朝
京都の街に、ひたすらに鳥の声が響く。それでもどうも奴は起きない。
奴は深い沼の底に沈んでいるかのごとく眠っている。物音一つすらたてず、辺りには重く、よどんだ空気が立ち込めている。端からみれば、まるでドブの感じがするが、奴にとっては、そこは天国である以外なかったのだ。
奴は昨日、薄く灰色に汚れた、本来は純白のカバンを肩から提げ、菓子やら黄色のぬいぐるみやらが入った、もう破れる寸前のビニール袋を手にくくりつけながら、途方もない距離を無心で歩いていた。このことを奴は前々から覚悟していたが、どうやら覚悟が足りなかったようである。ホテルに帰ってきてもなお、ベッドの激しくきしむ音だけが部屋に響くだけであった。いつしか奴は死んだように深い眠りに落ちた。いや、本当に死んでいたかもしれない。シュレディンガーの猫のように、今でもなおそれはわからない。
奴の耳に何かの音が入ってくる。鳥のさえずりさえも受け付けなかった奴の耳は、その音だけを瞬時に聞き分け、脳天を刺した。ーーーそれは、女の声であった。奴は直感的にその事実を理解し、女が傍らで何か言葉を発しているのだ、と推測した。女の声は、硬直した奴の脳を少しずつ解いていく。いつしか奴は、シャッターのように閉められたまぶたを静かに、そっと開いていった。
どうも足元が重たい。ふと奴は首を起こす。女だ。女が腰を掛けている。俺の脚に気づいていないのか? それともあえてなのか。まあ正直どうでもいい。奴はパンツとヒートテックのみの生身の身体を、寒さに耐えながらなんとか起こそうと努めた。
奴はこの女の行動に少々混乱してしまった。奴はその開ききっていない眼を、脚を圧迫し続ける失礼な女の方へ向ける。ーーー目の前には、昨日の夜とは全く別人の女がいた。ただただ清楚な彼女であった。俺の可愛い彼女であった。一心に愛する、彼女であった。
昨日の女はなんだったのか。奴は起ききっていない頭をなんとか回転させて思考する。しかしすぐに結論を下した。昨夜の女は、目の前にいる愛する彼女だった。昨夜、本能のままに息を荒げていたあの女は、一晩のうちに、どこにでもいるような、ただの清楚な女性になっていた。
街へ出る。朝の京都。辺りには霜が降りている。寒いのだ。それでも鳥はさえずり、踊る。駅を振り返ると、タワーがひとつそびえ立っている。ただ美しく、白く輝いていた。
しばらく西に歩けば、向こうに大きな寺が見える。よく聞こえないが、説法のようなものが耳に入る。どうせなら、と奴と女は中に入っていった。
厳かな空間では、時間がゆっくりと流れていた。奴は、話は理解できずとも、雰囲気と僧侶たちの話し方に酔いしれていた。それは女もしかりであった。ずっとここにいたいと思わせる。もう今日で地球が終わってしまってもいい。なぜか後悔の念も、希望の念もきれいさっぱり消え失せる。心がフラットになる。
しかしもう帰らねば。奴と女は寺をあとにする。気づけば太陽は少し上がり、雲ひとつない青空には、烏が2羽飛んでいた。
不意に女が言った。「部屋にハンドクリーム忘れてきちゃった!!」仕方ない、君の性格ならこれくらいしかねない。奴と女は、ホテルへ向かって走っていった。そして角を曲がって姿をくらました。
京都の朝も、暖かくなってきた。