「待ちなさいよ!」
ロレッタの令嬢とは思えぬドスの利いた声が響いたが、ある意味予想通りというべきか、それすらもライナルトの耳に届くことはなく――
かろうじて残っていたロレッタの理性が弾け飛んだ。
ここまでコケにされて、大人しくしていられるロレッタではないのだ。
「ラ~イ~ナ~ル~ト~、待てと言っているだろーが!!」
咄嗟に駆け出し、美しく磨かれたホールの床を勢いよく踏み切ったロレッタは――そのままの勢いでライナルトの背中に強烈な飛び蹴りをくらわした。
「ぐほっ」
「ちょっと何!? いやだ、ライナルトしっかりして! え、嘘でしょう?」
防御姿勢をとることなく飛び蹴りを背後から受けたライナルトは、その強い衝撃で変なうめき声を上げながら、膝から床の上へと倒れこんだ。
そのまま目をむいて失神してしまい、傍らにしゃがみ込んだ新婚約者(仮)のイブリンがオロオロしている。
ふんっ、いい気味。
私の評判もガタ落ちだろうけれど、悔いはないわ。
危なげなく着地したロレッタが、情けなく伸びているライナルトを冷たく見下ろしていると、兄が肩に手を置いたのがわかった。
振り返ると、マルティンは困ったような顔をしているものの、温かい手のひらからは『よくやってくれた』という労いの声が聞こえてくる気がする。
「この野蛮なイノシシ女! どうしてくれるのよ!!」
やがて立ち上がったイヴリンが、ひどい剣幕でロレッタに詰め寄り始めたが、一部始終を見ていたロレッタの友人を始めとする貴族たちは、ロレッタを非難するどころか拍手喝采である。
夜会を荒らす二人の態度がよほど腹に据えかねていたのか、「よくやった!」というお褒めの言葉まで聞こえくる始末だ。
ロレッタは予想外の反応に安堵したが、厳粛な場で騒ぎを起こしたこともまた事実で。
彼女がさきほどから感じていた強い視線の元を、ゆっくりと辿るようにしながら見やると――
思った通り、あの方の視線だったわね。
夜会でこんな問題を起こしたのだから、睨まれて当然か。
後悔はしていないけれど……ああ、やっぱり胃が痛くなってきたかも。
ロレッタの視線の先には、我がコバルト王国が誇る近衛騎士団の副団長、クロヴィスの姿があった。
クロヴィス――それは泣く子も黙る、凄腕の騎士である。
誰が相手だろうと眉一つ動かさず、いつだって冷静沈着。
怖ろしいほどの美貌と相まって、『氷の騎士』なんていう二つ名が付けられている。
そんな彼が、目を逸らすことなく、鋭い目付きでロレッタをじっと観察している……気がする。
さすが『氷の騎士』と呼ばれるだけあるわね。
今日も白い騎士服姿が麗しいけれど、オーラが冴え冴えとしていて怖いくらい。
私はきっとお咎めを受けるのでしょうけれど、せめて堂々と胸を張ってやるわ。
負けずに見つめ返すロレッタに、クロヴィスがわずかに目を見張ったのがわかった。
氷の騎士に真っ向から視線を返す令嬢など、この国では珍しいからかもしれない。
あら?
こうしてみると、氷の騎士様って思ったほど怖くないような。
まあ、今までの夜会では大人しくしていたから、こんなにまじまじと眺めたことも無かったのだけど。
社交界では冷たいと噂されているロイヤルブルーの瞳が、ロレッタにはどことなく温度を持ち、懐かしく感じられるのだから不思議だ。
ロレッタは自然と彼から目が離せなくなっていた。
そのまましばらく見つめ合っていた二人だったが、やがてクロヴィスの命令で騎士たちが動き出す。
「ロレッタ、大丈夫かい? 陛下には申し訳ないけれど、僕たちも今夜はお暇するとしよう」
「そうね、お兄様。私もそれがいいと思うわ」
仕掛けてきたのはライナルトとはいえ、さすがに飛び蹴りをくらわせた身としては、何事も無かったかのようにダンスを楽しむというわけにもいかないだろう。
それ以前に、ダンスのお相手すら見つからないと思われる。
今後、騎士様から尋問されたりするのかしら?
どうか罰を与えるならファンネル家ではなく、私一人にして下さい。
これからのことを考えると憂鬱だったが、帰りの馬車に揺られるロレッタの脳裏には、なぜかロイヤルブルーの瞳が焼き付いて離れないのだった。
◆◆◆
時を遡ること二時間前。
夜の帳が下り始め、まるで昼間のように煌々と照らし出された王宮には、徐々に貴族たちが集まり出していた。
今夜は王家が主催する、大規模な夜会がここで行われることになっている。
会場で警護の任に就いている近衛騎士のクロヴィスが、人が増え騒々しくなっていくホールの中で、人知れず嘆息していることに気付く者はいなかった。
今日の彼も、傍目から見れば完璧な騎士そのものである。
コバルト王国近衛騎士団の副団長を任されているクロヴィスは、華やかな場が好きではない――と言っても、仕事に私情を挟むなど以ての外であることは承知している。
これも職務だと表情を引き締め、陽気な空気に浮かれて頬を染めながら話しかけてくる令嬢に最低限の対応をしていたら、陰で『氷の騎士』と呼ばれていたのはいつからだったか。
確かに俺は饒舌でもないし、人付き合いも下手だからな。
距離を置かれるのは仕方がないが、やはりこういう場は苦手だ。
クロヴィス本人は全く気付いていないが、『氷の騎士』とはとっつきにくい彼の雰囲気だけでなく、騎士としては類まれな美しい容姿も相まって名付けられたものだ。
さらさらとしたプラチナブロンドの髪は短く切り揃えられ、切れ長の目とスッと通った鼻筋、薄い唇はクールな印象を与えるものの、品のある整った顔立ちは人目を惹いた。
また、身長は高いが、騎士の割に線が細く見えるクロヴィスは、剣の腕前はトップクラスなのにも関わらず、外見だけ見ればまるで王族のようである。
それは彼の母が王家の血を引いているせいもあるかもしれなかった。
加えて有力な侯爵家の三男というのだから、クロヴィスがモテないはずもなく――
しかし、鋭い目付きと近寄り難い雰囲気が原因で遠巻きにされることの多い彼は、令嬢たちの熱い視線に気付くこともなく、女性に苦手意識すら抱いてしまっていた。
そんな色恋沙汰に鈍感なクロヴィスなのだが、彼には苦手な夜会の任務中に、少しだけ期待していることがある。
それは、子供の時分にお茶会で出会った少女と、再会することだった。
国中から貴族が集まる今夜なら会えるだろうか、成長して大人になったあの少女に……。
と言っても、今となっては覚えているのも令嬢らしからぬ行動力と、生命力に溢れたエメラルドの瞳だけなのだが。
女性は苦手な俺だが、彼女にはせめてもう一度会いたいものだ。
クロヴィスは、もう幾度となく思い出しては心の支えとなっている過去の出来事に、改めて思いを馳せたのだった。
◆◆◆
それはクロヴィスが十三歳の頃のこと。
アッシュフォード侯爵家の三男として生まれたクロヴィスは、優秀な兄二人と比べられることに心を痛めていた。
元々アッシュフォード家は武官を輩出する名門な家柄で、クロヴィスの父である侯爵も幾つもの騎士団をまとめる王国騎士団長の座に就いていた。
父と同じ黒い髪色の兄二人は、凛々しく勇猛な父の遺伝子を強く引き継いだのだろう。
十歳を過ぎた頃には二人とも子供とは思えない大きな体躯に成長し、早くも父の後継者として期待されるようになっていた。
父を尊敬している兄たちは、そのまま鍛錬を続け、今や猛者ぞろいの騎士学校でも頭角を現していると聞いている。
一方のクロヴィスは、生まれつき母親似で、母譲りの銀色の髪に、まるで女性のような美しい顔立ちをしていた。
体もなかなか大きくならないし、そのせいか力も兄たちには遠く及ばなかった。
『あの三男に騎士は務まらないだろう』
『あの顔に体型、まるで女の子じゃないか。舐められるぞ』
『騎士は諦め、さっさと違う道を探すべきだな』
父と同じ騎士の道を歩むつもりだったクロヴィスに聞こえてくるのは、騎士になどなれるはずもないという大人の嘲笑ばかり……。
家族は応援してくれているものの、鍛錬しても一向に逞しくならない体と、女のように美しいとからかわれる自分の顔に嫌気がさした彼は、自然と伸ばし始めた前髪で顔を隠し、俯くようになっていった。
性格もすっかり内向的になり、公の場に出ることを嫌がるようになっていたそんな時。
アッシュフォード侯爵家で大きな茶会が開かれた。
放っておくと武官ばかりとのつながりが強くなってしまうことを案じた侯爵夫人は、たまに大規模な茶会を催して社交を乗り切っていたのである。
ホスト側としてゲストを歓迎する役目があったクロヴィスだったが、人目に触れたくなかった彼はいつものように長い前髪で顔を隠すと、広い庭へと逃げ込んだ。
そして、そこでクロヴィスは運命の出会いを果たしたのである。
侯爵家の広大な庭を歩きながら、少年のクロヴィスは隠れ場所を探していた。
茶会の終わりまで決して見つかることのない、身をひそめられる空間を。
あ、あのバラの生垣の後ろなんていいかもしれない。
背丈は低いけど、しゃがめばこちらからは見えないだろう。
そう考えたクロヴィスは、生垣の切れ目を器用にすり抜けると、屋敷の使用人たちから見つからないように生垣の傍に座り込んだ――のだが。
「こんにちは。そんなところで何をしているの?」
なんと、生垣裏には先客がいた。
「こ、こんにちは。君こそここで何をしているの?」
可愛らしいオレンジ色のワンピースを着て、同じくオレンジ色のリボンで髪をツインテールに結んだ小さな少女が、クロヴィス同様に生垣脇の芝生にちょこんと座り込んでいる。
庭のはずれのこんな辺鄙な場所で、この娘は一体何をしているのだろうか。
「わたしはお母さまに怒られたくないから隠れているの」
「どうして怒られると思うの?」
「それは……これを見ればわかると思うわ」
すくっと立ち上がった彼女の示す場所に目をやれば、少女の幾重にも重なった柔らかいオーガンジー素材のスカートの一部が破けてしまっている。
「それ、どうしたの?」
「蝶を追いかけていたの。珍しいロイヤルブルーの羽の蝶よ。でも追いかけながらこれを飛び越えようとしたら、スカートを引っ掛けちゃったみたい。蝶もどこかへ行っちゃったし」
「え、もしかしてこの生垣を飛び超えたの? すごいね。君、いくつ?」
「八歳よ」
「ええっ!」
あまりの無謀さにクロヴィスは目を丸くするが、自分より五つも年下の少女はなんてことないように朗らかに笑うと、身を隠すようにまたその場に座った。
随分お転婆な女の子のようだ。
「ええと、もし良かったらクッキー食べる? くすねてきたやつだけど」
「いいの!? 私、クッキー大好きなの!」
膝立ちでにじり寄ってきた少女は、クロヴィスの隣にペタンと腰を下ろすと、彼が手渡したクッキーを美味しそうに食べ始める。
「このクッキー、美味しいね。特にイチゴのジャムの」
「それは良かった。うちの料理人も喜ぶよ」
「お兄さんはここの家の人なの? どうしてここにいるの?」
伸ばした前髪の隙間から見えた、少女の大きなエメラルド色の瞳が眩しく感じられて、気付けばクロヴィスは自分の出来の悪さや、顔が嫌いで隠していることなどをポツポツと話していた。
なぜ僕は初対面の少女に、こんな話をしているのだろう。
誰にも打ち明けたことなんてなかったのに。
自分の行動が自分でわからず、心の中で疑問に思っていたら。
「うわぁ、こんなに素敵な瞳を隠していたなんて! まるでさっきの蝶々みたいな綺麗な青!」
予想外に近くから聞こえた感嘆の声に我に返ると、なんとクロヴィスの前髪を手のひらで思いっきり握り込んだ少女が、間近からクロヴィスを覗き込んでいるではないか。
目前に迫った、好奇心でキラキラと輝く瞳に目を奪われそうになったものの、雑草でも引き抜くかのような危うい子供の手付きには肝が冷えるのを感じる。
今のクロヴィスにとって、前髪が無くなるのは死活問題なのだ。
「ちょっ、何しているの?」
「さっき少し見えたお兄さんの瞳が気になって」
「いやいや、え、だからってこんな大胆なことする? さっきの僕の話、聞いてた?」
相変わらずクロヴィスの前髪をしっかりと掴んで離さない少女は、慌てるクロヴィスの顔を見ながらうっとりと呟いた。
「お兄さんのお顔もとっても綺麗ね。一番好きなのは瞳だけど。隠しているなんてもったいないわ」
「でも僕はこの顔のせいで騎士には向かないって……」
「怖い顔の方が強くなれるってこと?」
「いや、そんなことはないだろうけど。でも僕は体も小さいし」
「ふーん」
適当な相槌を打つ少女は会話に興味がなくなったのか、気付けば立ち上がり、勝手にクロヴィスの前髪をリボンで結わいている。
なんとなくされるがままになっているが、不器用なのか、はたまた子供とはそういうものなのか、彼女のリボンを結ぶ手付きはかなりたどたどしい。
手持ち無沙汰のクロヴィスがこのリボンはどうしたのかと問えば、少女はしょっちゅうリボンを落とす為、普段から予備をいくつか持ち歩かされているとの答えだった。
なるほど、これは筋金入りのお転婆娘だな。
クロヴィスの口角が上がり、無意識に笑みが零れていた。
こんな穏やかな気持ちになるのは久しぶりな気がする。
「出来たわ!」
結び終わったと告げる少女の可愛らしい声が響く。
いつもより広くクリアになった視界の中、視線だけ上に向ければ、少女とお揃いのオレンジ色のリボンの端が風に揺れているのが見えた。
吹き抜ける風を感じながら、クロヴィスは自分の縮こまっていた心が少し解放された気がしていた。
しばらくは、時折風にそよぐ自分の前髪の束を、くすぐったい思いで楽しんでいたクロヴィスだったが――
ふと隣の少女が静かなことに気付いた。
さきほどまで、あれほど予測不可能な行動ばかり起こしていたじゃじゃ馬だというのに、どうしたのだろうか。
クロヴィスが立ったままの少女を怪訝そうに見上げると、彼女は腕を組んで何かを考え込んでいる。
真剣に悩む子供の様子が可愛らしく、しばらく様子を見守っていると、ふいに少女が閃いたといわんばかりに「そうよ!」と声を上げた。
「何か思い付いたの?」
「うん。私、いいこと考えちゃった!」
「いいこと?」
なぜだろう。
なんだか嫌な予感がしてきたぞ。
妙な胸騒ぎがしたクロヴィスの直観は、案の定間違ってはいなかったようで、少女は輝く笑顔で言った。
「お兄さん、強い騎士になって!」
「は?」
クロヴィスから間抜けな声が漏れる。
いや、まるで「クッキーをもっと持ってきて!」くらいの気軽さで言われても。
こっちは騎士を目指すのをやめようかという瀬戸際なんだけど……。
簡単に頷けるはずもなく、クロヴィスは返事をすることが出来ない。
しかし、そんなクロヴィスの様子を気にすることなく少女は話を続けた。
「私ね、そろそろ令嬢らしくならなきゃって思っていたところだったの。この前も男の子を怖がらせちゃったし、スカートも破いちゃったし」
「そ、そうなんだ」
急に話の内容が変わり、突っ込みたい気持ちを抑えながらクロヴィスは先を促す。
「でも急に大人しい令嬢になるのも面白くないでしょ?」
「うーん、そういうものかな?」
「そういうものよ。だって、怖がらせたから反省して大人しくなったみたいに思われるのも嫌だし。だから――」
一度言葉を切った少女は、キラキラした目でクロヴィスを見下ろす。
上気した頬は微笑ましいが、不安が増すのはどうしてだろう。
「お兄さんも騎士になって? 私も大人しくなるから」
「待って、どういう理屈でそうなるの?」
「え? 令嬢に向かないわたしが頑張って淑女になるから、騎士に向かないお兄さんも頑張って立派な騎士になってって話よ」
「ええっ!?」
思っていた以上に無茶苦茶な話だった。
無茶苦茶すぎて、意味がわからない。
でも、『どんな論理だ』『さすが子供の考えることだ』と思う気持ちもあるのに、不思議とクロヴィスは少女の提案を退ける気にはなれなかった。
すでにこの少女に気を許している自分がいるからなのかもしれない。
「どうかしら?」
「どうって。変なことを言い出したと思ったけど、案外乗り気の自分に戸惑ってる……かな」
「あははっ。じゃあどちらが早く理想の姿に近付けるか競争ね!」
「わかったよ。でも……」
クロヴィスも立ち上がって少し屈むと、少女の目を覗き込んだ。
やはりエメラルドの瞳は、生命力に溢れて煌めいて見える。
「君の元気なところ、僕は好きだから無くして欲しくないな」
「わたしもお兄さんの綺麗な顔と瞳、髪で隠して欲しくないわ」
しばらく見つめ合った二人は自然と笑い合うと、約束だと言って小指を絡めた。
やがて少女は「お母様に謝ってまいりますので、これにてごきげんよう」と、破れたスカートを少し持ち上げ、いっぱしの令嬢のような挨拶をすると、イタズラっぽく笑って元気に駆けていった。
今度はしっかり生垣の切れ目を通って。
清々しい気持ちで小さなレディを見送ったクロヴィスは、かつてないやる気が漲るのを感じ、その日のうちに前髪を切り落としたのだった。
◆◆◆
過去の思い出を振り返りつつも、しっかりと招待客の警護にあたっていたクロヴィスは、唐突に婚約破棄を宣言し始めた男へと意識を向けた。
公の場で一方的に喚き立てる令息に呆れ、自分の合図と共にいつでも駆けつけられるように部下に指示を出しておく。
令嬢側にも言い返したいことはあるだろう。
馬鹿にされるだけでは気の毒だから、頃合いをみて止めに入るか。
すると、静観するクロヴィスに予想外のことが起きた。
今まで気丈にも冷静に対応しているように見えていた令嬢が、令息の背中に飛び蹴りをくらわしたのである。
ドレスで飛び蹴り?
こちらからは後ろ姿で顔はわからないが、あの度胸と跳躍力……まさか彼女が?
振り返った令嬢の瞳は、クロヴィスがずっと探していたあのエメラルド色で――
ようやく見つけたぞ!
今までよく淑女の仮面をかぶっていたものだ。
クロヴィスは愉快な気持ちで大人になった少女……ロレッタを見つめると、これからどう近付こうかと算段を立てたのだった。
◆◆◆
王宮で夜会が行われた三日後。
ロレッタは仲の良い侯爵令嬢、シンシアの家を訪れていた。
婚約破棄騒動を心配した友人たちに呼び出されたからである。
「ロレッタ、災難だったわね。まさか王宮であんなことが起きるだなんて。ハラハラしたわ」
「私も目を疑ったわ。ライナルトって保守的で古臭い男だと思っていたけれど、あの場で悪目立ちが出来るほどメンタルが強かったなんてね。あ、少しも褒めてないわよ?」
「それで結局どうなったの? おじさまもさぞお怒りでしょう」
ロレッタが応接間に顔を出した途端、シンシアに続いて伯爵令嬢のジュリア、子爵令嬢のアイリーンも駆け寄ってきた。
三人とも騒動の顛末がよほど気になっているのか、お茶の準備が整ったテーブルへ戻る素振りも無い。
ロレッタを含めた四人は年齢も近く、幼い頃からの幼馴染みである。
よって、彼女たちが親友の身に起きた出来事に心を痛めている――ようでいて、それ以上に好奇心が勝っていることは明白だった。
ロレッタの勝気な性格や、お転婆な本性をよく知る三人は、彼女がこんなことで傷付かないことなど百も承知なのだ。
わかりやすい親友たちにロレッタも苦笑してしまうが、夜会の際には最前列で見守っていてくれたことも知っている。
「あなたたち、絶対面白がっているでしょう? 気持ちはわかるけれど。でも本当に最悪だったのよ? 家族も親戚もエリック伯爵家に対してカンカンだし……。翌朝に伯爵夫妻がライナルト様抜きで謝罪に来たのだけど、可哀想なくらいに憔悴していたわ」
「そういえば、あの日はファンネル伯爵夫妻もエリック伯爵夫妻も、夜会に出席されていなかったものね?」
ロレッタはシンシアの問いに頷いてみせ、あの日はロレッタの両親は父のギックリ腰の為に急遽夜会を欠席し、ライナルトの両親は領地でアクシデントがあって到着が遅れていたことを伝える。
「つまり、『親の居ない今がチャンス!』とでも考えたってわけね。なんて短絡的な男なのかしら」
「大勢の前で宣言さえしてしまえば、それが事実として受け止められるとでも思ったのかしらね。そんなはずないのに」
ジュリアとアイリーンが呆れているが、ロレッタも同じように考えていた。
イヴリン様との婚約を一日も早く認めさせたくて、強硬手段に出たに決まっているわ。
当然、気に入らない私への意趣返しも含まれていたのだろうけれど。
――なんて馬鹿で最低な男。
「そういえば、イヴリン様のお話は聞いた?」
ようやく椅子に座り、全員が一息ついたタイミングで、シンシアが意味深長な様子で皆の顔を見回した。
侯爵家の茶葉だけあって、勧められた紅茶は香り高く、並べられたプチケーキも華やかである。
何も知らない他の三人が首を振って否定をすると、四人は自然とテーブルの中心に顔を近付けあって、内緒話の体勢になった。
「あの方、最近子爵家に引き取られたばかりだったのですって。夜会での振舞いのせいで、修道院行きは免れないのだとか」
「あら、どうりで見たことがない顔だと思ったわ」
「貴族の常識があれば、あんなこと仕出かすはずがないものね。納得だわ」
「……ライナルト様も一応貴族のはずなのだけど」
ポロっと零れたロレッタの言葉に、顔を見合わせた四人は思わず笑ってしまう。
ロレッタはライナルトへの鬱憤が消えていくようで、三人に心の中で感謝をしていた。
「それにしても、ロレッタの飛び蹴りは相変わらずキレがあって素晴らしかったわね」
「ええ! 私、『ブラボー』って叫びそうになったもの。見ていた方たちも好意的だったわ」
シンシアとアイリーンが、ロレッタの勇姿を思い出すようにしてうっとりと微笑んだが、三人の中で一番現実的で皮肉屋なジュリアが痛いところを突いてくる。
「スカッとはしたけれど、正直、次の婚約者探しは難航しそうよね。王家からのお咎めは受けずに済みそうなの?」
「問題はそこなのよ。結婚に関してはもう諦めているからいいのだけれど、まだ何の連絡もないのよ」
夜会の翌日、ライナルトの様子はエリック伯爵夫妻から少しだけ聞くことが出来た。
腰をやられた彼は、手当を受けてそのまま王宮に留まっているとのことだったが、その後どうしているかは知らない。
二日間は大人しく王家や騎士団からの沙汰を待っていたロレッタだったが、待つことに飽きて友人の誘いに乗ってしまったというわけだった。
「ロレッタなら大丈夫よ。何があろうとそれだけの運動能力があれば、チャンスの神様の前髪だって掴めるわ。きっと幸せになれるわよ」
「チャンスの神様?」
シンシアが突然不思議なことを言い出したので、意味のわからないロレッタは首を傾げた。
「あら、ロレッタは知らない? チャンスの神様には長い前髪しかないのよ。だから、大抵の人は気付いた時にはもう遅くて、掴むことが出来ないと言われているの」
アイリーンの説明に、ロレッタは瞳を瞬かせる。
前髪しかないって、すごい風貌の神様もいるのね。
しかも神様の前髪を掴むっていうのも随分乱暴な気がするけれど……。
好機は逃すなっていうことかしら。
「ロレッタなら、後ろからタックルで倒してでも掴みそうよね」
「失礼しちゃうわ。もちろん根元から鷲掴んでやるけどね!」
アイリーンの軽口に、ロレッタがおどけたように拳を握ったせいで皆が吹き出し、気の置けない仲間と楽しい時を過ごしたのだった。
この後、ロレッタの屋敷に意外な人物が訪れることなど少しも知らずに……。
◆◆◆
夕暮れ時になり、ロレッタはシンシアの家から王都にある自分の屋敷まで馬車で帰ってきた――のだが。
あら?
お客様なんて珍しいわね。
屋敷の前に、一台の馬車が停車している。
見るからに豪奢な造りの馬車は、ファンネル家より格上の貴族の訪れを告げていた。
「ただいまもどりました」と、ロレッタがいつもの挨拶をしながら扉をくぐると。
「ロレッタ! 良かった、帰って来たか。待っていたぞ」
「おかえりなさい、ロレッタ。あなたにお客様よ」
なぜか両親が玄関ホールに顔を揃えており、ロレッタを待ちわびていたかのような声を掛けてきた。
父はまだギックリ腰が完治していない為、母に支えられるようにして立っているが、それよりもロレッタが気になったのは、両親と向かい合うスラっとした男性の後ろ姿だった。
随分背の高い方ね。
こちらからだと顔はわからないけれど、服装からするとお父様よりも若そうな感じかしら?
でも私に、屋敷まで訪ねてくるような男性の知り合いなんていないのだけど。
……え、誰?
ロレッタは、その男性に心当たりが全くなく、困惑するしかなかった。
一応ライナルトという婚約者がいたこともあり、ロレッタには屋敷まで会いに来るような男友達もなかったのである。
すると、両親の言葉でロレッタの帰宅に気付いたらしい男性が、おもむろに彼女の方に振り返り、口を開いた。
「やあ、ロレッタ嬢。また会えて嬉しいよ」
軽く口角を上げて笑って見せたその人は、なんと夜会でロレッタに鋭い視線を投げかけてきていた、あの『氷の騎士』で……。
「クロヴィス・アッシュフォード近衛騎士団副団長様!?」
予想外の人物の登場に、ロレッタはまるで早口言葉のように彼の名を叫んでいた。
普通の令嬢であれば、『とうとう夜会で起こした騒動の罰が下されるのかも』と青褪めたり、氷の騎士の貴重な笑みに頬を染めて卒倒したりしそうなものなのだが、普通の令嬢に当て嵌まらないロレッタの反応は、そのどちらでもなかった。
彼女の肝は据わっているのだ。
どうして彼がここに?
騒動の取り調べに来たにしては……色々とおかしいわよね。
一人のようだし、どうして近衛騎士団の制服じゃないのかしら?
それに、抱えているあの大きな花束は一体……?
クロヴィスは一人で訪ねてきた上に、なぜかいつもの白の騎士服ではなく、グレーのフロックコートを着用している。
私服姿など見たこともなかったロレッタだが、こんな不可解な状況でなければ見惚れていたに違いないほど、彼に良く似合っていた。
それに、クロヴィスはいつもなら適当に垂らしている前髪を、今は後ろに撫で付けるようにして固めていいて、左腕には大きなバラの花束まで抱えている。
ロレッタが、『氷の騎士』とのギャップに違和感を覚えるのも当然だった。
一見すると、騎士というより高位の貴族令息にしか見えないクロヴィスを――実際、高位の貴族令息なのだが――ロレッタは怪訝そうに見上げた。
現況、不自然さは否めないけれど、ロイヤルブルーの瞳が今日も美しいわね……などと、現実逃避をしていると、両親が機嫌良さそうに口を開いた。
「アッシュフォード侯爵令息は、ロレッタに話があるそうだ」
「応接室へお通ししてさしあげて。あとでお茶を運ばせるからごゆっくり」
両親に促され、クロヴィスを連れて廊下を案内するロレッタは、狐につままれたような気分だった。
え、話って、婚約破棄騒動についてよね?
仕事で訪ねてきた騎士様に対して、お父様はなぜ騎士の役職ではなく、『アッシュフォード侯爵令息』だなんて呼んだのかしら?
それ以前に、氷の騎士様の様子がいつもとだいぶ違うせいで調子が狂うのだけど。
「あの、本日は夜会の時の事情聴取でいらしたのですよね? 私、ありのままをお伝えしますし、逃げも隠れもいたしませんわ」
応接室のソファーにクロヴィスを座らせ、開口一番にロレッタがそう宣言すると、彼は驚いたように目を見開いた後、破顔した。
「君は本当に変わらないな。ああ、これを」
流れで花束を受け取ってしまったロレッタは、ますます意味がわからなかったが、なんだか楽しそうに笑うクロヴィスに胸がときめくのを感じていた。
◆◆◆
王宮のホールには、さきほどの婚約破棄騒動など無かったかのように、あちらこちらで楽しそうな笑い声が上がっている。
夜会はすっかりいつもの平穏を取り戻し、華やかな雰囲気を放っていた。
そんな中、ロレッタが兄と会場を立ち去り、王族が入場した後も、クロヴィスの心だけはどこかフワフワと浮かれたままで、いつもと違っていた。
まるで地に足が着いていないような、夢と現実の狭間を漂っているかのような気分なのである。
それは、普段から物事に動じることがなく、『氷の騎士』とまで呼ばれているクロヴィスにとっては珍しいことで、いかにロレッタが鮮烈な印象を残したかを物語っているようだった。
ようやく彼女の名を知ることができた。
どうして出会った時に聞いておかなかったのかと随分後悔したものだが、まさかこんな形で知ることになろうとは。
騒動は彼女には災難だったかもしれないが、俺にとっては僥倖だったな。
ロレッタ・ファンネル――
思わぬ経緯で彼女の名を知ったクロヴィスは、ロレッタと目が合ってからというもの、彼女のことが頭から離れない自分に戸惑っていた。
今もまだ夜会の警護中だというのに、気を抜くとロレッタが去った扉を未練がましく見つめてしまいそうになる。
ああ、彼女の鮮やかな蹴りと、強気なエメラルドの瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
以前は少女を思い出すと、微笑ましくも温かい気持ちになるだけだったのに、今では美しく成長したロレッタ嬢を想うと何だか胸が苦しく……って、美しいだと?
いや、確かに凛とした彼女の美しさを好ましいと感じたが、それは大人になった姿に驚いたからであって、決して他意はないはず……
急にブンブンと頭を振った副団長を、部下たちが不思議そうに眺めていたが、それに気付く余裕はクロヴィスにはなかった。
そもそもクロヴィスは、大人になったロレッタに会いたいというよりは、どういう女性に成長しているのか興味があるだけだった。
一目見られればそれでいいと思っていたのだ。
お転婆だった少女が、約束通りに淑女へと成長しているのを見るのも良し、もしも破天荒で元気な令嬢のままだったとしても、それはそれでまた良し。
もし会話をすることが可能なら、自分に騎士として生きるきっかけを与えてくれた感謝を伝えたい、彼女の思う『立派な騎士』になれているかはわからないが、騎士となった今の姿を見てもらえたら嬉しい――などと考えていただけなのである。
自分なりに約束の答え合わせが出来れば満足出来るはずだった。
それなのに。
ロレッタは淑女の顔をしながら、お転婆な面も待ち合わせた女性へと成長していた。
それは、クロヴィスがあの日願った姿そのもので……。
いや、彼が望んだ以上にロレッタは二つの顔をうまく使い分けていた。
騎士であるクロヴィスの目をずっと欺き、貴族の中に溶け込んでいたのだから。
そんなロレッタに興味を持つなというほうが無理な話だろう。
そうか、俺は彼女に惹かれているのだな。
大人になっても輝きを失わないあの瞳に、また俺を映して欲しいと願うのは愚かだろうか。
ロレッタに近付きたいという己の欲に気付き、クロヴィスが呆然と立ち尽くしたその時。
「おい、クロヴィス。お前大丈夫か? さっきから様子がおかしいぞ」
話しかけてきたのは、上司である近衛騎士団長のルドルフだった。
実はクロヴィスの二番目の兄でもある。
マッチョでムキムキのルドルフは、近衛騎士とは思えぬほどのワイルドな外見をしており、本人も今の立場には納得がいっていないらしい。
ことあるごとに、「さっさとお前にこの座を譲ってしまいたい」とぼやいている。
「いえ、別に」
いつものように、クールに否定したクロヴィスだったが、全く信じていないルドルフはガハハと豪快に笑った。
「無駄だ。お前が『飛び蹴り令嬢』に熱い視線を送っているのを、俺はこの目で見たからな」
「どうしてそれを……」
どこから様子を窺っていたのか、兄には全てバレているようだった。
『飛び蹴り令嬢』という名はどうかと思うが。
「お前はその年まで鍛錬ばかりしてきたからな。せっかく恵まれた容姿をしているくせに、もったいないこった」
「余計なお世話です」
「そう言うな。恋愛事に疎い弟に、お兄様がいいことを教えてやろう。恋なんてものは『先手必勝、押しまくれ!』。これだ」
いや、これだと言われても。
脳筋の兄上に言われても、戦法にしか聞こえないのだが。
しかし、クロヴィスはもう一度彼女のことを思い浮かべ、考えてみた。
先手必勝か。
飛び蹴りに心を奪われたのは俺のほうだから、すでに先手は取られているな。
でも彼女は、今回の騒動の責任を取らねばと考えているはずだ
あの瞳を見ればわかる。
ロレッタが、反省して謝ることが出来る真面目な女性だということはわかっていた。
少女の頃から彼女の本質は変わっていないのだ。
だったら、取り調べと称して彼女に会いに行くのはどうだろう。
伯爵家へ訪れて――
「もし彼女の家に行く気なら、正々堂々しっかりアピールしろよ? 騎士の権限を使うなんてダセー真似はやめておけ」
兄に釘を刺されてしまったクロヴィスは反省した。
そうだな。
潔い彼女に釣り合うように、俺も正攻法で勝負をかけるべきだ。
騎士という立場を使って近付いても意味はないのだから。
「兄上、ありがとうございます。目が覚めました」
満足げに兄の顔で頷いたルドルフは、「これはおまけだ」と言って、ライナルトの一件を全面的にクロヴィスに任せてくれた。
これで事後処理を自由に行うことが出来る。
こうして、翌日からライナルトやイヴリンへ、聴取――という名で散々ビビらせたクロヴィスは、夜会の三日後、満を持して意気揚々とファンネル伯爵家を訪ねたのだった。
手段を選ばず、実家の力も大いに使い、完璧な侯爵令息としてロレッタにプロポーズをする為に。
◆◆◆
「あの、どうして私に花束を?」
ロレッタはお礼を言って受け取りつつも、クロヴィスから花を贈られる理由が見当たらずに訝しんだ。
しかし、おかしいと思いつつも素直に受け取ってしまうところに、ロレッタの勝気でありながらも好意を無下にできない優しい性格が現れている――と、クロヴィスは思っていた。
「バラは嫌いか?」
「いいえ、このオレンジ色のバラはとても美しいですし、好きですけれど」
「それは良かった。次はイチゴジャムのクッキーを持ってこよう」
「え、クッキー? しかも、次って……」
どうして氷の騎士様が私の好きな物をご存じなのかしら。
それに、『次』ってことは聴取は何日もかかるってことよね。
……私が考えていた以上に罪は重いのかもしれないわ。
ロレッタが肩を落としていると、応接室の扉がノックされた。
侍女がお茶を持ってきたのだろう。
ロレッタが扉を開けると、そこに立っていたのはティーカップを乗せたワゴンを引く、兄マルティンの妻だった。
「お義姉様!? どうしてお義姉様がお茶の準備を? お腹の子に障ります!」
慌ててロレッタがワゴンのハンドルを奪うと、義姉はいつものようにおっとりと笑った。
ライナルトはヘラヘラなどと馬鹿にしていたが、義姉の包み込むような温かい笑顔がロレッタは大好きなのである。
「副団長様がいらしているのでしょう? 私もご挨拶したくて」
そう言うと、義姉はクロヴィスの方へ体を向けて柔らかい声で話しかけた。
「このたびはご迷惑をおかけして申し訳ございません。ロレッタはとても家族思いの優しい子なんですの。今回のことも私と夫の名誉のために手を出し……いえ、足を出してしまっただけなのです」
「もちろんよくわかっていますよ。今回の夜会での出来事に関しては、陛下は罰する必要はないとのお考えです。騎士団としても私個人の意見としても、騒ぎの発端となったエリック伯爵令息への厳重注意だけでいいと考えています」
立ち上がったクロヴィスがそう答えると、義姉妹の二人はあからさまにホッとした顔になった。
手より先に足が出るなんて、ロレッタはやはり面白い令嬢だと彼が心の中で笑いを堪えていることなど、二人が気付くはずもない。
実はクロヴィスは、すでにライナルトへの注意を終えていた。
形ばかりの聴取のあと、『注意』という名目のもとに、ロレッタを罵ったことへの報復を密かに行ったのである。
その姿はもはや公平な騎士などではなく、ロレッタを愛するただの男だった。
『氷の騎士』の射殺されそうな冷たい視線と、正論で心を抉られる長い説教に、飛び蹴りで腰を痛めたまま動けないライナルトは、最終的に涙と鼻水でドロドロになっていた。
ざまあみろといったところだ。
そして、国からの裁きはなくとも、ライナルトの両親がきちんと息子に罰を与えることはわかっていた。
ライナルトもイヴリンも、両親は常識ある貴族なのだ。
「そうだったのですね!」
「良かったわね、ロレッタ。私も安心したわ。元気なのはあなたのいいところだけれど、あまり無茶をしては駄目よ?」
「はい、お義姉様」
「それでは私は失礼しようかしら。……クロヴィス様?」
「はい、なんでしょう」
「ロレッタは私の可愛い義妹ですの。あなたは大切にしてくださるわよね?」
義姉の言葉にハッとしたように目を見張ったクロヴィスは、徐に自分の胸に手を当てると「この命に賭けても」と頭を下げた。
状況に一人ついていけないロレッタは、黙って二人のやり取りを見守っていたのだが、やがて軽やかな足取りで義姉が立ち去ると、紅茶をカップに注ぎながら考えていた。
私のせいで家に迷惑がかかることを恐れていたけれど、良かったわ。
でもそれなら騎士様は何をしにいらしたのかしら?
結果の報告……にしては不自然なのよね。
しかも、さっきのお義姉様との会話の意味って?
自然と百面相になっているロレッタが可愛らしく、クロヴィスは小さく笑うと話を切り出した。
「俺は君に会いにきたんだ。でも聴取や結果報告が目的ではない」
「え、では何の為に?」
「……これを覚えているだろうか?」
そう言ってクロヴィスが胸ポケットから取り出したのは、色褪せたリボンだった。
これは……リボン?
古いもののようね。
茶色っぽく変色しているけれど、きっと元は綺麗なオレンジ色……待って、オレンジ色のリボン?
ロレッタの脳裏に、長い前髪をオレンジ色のリボンで結んだ、ロイヤルブルーの瞳をした少年が浮かんだ。
そして、記憶の中のそのロイヤルブルーは、今ロレッタを優しく見つめる氷の騎士の瞳そのもので――
「ええっ、もしかして、氷の騎士様があの時のお兄さん!?」
驚きで素っ頓狂な声を上げるロレッタに、クロヴィスが照れくさそうに前髪を撫で付けた。
ロレッタはどうやら『氷の騎士』と面識があったらしい。
それどころか、正体がわかってみれば彼女にとってクロヴィスは思い出深い相手だった。
記憶の中の姿とかけ離れていたせいで、全く気付くことはなかったが。
嘘でしょう?
あの時のお兄さんは、もっと優し気というか、自信がなさそうで儚いイメージだったのに。
私ってば、彼の優しさに付け込んで、自分の目標にお兄さんを巻き込んだのよね。
あ、前髪を掴むという暴挙までやらかしていたわ!
「あの、幼少時とはいえ、大変失礼をいたしました。気安く侯爵令息に話しかけた上に、その……前髪を……」
「ははっ、気にすることはない。俺は君との約束のおかげで今日までやってこれたんだ。感謝こそすれ、怒ることなどないさ」
「それはありがとうございます。でも随分と印象が変わっていて驚きました」
「それはどういう意味でだろうか。悪くなっていなければいいが」
そう言って困ったように笑うクロヴィスに、ロレッタの頬が赤く染まる。
氷の騎士の笑顔には、まだ慣れそうもなかった。
かつて見たクロヴィスは、守ってあげたくなるような可愛らしさがあったはずなのに、成長した彼は精悍な顔つきをした紛れもない男性になっていた。
線は相変わらず細く見えるものの、騎士なのだから筋肉が付いていることは明らかである。
一番昔と違うのは、視線に色気を感じることだろうか。
今日は前髪を上げているせいか、余計に視線が交わって恥ずかしいわ。
何だか絡めとられてしまいそうなのに怖くないし、少しも嫌だと思わないなんて不思議ね。
ロレッタの瞳に、さきほどまではなかった熱を感じたクロヴィスは、浮足立つ心を抑えて彼女と出会って以降の話を始めた。
「ロレッタ嬢と出会ったあの日、俺は前髪を切ったんだ。君に顔が見えないのはもったいないと言われたからな。その後は騎士学校に入り、騎士団員となったあとも辺境領への異動を志願して、ひたすら任務に励んできた。強くなると君と約束をしたから」
「なんだか申し訳ございません。軽い気持ちで言ってしまって。あ、でも私もそれなりに頑張ったんですよ? 淑女らしく振舞えるように」
「知っているさ。王都へ戻ってからというもの、俺は君をずっと探していたというのに、見つけることは叶わなかった。あの飛び蹴りのおかげだな」
「それは忘れてください!」
二人は同時に吹き出した。
出会ってから十年経ったが、やっとあの指切りの答え合わせができたと思うとクロヴィスは感慨深かった。
そして、リボンを手にしたクロヴィスは、ロレッタを見つめて万感の思いで切り出した。
「君に会いたかった。このリボンが心の支えだったんだ」
リボンへ一つキスを落としたクロヴィスが、今度はロレッタの手を握る。
「一目会えたらそれでいいと思っていた。でも君が欲しくなった。今日は騎士としてやってきたのではなく、君へプロポーズをしにきたんだ。ロレッタ、君を愛している。俺と結婚してくれないか?」
クロヴィスのロイヤルブルーの瞳が、真摯な光を湛えながらも情熱的に訴えてくる。
氷の騎士の冷たい視線からは考えられないような熱い眼差しに、ロレッタは頷くことしか出来なかった。
夜会会場で見つめ合った時から、この瞳に落とされていたのかもしれない。
「ありがとう。大切にする!」
テーブルを回り込んだクロヴィスが、ロレッタを強く抱きしめた。
緊張していたのか、氷の騎士の体は思いのほか熱く、彼に腕をまわしながらロレッタは思わず破顔してしまう。
お義姉様との会話はそういうことだったのね。
こんな饒舌なクロヴィス様を知っているのは、きっと私だけ……。
硬い胸板に頬をすり寄せながら、ロレッタは幸せに包まれていた。
◆◆◆
クロヴィスとロレッタの婚約はすぐに整った。
ライナルトと破局した時点で娘の結婚を諦めていた両親にとって、クロヴィスからの婚約の打診は願ってもいない話だった。
それは、浮いた話一つないクロヴィスを心配していた侯爵夫妻にとっても同じことだったらしく、何の障害もなく二人は結ばれることとなったのである。
ちなみに、元婚約者のライナルトは領地に引きこもっているらしい。
伯爵に命じられたこともあるが、社交界で『女の飛び蹴りで失神した男』と有名になってしまった彼は、メンタルを強くやられたのだとか。
あの場で婚約破棄を宣言するメンタルはあったのに不思議なものだ。
イヴリンも修道院へと送られたが、「氷の騎士怖い……イノシシ怖い……」と震えているそうだ。
世間知らずだっただけの彼女には、気の毒な結果だったかもしれない。
初めて二人そろって夜会へ出席した夜、婚約した彼らを周囲は温かく迎えてくれた。
クロヴィスの纏う空気が柔らかくなったからか、話しかけてくる者も多い。
すると――
「ロレッタ、いつになったら私たちにクロヴィス様を紹介してくれるのかしら?」
「そうよ。もう結婚は諦めているとか言いながら、ちゃっかりうまくやってるなんて」
「クロヴィス様、よければロレッタとの馴れ初めを教えていただけませんか?」
気付けば二人はロレッタの親友、シンシア、ジュリア、アイリーンに囲まれていた。
この三人のことだ。
ずっと機会を狙っていたに決まっている。
「ちょっとみんな、そんな口々に言われても……」
「馴れ初め? それなら、ロレッタが私の前髪を掴んだからですよ。あの時から私の心は彼女に捕らわれているのです」
まさかのクロヴィスの発言に、親友たちだけでなく周囲で聞き耳を立てていた令嬢たちも「きゃーーーーっ!」という大きな歓声を上げた。
「聞いた? ロレッタはやっぱりチャンスの神様の前髪を掴んだのよ!」
「氷の騎士の前髪を掴むなんて、やっぱりロレッタはただものじゃなかったわ」
「私も掴めるかしら?」
収拾がつかないほどの盛り上がりを見せる中、ロレッタは呆れたように横目でクロヴィスを睨む。
「あんなことを言っちゃって……」
「本当のことだろう? 俺はあれからずっと心を掴まれているのだから」
悪戯っぽく笑うクロヴィスに言い返すことが出来ずに、ロレッタは照れたように「もうっ」と言いながら、彼の固い胸板を叩いて見せたのだった。
この夜会以降、コバルト王国では『前髪を掴むと恋が叶う』という都市伝説がまことしやかに流れることとなるのだが――
前髪を伸ばすブームがやってくるのはまた少し未来の話。
お読みいただき、ありがとうございました。