夜の散歩道
会社から一駅離れた駅から徒歩10分の1Kで一人暮らし。
家と会社の往復ばかりで、ほんの少しスパイスが欲しいと毎日ぼんやり考えていた。
金曜日。いつもは残業が多いが、今日は早く終わった。そうだ!家まで歩いてみよう!なんてくだらないことを思い立った。地図アプリを起動して、ルートを調べる。どうやら1時間ほどだ。一本道とは言わないが、比較的道のりは分かりやすかった。方向音痴の僕でも大丈夫そうだ。
この会社に入ってもうすぐ2年経つが、案外会社の周りは知らないことが多いな…。
こんなところに公園があるんだ…こんなところまで居酒屋あるんだ…意外に人通りが多いな…。なんだかふわふわとした気分になった。どこか違う世界に迷い込んだ主人公の気分だ。よく知っている街なのに、まるで知らない場所だ。
住宅地に近づいて、もうすぐ自宅付近。流石にこの辺になると人通りが少なくなるな…。
なんだかこのまま真っ直ぐ帰りたくないなと考えたら淡い光を放つ看板を見つけた。看板には「chat noir」と書かれていた。どうやらBarのようだ。今日は主人公。酒場絶好の情報収集場だ!なんてRPGの主人公になりきって、扉を開けた。
お客さんは誰もいなくて、線の細い中性的はマスターがコップを拭いていた。
「いらっしゃい」
「まだやってますか?」
「ええ。カウンターでよろしいですか?」
「はい。お願いします」
「ご注文は?」
「おまかせで」
「かしこまりました」
氷を入れて、お酒を注ぐ。シェイカーを一定の速度で動かす。グラスに注がれたのは青いグラデーションが美しいカクテルだった。
「夏なので、少しさっぱり目に作ってみました。」
1口飲むと喉を潤す。1時間近く歩いてきたせいか喉が乾いてた。さっぱりと飲みやすく、ごくごくと飲める。
「ぷふぁ!美味い!」
「ふふっ」
「すみません。行儀悪かったですね…」
「いえ。嬉しいですよ。そう言って素直に感想言われるのは」
柔らかい笑顔の人だなとぼんやり思った。
「この辺にお住みですか?」
「はい。昔からこのお店を?」
「いえ。つい2年ほど前からです」
「そうなんですか。僕も2年ほど前から今の職場に転職して、この辺りに住んでいます」
「そうなんですね。すごい偶然ですね。お仕事は何を?」
「エンジニアです」
「すごいなぁ。私機械苦手なんで尊敬します」
「そんな尊敬されるものでもないですよ。ある意味技術職だから仕事には困らないですけど、何でも屋扱いで、無茶ぶりはしょっちゅうだし、そのくせそれくらい簡単に出来るんでしょ?と技術を軽く見られがちで…すみません!愚痴ってしまって!」
「いえ。気にならさないでください。ここはバーです。ストレスをここで吐き出してから帰るのもよし、楽しい時間を過ごすもよし、恋人を連れてきてもよし。どう過ごすかはお客様次第なんですよ?だから愚痴を言いたくなったら愚痴を言ってください。静かに飲みたかったら、静かに飲んでください。お好きにどうぞ」
優しい笑顔に不覚にもドキッとしてしまい、顔が赤くなったのを誤魔化すようにお酒を飲んだ。
「グラス空きましたが、何か飲まれますか?」
「あんまりカクテル詳しくなくておまかせしてもいいですか?」
「かしこまりました。ちなみに甘いのと、さっぱりしたのでしたらどっちがお好きですか?」
「さっぱりしたのです」
「かしこまりました。じゃあさっぱりしたカクテルにしますね」
お酒を飲んでいて良かった。顔が赤いのをお酒を飲んでいるせいにできるから。
たわいのない話をした。僕のつまらない話にも優しい笑顔で聞いてくれた。その笑顔に癒された。
「あの。また来てもいいですか?」
「もちろんです!またお待ちしておりますね?」
毎週金曜日の日課にしようと思った。
家に帰ってスーツを脱いで、パンツとTシャツになって、ベッドに飛び乗った。
胸の鼓動が少し早くなっていた。
日常のスパイスとしては甘くて、まるでふわふわとした綿アメのよう。その甘さに酔いそうだけど、その甘さが心地よくてすっと体に染み渡る。スパイスじゃなくて、ミルクに溶かして毎日飲みたい気分だ。
なんで僕はこんなにドキドキふわふわした気持ちなんだろうか?この時の僕は気づかなかった。
次の週の金曜日。いつもより髪の毛をセットして、いつもより綺麗なスーツを来ていたから同僚にデートか?とからかわれてしまった。確かに気分は遠恋中の恋人に会いに行く気分だ。
なんとか頑張って仕事を終わらせて急いでお店に向かった。
お店に着いたらなんだか扉を開けるのに緊張した。よし!開けるぞ!と思ったら中から扉が開いた。マスターが開けてくれたのだった。
「窓からお客さんが来ているのが見えたからつい。もしかして閉まっていると思っていたのかー?と思って。いらっしゃいませ。」
「こ、こんばんは。カウンターでもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
今日はテーブル席に女子会のグループがいた。テーブルにいかにも女子が好きそうチーズや前菜が乗っていた。
「マスターは料理もされるんですね」
「え?」
「いや、あのグループが食べているのマスターが作った料理ですよね?」
「あぁ。料理と言っても簡単なおつまみ程度しか作れないですけどね。何かお作りしましょうか?」
「あ、じゃあさっぱりとしたお酒に合うおつまみをお願いします」
「はい。少し待ってくださいね」
棚からエプロンを取り出して、エプロンをつけた。なんだか新婚さんみたいと思ってしまったのが恥ずかしい。
包丁捌きもフライパンも慣れた手つきで扱っていた。
「お待たせしました。エビとキノコのアヒージョとスパムのガーリックソテーです。どちらも少し濃い味付けにしたので、さっぱりしたお酒が合うんじゃないかな?と思います。バケットもあるので、よかったらバケットと一緒に食べてくださいね」
「うわ~美味しそう!」
「ふふ。ありがとうございます」
ガーリックソテーはニンニクの香りが口いっぱいに広がり、アヒージョはオリーブオイルがバケットに乗せることによってじわっと染み込む、旨味がぎゅっと濃縮されたようだ。
「美味しいです」
「ほんと?それは良かったです」
美味しいお酒だけじゃなくて、美味しい料理も作れるなんて、また新たな1面を見れた気がして、何だか嬉しくなった。
「ふふっ」
「どうしたんですか?」
「お客さん本当に美味しそうに食べてくれるなーと思って。作りがいがあります」
少し恥ずかしくなったので、俯きながらご飯を食べた。
マスターの手をふっと見たら指輪がされていた。なんだ…マスター結婚しているんだ…少しだけチクリと痛くなった胸には気付かない振りをして質問をした。
「マスターご結婚されていたんですね」
「え?あぁ。指輪ですか?実はこれ偽物なんです」
「偽物?」
「こんなこと言ったら失礼かもなんですが、今は誰ともお付き合いするつもりがないので、女よけと言ったらいいですかね?」
少し困ったような、なんだか寂しいような顔をされたので、それ以上何も聞けなかった。
家に帰ってからもずっとマスターの指輪のことが気になった。なんであんなに素敵な人なのに、恋人がいらないんだろうか?遠回しに失恋した気分だった。
僕は所謂ゲイという部類に入ると思う。ただ今までお付き合いしたのは女性だけだ。しかもいづれも相手から告白されて、相手から「私のこと全然好きじゃないんだもん!」などと言われて振られる。
女性のことも好きになれる分、完全なるゲイという訳ではないと思う。ただ性的興奮を覚えるのは男性。女性とどうこうしたいというのはあまりなく、お付き合いした女性の方には申し訳ないが、何となく雰囲気でそういうことしたいんだろうなーと思った時しかやろうと思わなかったし、頭には別の男性のことを思い浮かべながら抱いていた。それは振られるよな、と冷静に自分を振り返れるから振られてホッとしている自分もいる。
女性と付き合うのには少なからず結婚というものに憧れているからだと思う。両親は定年退職後2人で毎年旅行に行っている。そんな仲の良い夫婦に憧れているから、女性に告白されると思わずOKと返事してしまう。相手の女性にはひどいことをしている自覚があるから、本当に幸せになってほしいと心から思う。
今の職場が男性ばかりということもあり、女性との接点がないため、お付き合いしている人はいない。
自分の恋愛対象が男性と気づいたのは高校2年生の時だった。周りの友達はエロ本とか見たり、クラスの誰々がおっぱいデカいなどそういう話で興奮していたが、自分はあまりそういうので興奮しなかった。人より性欲がないのかな?なんて思っていた。
部活はバスケ部だった。特に仲の良いやつがいて、そいつとよく居残り練習をしていた。
「なぁ。俺腹筋割れてきたんだ!」
とぺろんと服をめくって僕に見せてきた。その時股間が熱くなったのを感じて、急いでトイレに行った。ものすごく勃起していた。この時初めて勃起したのだった。エロ本やAVを友達と一緒に見たりしていたので、やり方は分かっていたが、頭が混乱していた。
射精後、妙にスッキリした頭で僕は男の人が好きなんだと自覚した。そこからはずっと自分の思いを黙っていて、友達の振りをしていた。この思いを受け止めてくれる人なんて極々わずか。否定する人も多いからひたすら隠していた。
大学に入って好きな人が出来た。それはもちろん男の人だ。同じサークルの同期で、学部が違うから、サークルでしか会わなかった。よく笑う人で、笑った顔が大好きだった。ただそんな彼だから彼女がいた。嫉妬とかは特になかったが、彼の口から彼女の惚気を聞くのは辛かった。
結局男性のことを好きになっても思いを告げる勇気がなく、結局は片思いで終わっている。なんちゃってゲイと言われたらそれまでかもしれない。所詮は周りの目を気にするヘタレなのである。
社会人になってからは仕事が忙しく、性格的に同じ会社の人を好きになると面倒そうだなという理由もあって、特に恋愛は最近はなかった。
マスターを見て、一目惚れをした。久々の恋のドキドキ感に思春期を思い出す。マスターはどうして恋人を作らないんだろう?もっとマスターのこと知りたいな…。
それからというものすっかり常連さんになった。毎週金曜日は欠かさず通った。どんなに仕事で遅くなろうとも通った。1週間頑張った自分へのご褒美だ。
「いらっしゃい。今日も来てくれたんだね」
この時にはもう敬語はなくてお互いフランクな感じで話すようになった。
「うん。1週間頑張った自分へのご褒美だから」
「じゃあ。うんと美味しいお酒作らないとね」
「うん。お願いします。」
マスターとはゆっくりとした時間を過ごす。僕が仕事で嫌なことがあった時は話を聞いてもらったり、マスターが忙しく接客をしている時は、ちびちびお酒を飲んで過ごしたり、様々だった。どの時間も愛おしく、大切だった。ただ僕はヘタレなので、未だに指輪の理由を聞けていない。
「最近なんかいいことあった?なんか生き生きしているね」
なんてことを会社の同僚に言われた。
「そうかな?」
「うん。そうだよ。特に金曜日なんて早く帰りたいオーラすごいもん!きっと彼女とのデートだーなんてみんなで言ってたんだ」
「彼女とかそんなんじゃないけど、ちょっといいなーと思う人がいて、そのーなんというか」
「そっか!片思い中か!上手くいくといいな!」
「ありがとう」
本当のことは全然言えないけど、こうやって応援してもらえるのは気持ちがいいな。
応援してもらったからにはなんとか進展したいななんて気持ちが芽生えてきた。
「マスター。休みの日はないの?定休日」
「定休日はないよ。用事があったり、どうしてもしんどい時は臨時休業とかにしているけど」
じゃあ休みの日にデート誘ったりするのは無理か…。
「店を明けるまでは仕込みとかで忙しいの?」
「んー。昼間のうちに買い出しいって、戻ってからは仕込みして、夕方になったらオープンという感じだね」
オープンまでデートというのも難しそうだ。
「車とかあったらあの隣町に出来た海外輸入品を扱った大型スーパーとか行きたいんだけどねー。車持ってないし、わざわざレンタカー借りるほどでないしなーと思って近場のスーパーですませちゃうんだよな」
「マスターさえ良かったら、僕車出すよ?」
「本当に!?いいの!?」
「じゃあ明日はどうかな?」
「うん!ありがとう!明日12時に店の前でもいい?」
「了解!」
マスターとデートだ!嬉しい!
明日マスターとデートだと思うと眠れない。明日の服を決めるのも時間がかかったし、何を話そうかなんて、高校生が初めてデートに行く時のようなふわふわとした感覚だ。明日のことをデートと思っているのはきっと僕だけ。けど少しでもマスターに楽しかったと思ってもらいたいな…。
30分も前に店の前についてしまった。楽しみすぎていてもたってもいられなくなった。昔の彼女にせがまれて遠出する時ようにと買った車がまさかこんな時に役立つとは。嬉しい誤算だ。
「あっ!もう来てたんだね。お待たせ」
店から出てきたマスターは相変わらずゆったりした格好だったが、眼鏡をかけていた。
「普段は眼鏡なの?」
「仕事中はコンタクトなんだ。眼鏡だと料理の時に油はねて汚れたりするから。コンタクトより、眼鏡の方が楽だから好きなんだ」
また一つマスターのことが知れて、僕は嬉しい気持ちになった。
スーパーに着くとマスターはあれも気になる!これも欲しい!とまるで買い物に来た女の子のように僕を連れ回した。これでもか!というぐらい色んな商品を買ってスーパーを後にした。
「あー楽しかった!連れて来てくれてありがとう!お陰で新作メニュー作れそう!」
「お役に立てて何より。どんな新作なの?」
「そうだ!今日のお礼にご馳走するからおいでよ!ね?」
「いいの?」
「1日連れ回したお礼だよ」
「じゃあお言葉に甘えて」
「腕によりをかけるね」
「マスターさえ良ければ僕の予定が空いていたらいつでも行きたいスーパー連れていくよ?車だったら荷物増えても困らないしね」
「本当?ありがとう!今度はあのデパ地下も行ってみたかったんだよね」
勇気をふりしぼった言葉をすんなり受け止めてもらえて、僕は嬉しさのあまりニヤけそうになるのをぐっと我慢した。
マスターが毎週誘うのは悪いからと月に1.2回ぐらいにするねと気を利かせてくれたが、僕としては毎週でも、なんなら土日両方でも良かったなんて、言えなかった。
それでもマスターと一緒に出掛ける回数は格段に増えた。マスターは実は洋楽が好きで、いつもドライブ中は洋楽を流していた。実は甘い物に目がなくて、一緒にパンケーキも食べに行った。
知れば知るほどマスターのことを好きになってしまい、僕は辛かった。今まで好きになった人は恋人が出来たり、結婚したりで、諦めることが出来たが、マスターはフリーだ。しかもわざわざ女よけの指輪をするということはきっと理由ありなんだ。せめてマスターがあの指輪の通り、本当に結婚していたら…なんて考えてしまうほど、僕はマスターのことを好きになっていた。
金曜日。マスターのお店に行く日。色々考えてしまって、なんだかモヤモヤする。
「どうしたんだよ。金曜日なのに浮かない顔しているじゃないか」
「え?」
「いつも金曜日はイキイキした顔で仕事して、誰よりもノルマこなして、誰よりも先に帰っているじゃん」
「す、すみません。先に帰ってしまって」
「いや、いいんだよ。怒っているとかじゃないんだよ!ちゃんとノルマこなしてくれているし、無駄に残業する必要性はないんだよ。いや、今日は金曜日なのに浮かない顔しているなーと。聞いたよ?金曜日は片思いの人に会いに行くために早く仕事終わらせているって」
「なんだか恥ずかしいですね…。そんなことまでバレているのは」
「部下のことは知りたいからね。そういう活力で仕事に打ち込んでくれるのは多いに大歓迎だよ!何?好きな人と上手くいっていないとか?」
「実はしばらく恋人を作る気がないらしくて」
「え?なんで?理由は聞いた?」
「いえ、理由は聞いていないです」
「じゃあ聞かないと。今は仕事を優先したいから恋人がいらないとかしょーもない理由かもしれないし。恋人と死別して、当分作る気になれないとかなら、時間が経つのを待つしかないし」
目からウロコだった。そうだよ。なんで僕はマスターに理由を聞かなかったんだろうか?
「ありがとうございます!今日会った時聞いてみます!」
「おう。じゃあ午後も仕事頑張ってね」
「はい!」
いざ聞くとなると緊張して話すタイミングを失ってしまった。
「どうしたの?なんか悩み事?話なら聞くよ?」
マスターからタイミングを作ってくれた。
「マスター。話したくなかったから無理に話さなくていいけど、どうして恋人を作らないの?」
「…どうして知りたいの?」
「え?」
「あんまり耳障りの良い話じゃないから、特別な理由がないなら教えたくないな。何か理由があるの?」
「…僕がマスターの恋人になりたいと思ったからです…」
怖くて顔をあげれなかった。拒絶反応を示されたらどうしよう、もうお店来ないでと言われたらどうしよう、頭の中がグルグルしてきた。
「この指輪、別れた奥さんとの結婚指輪なんだ」
「え?」
「そういう理由ならちゃんと話してあげるね」
「あ、ありがとうございます!」
物心着いた時から恋愛対象は同性だった。恋人が出来たことも、同性に告白したこともなかった。拒絶されるのが怖くて。その上うちは厳しくて、男はこうあるべき!女はこうあるべき!と堅苦しい感じ。こんなこと親にも言えない。
結婚もお見合い。親が決めた相手と結婚した。私の奥さんはいかにも良妻。三歩下がって後ろに着いてくる感じの人。私はそれが居心地が悪かった。私に尽くしてくれても、私はあなたのこと人として好きだけど、それ以上でもそれ以下でもなかった。
当時私は結構出来る営業マンだった。ライバルもいた。そいつと営業成績を競っていた。そしてそのライバルは私の好きな人でもあった。
結婚しているクセにと思われるかもしれないけど、きちんと仕事して、旦那として家の家事を手伝ったり、休みの日は2人でお出かけしたりと、いい旦那であろうと勤める傍ら、そのライバルを思い出しながら性的欲求を晴らしていた。
そんなある日私は珍しく残業していた。いつもなら早く帰って、奥さんの手伝いをしている時間だ。先方と書類トラブルがあり、明日までに書類を出さないと納期に間に合わない案件があった。
書類がまとまって、帰ろうとした時にライバルが会社に帰ってきた。お客様と接待した帰りらしい。そのまま帰ろうと思ったが会社に電気が付いているのが気になり、戻ってきたらしい。
「たまには軽く1杯どうだ?」
奥さんには残業だからと伝えていたし、一緒に行くことにした。お互い仕事の考えや目標などを酒のあてにして、話が弾んだ。
「そういえば、お前さ、ゲイだよな?」
「何言っているんだよ。私には可愛い奥さんがいますよ」
「いや、俺もゲイなんだよ。だから何となく同じ匂いがするというか。お前が結婚していると知った時、俺は結構ショックだったぜ。俺はお前みたいなやつがタイプだからよー」
好きな人からまさかそんなことを言われるとは思わず、私の中で糸が切れてしまい、その場でキスをしてしまった。
そこから私たちはホテルに移動して1晩過ごした。奥さんには仕事仲間と朝まで飲むことにしたと嘘のメールを送った。
朝になってライバルはベットから居なかった。机にメモ書きがあった。「この事は思い出としてしまっておく」と。彼の優しさで一夜限りのことにしてくれた。
朝家に帰宅すると奥さんはいなかった。朝から出掛けているのかな?と思っていたが、机には離婚届にハンコを押されていた。その横には手紙があった。
ずっとあなたに愛されている自信がなかったのです。あなたは仕事も出来るし、家事も手伝ってくれる。休みの日には私の行きたかった場所に連れていってくれる。非の打ちどころのない出来た夫でした。お友達のみんなからは羨ましいとよく言われました。
それでも私はあなたに愛されている自信がなかったのです。どこかその行為はまるで業務をこなすような感じがして、私を抱いてくれるのもいつも私が誘った時だけ。
親に言われて仕方がなく結婚生活を続けているのかな?他に恋人がいるのかな?なんて考えていました。いつ振られてもいいように、私は引き出しに離婚届を入れていました。頭がおかしいと思うでしょ?離婚届を常に持っているなんて。それぐらい私は自信がなかったのです。いつか私は捨てられてしまうんじゃないかと。
あなたが珍しく残業するとメールが来た時にたまたま大学のサークルの友達からお誘いがあったので、たまには羽根を伸ばそうなんて思い、飲み会に行ってきました。
少しお酒を飲みすぎたなー外の空気を吸いたいなと思って出たら、たまたまあなたともう1人男性の方が歩いていくのが見えました。少し脅かしてやろうなんて悪戯心が芽生えて、後をつけました。私はこの日の行動を生涯でずっと後悔し続けるのでしょう。まさかあなたが男の人とホテルに入るなんて。
するとあなたからは朝まで仕事仲間と飲むことになりましたとメールが来ていました。あぁ私に嘘をつくようなことをするんだなと悟りました。
それからというと記憶が曖昧です。気がついたら家についていて、気がついたら離婚届にハンコを押していました。
慰謝料なんていりません。まさか男に旦那を取られたなんて、誰にも言えません。気持ちが落ち着いたら、荷物は取りに来ますので、それまで置いておいてください。私のために無理にいい旦那でいようとしてくれてありがとう。そしてさようなら。
私はなんて最低なことをしたんだろうと。自分の欲求のために奥さんを傷つけてしまった。私はすぐに退職届を出して、将来子どもが出来た時のための貯金を全額おろした。その3分の2を家において、奥さんに手紙を書いた。
「私の荷物はまとめました。慰謝料はいらないと言われましたが、どうか使ってください。これくらいしか私には出来ることがありませんので。あなたの結婚生活は楽しかったです。私が異性愛者であれももっと楽しいんだろうなとずっと考えていました。自分からあなたを誘うことは出来ませんでしたが、このお金はいつか2人の子どもが出来た時のために貯金していたお金です。こんな私ですが、2人の子どもは楽しみでした。こんな私でごめんなさい。どうか幸せになってください」
「そして私は携帯電話捨て、どこか遠くに行きたいと思い、貯金の残りを使ってこのお店を開いた。誰も私のことを知らないところで、ひっそりと生きていこうと思った。元々小さい頃の夢は料理屋さんだったしね。BARだから少し違うかもね。奥さんにあんな酷いことをした私が幸せになって良い訳ないんだよ。だから私は一生恋人作らないと決めたんだ。ごめんね。せっかく好きになってくれたのに。気持ちは嬉しいよ。ありがとう」
衝撃だった。そんな辛い経験をしていたなんて、知らなかった。けど、それでも僕は…。
「納得出来ないよ!奥さんを傷つけたことは確かにダメだけど、忘れちゃいけないことだけど、でもだからと言って、マスターが幸せになっちゃいけない理由じゃないよ!もう充分反省しているマスターを誰も責めないよ!マスターが自分のことを許せないなら、僕が許すよ!マスターのことを!だから…そんな自分を苦しめることをやめてください…マスターのこと僕が幸せにしますから!」
言ったあと急に恥ずかしくなった。だってなんだかこのセリフは
「ふふ。まるでプロポーズみたいだね」
柔らかいいつものマスターの笑顔だった。
「ふふ。プロポーズの返事しないとね」
そう言って、シェーカーを取り出し、カクテルを作り出した。
「私からのプロポーズの返事はキールよ」
「どういう意味ですか?」
「カクテルには花言葉みたいにカクテル言葉があるの」
「キールのカクテル言葉はなんなんですか?」
「最高のめぐり逢い…。私は本当に幸せになっていいの?」
「僕が幸せにしたいんです!」
「ふふ。ありがとう」
その柔らかい笑顔がいつもより、晴れやかに、見えたのはきっと気のせいじゃないんだろう。