誰が”全ての人間は幸福になる権利を有する”などと嘯いたのか?
生きる事に疲れた、という人には是非読んで欲しい。
今さら語るべき事柄では無いのだろうが、そこを曲げてあえて言わせてもらう。
人の心は移ろい易い。
不動の信念なるものを体得しても尚、迷い、本来あるべき物を見失ってしまうのだ。
例えば幸福感というものだ。
人間の幸福の究極とは実存だろう。
とりあえず生きていれば何とでもなる。逆説的には死んでしまえば何を為す事もままならない。
生死を分かつものは原因と結果の癒着であり、本来はそれ以外の何物でもあるはずがないのだ。
生きているだけマシ、とはやや稚拙で即物的な論理かもしれないが否定する要素は無い。
きっと死んでしまえばよくわかるのだろう。
私は試すつもりは無いが。
しかし現実世界の人間の主観という物はいつでも真理から乖離する傾向があり、不動の真理をつきつけられても拒絶反応を起こしてしまう。
まあこれは自尊心が関わってくる問題なのだろうが、それは個人の抱える事情であって真っ当な大人を気取るなら口外すべきではないお話なのだ。
世の中には物好きがいて本来はよそ様に話すべきではない痴情の類をベラベラと話す真に頭の悪い人種もいるようだが、自覚に乏しいという疑念が生じた時は鑑に自分の姿を写してみるといい。
きっと答えが見えてくるはずだ。
私などは鑑の中に棲むやや太めの頭の禿げあがった見る者を不愉快な気持ちにしかさせない眼鏡の中年男を見る度に自戒している。
いずれ心が朽ち果て、鏡を割ってしまう日も来るのだろうが対策として鏡にオダギリジョーの写真を張ろうと画策している。
”見ろ、鏡にオダギリジョーが映っているぞ。はっはっは…。”
この世に希望などあるはずがない。
話を戻そう。
人間の自我は現実を受け入れられるほど強くは出来ていない。
現実主義者の大半も、自我の許容範囲という保障を経て辛辣な口ぶりで高説を垂れ流しているのだ。
仮にビジネスの講義をしている小利口な詐欺師どもが本物の破滅を体験すれば、流石に持論を撤回せざるを得ないだろう。
今まで生きて来てそのような逆説的な論理が立証された事例など腐るほど私は見ている。
混沌こそがこの世界の真理だ。
テレビアニメ「アイドル伝説ようこそようこ」があのような形で終了するとは、神ならぬ身の私には予見することが出来なかった。
結局あの二人、行方不明になったの?としか思えないような結末だった事を私は忘れない。
コホン。
とにかく「ようこそようこ」の打ち切り終了という事件を経て、私は幸福の本質とは真理との併存ではないかと考えている。
許容しうる範囲で幸福に依存してしまうと、自分を取り巻く状況が粗だらけに見えてしまうのは人の性なのだ。
どれほど修正して繕っても、やはり人間は生まれ持った矮小な矜持を発動させて無理やりにでも満ち足りようとはしない。
先の論理を展開させると生きるだけで幸福なのに、より華美な生き方を求めるといった愚かな習性がその典型例だ。
さらに益の無い椅子取りゲームを続けても結局は自身の精神がすり減るだけで、最後には生きる事に疲れてしまう。
選ばれた人間と、原産地がしっかりとした牛肉の違いというもんを言及したい。
厳選されたという点では合致するが、一個の意思を持った人間が家畜以下の扱いに甘んじているのは万物の霊長の座にある生物の態度としてはいかがなものかと思われる。
もしも家畜の幸福を甘受するというならそれいいのだろう。
人間は考えて行動するのだから全ての行動に責任が生じる。
苦難ばかりの人生と為る事は避け様が無い。
だが翻って家畜人間として生きるのであれば、何の責任とも無関係で、ただ人に全てを委ねて生きるのだからそれは楽な生き方なのだろう。
それも否定はしない。
要するに幸福の追求とは己の器という鋳型に適合した中身を見つけるという事なのだ。
すぐに見つかる場合もあるし、永遠に見つからない場合もある。
正しい公式や手法などは一切存在しない。
これを人生の醍醐味と考えるのはやはりその人間の器量が問われるという話だ。
目の前の幸福を幸福ではないと感じるのは個人の自由だが、それを公の場で明らかにするという事は恥ずかしいという事を考えてくれれば幸いである。
以上が「アイドル天使ようこそようこ」打ち切りから私が勝ち得た考察でもある。
あれが終わって始まったのがウェディングピーチなんだよな…。
な?もっと疲れただろ?