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第四夜 葵

 それは京の都を亡ぼす愛。


 十六歳の皇女、茜さす斎院と十三歳の葵右兵衛佐。

 絵巻のように麗しい都で一番の美男美女なれど、大人たちに弄ばれるように娶せられた二人。

 彼女は彼に恋をして、彼は愛の全てを捧げると誓った。


 幼い二人には早すぎた、互いを蝕む野心と恋慕の毒杯。

 世にも美しくおぞましく狂おしいほど縛られた二体一具の妖が京の都に解き放たれた。


 比翼連理など生ぬるい。

 ――その男君は雛人形のように無邪気で、可憐で、まだ幼かった。十三歳だ。右兵衛佐(うひょうえのすけ)直衣(のうし)姿もまだ(きぬ)に埋もれるようで。

 茜さす斎院は都で一番の美姫。この十年、葵祭(あおいまつり)の主だった。帝の(にょ)()(みや)として四歳で卜定(ぼくじょう)を受けて賀茂(かも)の神に仕え、十六歳で母の死を境に退(しりぞ)き、此度(こたび)、降嫁に至った。その美貌はまだこれから花と盛りに咲くものを。

 右兵衛佐は右大臣の令息であり、元服したばかりながら童殿上(わらわてんじょう)で最も麗しいと誰もがため息をつく。そこに斎院降嫁の栄誉。物語のような美しい少年少女の縁組みを羨まない者はなかった。

 右大臣家では豪奢な宴が催され、その灯りは夜空を照らすほど。昇った月が傾いて管弦も一通り終わった頃に、新郎新婦は御簾の内で初めて顔を合わせた。


「若輩ゆえいたらぬところもございましょうが、右兵衛佐為正(ためまさ)、宮さまのために誠心誠意尽くしてよき夫となりましょう。都中の誰もが我らを羨み、あれこそ比翼連理と(うた)うようなまばゆい夫婦となりましょう。八雲立(やくもた)出雲八重垣(いずもやえがき)と歌うように、邸を叢雲(むらくも)で包み喜びで満たしてゆきましょう」


 唱える口ぶりは十三歳にしては立派なものの心がこもっておらず。

 皇女はわっと泣き伏してしまった。


「どうなさったのです斎院さま。為正では頼りのうございますか」


 十三の少年は怯みもせずに語りかけた。


「それはわたくしは元服して間もない身、童のように見えるでしょう。まだ従五位(じゅごい)の右兵衛佐。斎院さまより年下で背も低く弟のようにしか思えないやもしれません。ですがこれより斎院さまに相応しい威厳ある公達(きんだち)になりましょう。十年、二十年後をご覧くださいませ。いずれ位人臣(くらいじんしん)を極めます。斎院さまが葵の上のようにつれなくなさるのでは悲しゅうございます。――もしや斎院さまは猛々しい男がお好みですか。ではこれからそのようになります。背丈は二十頃まで伸びると聞きます、まだ七年あります。剣術や弓に励んで斎院さまの望む通りの男になります」


 言葉尻は健気だが、本気で言っているとも思えない――そもそも。


「わらわは夫などほしくない」



 この結婚には裏事情があった。


「斎院を十年勤めれば女東宮(にょとうぐう)、女帝にしていただけるというお約束だったではないですか」


 ――帝は四歳のもののわからぬ子を賀茂斎院にするのに、とんでもない約束をなさっていた。子供のこと、どうせ忘れると高をくくっていたのだろうか。

 茜さす斎院が退いた後にそのことに言及したのだから、さあ大変。

 その頃の東宮は八つ下の腹違いの弟宮(おとみや)。茜さす斎院はこの方を名前でお呼びになることはついぞなく「麗子腹(れいこばら)」と。桐壺女御(きりつぼのにょうご)こと麗子妃はこの御方をお生みになった後、中宮になる間もなく薨去(こうきょ)され、いつしか皆、皇子の方を「麗子さま」とお呼びするようになっていた。

 この皇子はお顔つきは清らで聡明で歌をよくするがどこかぼんやりしていて、覇気が足りないと思うものの具体的に何が悪いというところもなく、他に東宮位を争う皇子もなかった。帝は皇女は数多く持っていたが皇子はこの方一人きり。それにまだ八歳なのだからこれから見るべき人物に育つのだろうと。


「許せ。麗子がいるのに女東宮など立てられぬ。どのみち京の都に女帝など。お前は既に賀茂の乙女として栄耀栄華(えいようえいが)を味わったではないか、茜さす斎院」


 父帝は常識的だが誠意のないことを斎院におっしゃった。――「茜さす」とは高貴な紫色の匂うお方、という意味であったが、同時に「いつの時代の話をしているんだ」と後ろ指をさす名でもあった。

 納得がいかないのは斎院である。

 七月頃であったか。秋の盛りの暑い日に行幸があった。その折り、茜さす斎院は思いあまったのか麗子さまを離宮の池に突き落とした。元服前の幼い弟宮が自分から皇女たちの房にふらふら入り込み、姉妹たちがそれを笑ってもてなしていたのでかっとなったとかならないとか。

 幸い随身(ずいじん)が気づいてお助けしたので水浸しになっただけで済み、噂が広まらぬよう口止めされたが、十六歳の皇女が八歳の東宮を(しい)そうとしたことで重臣たちは震え上がった。


「何という娘だ。我々はあのようなものを斎院と崇めていたのか」

(もの)()が憑いているのではないか」

「恐ろしい女、尼にするよりない」


 皮肉にも皇女が死を賜るような時代ではなかったのが彼女の命を助けた。女帝が立つ時代ならばそうはいかなかっただろう。

 帝も大層心を痛めておいでであった。そもそもこの方が軽はずみな約束をなさらなければこうはなっていなかったのだが。


「尼は惨い。――降嫁はどうであろうか。右大臣家の右兵衛佐はまだ幼く官位も低いが家柄はよく才もあり、童殿上の頃からあれこそ絶世の美少年と謳われ、誰もがこぞって(むこ)がねにと望んでいると聞く。よく機転が利くが性分は穏やかで常に一歩下がっていると。右大臣も女三の宮の降嫁を欲していると言うではないか。女三の宮はまだ幼い、茜でよいだろう。女の歓びを知れば茜も少しは大人しくなるのでは」


 とことん問題の根本から目を背けておいでであった。

 こうして二度にわたる父帝の不義理によって、茜さす斎院は右兵衛佐の妻になることになった。

 右兵衛佐が美少年だとか摂関家の名門で将来性があるとか、何も関係なかったのだ。



「わらわは悔しく呪わしい。女子供との約束とみて反故にする主上の無慈悲、無情が。京の都に女帝など立たぬと決めてかかる重臣どもが。男というだけで東宮となる麗子が。お前などどうでもよい。わらわの機嫌を取ろうなどとするな、むなしいだけだ」


 いっそ全部ぶちまければこの美少年も呆れるのだろう。絶世の美姫、賀茂斎院を賜ったなど名ばかり、とんでもないものを押しつけられたと嘆くのだろう。きっと自分以外に適当に美しい姫を見つけてそちらに足しげく通うのだろう。自分はこの邸の片隅で暮らし向きに困ることがない代わりに誰からも忘れられるのだろう。

 腹をくくって全て語ったところ。

 話の中頃から少年の、仏像の玉眼(ぎょくがん)のように玻璃(はり)が嵌まっているだけと見えた瞳に、みるみる光が宿り。

 青ざめるほど色白だった顔の血色までよくなり、何やら覇気のようなものまで漂わせ。人形のようだと思っていた顔つきに、急に魂が吹き込まれたようだった。


「むなしいなどとおっしゃってくださいますな。大望、よくぞ語ってくださいました」


 少年は彼女の手をぎゅっと握り、頭を下げて額に押しいただいた。何やら手までが熱かった。


「そういうことならばこの為正は斎院さまの(しん)、見た目はかりそめの夫として斎院さま、いえ静子(しずこ)内親王殿下にお仕えし、殿下が高御座(たかみくら)にお()きあそばすお手伝いをいたします。比翼連理などと甘いことを申しました、我が君。なるほど東宮さまは我が忠誠心を捧げるには足りぬ御方と思っておりましたがまさか新枕(にいまくら)で主と仰ぐ御方にお目通り叶うことになろうとは。世間体がためにあなたさまを妻と扱い、子供騙しの夫婦ごっこを演じる臣の不徳をお許しください」


 すらすらと唱える言葉は相変わらず本気かどうかもよくわからないのだが。


「高御座など、お前に何ができると言うのか」

「何でもいたしましょう、我が君のためならば」


 顔を上げた少年の瞳は潤んでいた。相変わらず彼女の手を握り締めたまま。


持統(じとう)の女帝は東宮・草壁皇子(くさかべのみこ)に早世されて孫が幼いがために自ら帝位に即きました。元明(げんめい)の女帝もまた同様に、孫である皇子に代わって高御座に。唐においては武則天(ぶそくてん)、皇族でもない娘が皇帝に入内(じゅだい)し太子を生んで、その太子に代わって即位したのです。臣である武則天にできたことが茜さす斎院さまともあろう高貴の御方にできぬ道理がありましょうか」


 まだ女のように小さくなよなよした、声が変わったばかりの十三歳の子があまりに澱みなく語るので、茜さす斎院の方が少し気圧された。


「前例があると?」

「はい。この臣は摂関家の流れを汲む身、宮腹の姫が得られれば(きさき)がねにとなりましょう。その姫が東宮を生めば、遡って斎院さまが高御座に即くは十分にありえること。幼き孫から帝位を預かるは世の倣い。今すぐに、は性急にございます。孫が生まれてからが女帝の本分です。皇族の男など頼りになりません。為正こそがあなたさまの助けとなりましょう。重臣どもは皆、静子内親王さまが女人ゆえに軽んじるとおっしゃいましたね。為正は違います。麗子さまよりもあなたさまの御代(みよ)のために働きましょう。わたくしこそがあなたさまのかりそめの夫にして唯一の忠臣にございます」


 ――夢物語の世迷い言もここまで真剣に語れたら立派なものである。恐らくこの子は歴史書の読みすぎで、「血筋正しくありながら(ないがし)ろにされる皇女とただ一人の忠臣」という役割分担(ロールプレイ)に酔っていた。

 そしてそれは茜さす斎院を酔わせるのにも十分だった。少年の目をじっと覗き込んで離せなくなっていた。


「まずは、女御子(おんなみこ)をお生みくださいませ。不肖この臣めがお手伝いいたしましょう。お一人で御子は授かりませんから。(おそ)れ多くも玉体に触れることをお許しください。意に染まぬ男の子を生むのは不本意でございましょうが、こればかりは耐え忍んでくださいませ。女帝の通る道なのです」

 果たしてこれが十三歳の殺し文句であろうか。



 こうして反逆の皇女・茜さす斎院と右兵衛佐・藤原為正の新婚生活は世の人々の予想を超える形で円満に始まった。――いや、茜さす斎院はそう素直に夫に従う女ではなかった。


「お前、わらわをからかっているのではなくて?」

「からかうなどとんでもない。我が忠誠をお疑いになるは心外です。とはいえ昨日今日で信じろと言うのも無理なのでしょうか。このわたしに二心なきは時間をかけてご理解いただくしか」

「わらわを女帝にしてお前には何の得がある?」

「女帝の夫になれます。臣の身で女帝の夫、歴史に前例がありません。女帝は帝位に即いた後に夫を持ってはならない掟ですから。為正は摂関家の生まれ、末は大臣か摂政関白か、位人臣を極めるのが当然と思っておりましたが女帝の夫は関白より上。もはや普通の大臣や関白に興味などありません。為正にとって内親王さまはこの憂き世の望み、歴史の特異点、ファム・ファタルでございます」

「何だお前、己のためか」

「そうです。だからこそ二心がないのです。このわたしこそがあなたさまを(よう)する者です。尽くす喜び、他の誰にも譲る気はありません」


 計算ができているのをそら恐ろしく思うべきか、計算ずくとがっかりするべきなのか。

 それでも毎日花と歌を届けられ、


「斎院さま、拙い腰折れなれど斎院さまにご覧いただきたく」


 足しげく通われ、


「斎院さま、陰陽師どもが申すには今宵は月が綺麗に見えるそうですよ」


 ときに甘えたりなど。


「斎院さま、臣はまだ若く頼りのうございますか?」


 小犬のようにじゃれつかれると、悪い気はしない。


「……麗子にお前のようなかわいげがあればもう少しあれをよく思ったのであろうか」


「臣を麗子さまとお比べになるなど。臣は我が君として静子内親王さまを敬愛しております。弟御とお比べになったりしないでください」


「お前、契りを交わした女に対して主への敬愛などとほざくのか?」


 しかしいくら言葉を重ねてもこの少年は弟のような、恋人のような、従者のような、どれでもないような。弟扱いされてむっとするところはかわいくもあり、不本意なことに彼女は「女の歓びを知れば茜も少しは大人しくなるのでは」という父の目論見の通りに動きつつあった。

 あるいは見目麗しく聡明な少年に毎日花と歌とを献じられて口先で主従ごっこをするのが、彼女が女帝という地位に求めていたものだったのかもしれない。父帝には約束を守る覚悟がなかったが、彼女もまたその程度の覚悟で約束にこだわっていた、ただそれだけだったのかもしれない。

 だが斎院を降嫁された少年は。彼はこの頃、葵右兵衛佐と呼ばれていた。賀茂祭(かものまつり)の葵を賜った者。

 彼が何者なのかまだ親ですら、妻ですら知らなかった。



 年が明けると東宮は九歳。元服の話が出始めた。来年、再来年ということになるのだろうが。

 元服、初冠(ういこうぶり)となるとそれに伴って血筋確かな姫の()()しの話が出てくる。東宮妃の選出である。

 しばし幼い夫と戯れ合って女帝の話を忘れていた茜さす斎院だったが。弟宮に女御(にょうご)入内の噂が出てくると、怨念が(よみがえ)呪詛(じゅそ)を述べるようになった。


「麗子に内大臣の姫が入内するだと! 麗子如きに!」

「まあ、いないというわけにはいきませんから。母后のおられぬ麗子さまですから、妃くらいはそれなりに格式のある家の者をとなるでしょう」


 茜さす斎院は激怒していたが、葵右兵衛佐はそれほどではなく暢気(のんき)に餅菓子など食べていた。


「お前はそれでいいのか、わらわが女御子を生むとして誰に入内させるのだ!」

「それは時の運というものですよ。――誰もなるなと言うわけにはいきませんが、内大臣家は嫌ですね」


 餅菓子を食べているような少年のくせに、一人前にませたことを言う。


「わたしの腹違いの妹でもよいですが、時機というものを見定めたく思いますね。関白辺りに恩を売ってやる好機やもしれません。以前から考えていたことがあるので何とかしてみましょうか」

「何とか、とは?」

「相手は女で、あなたさまの名ばかりの夫は都で一番の美少年でございます。何とでもいたしましょう」


 食べ終わると餅のかけらが残っているのか指先を舐めていた。てんで子供の仕草だ。

 だのに見ていると胸が高鳴った。少し動くたびに甘い香りがするようだった。


「少々寂しい思いをさせますが」



 それから彼が斎院のもとを訪れるのが毎日ではなく飛び飛びになった。同じ邸に住んでいてもそう顔を合わせるものではないとはいえ。

 やがて十日も間が空くようになった。文だけは毎日届くのだが。


「茜さま、何か意地悪をおっしゃったのでは」


 気を揉んだ女房などが心配して気遣いの文を書くよう勧めてきたりもしたが、茜さす斎院には憶えがない。


「葵というのは不吉な名でした。我らの宮さまに葵の上のような運命を負わせてしまうのでは」


 自分のことでもないのに泣く者もいた。――茜さす斎院も少しは寂しかったが、周囲がこう先だって騒ぐと気が削がれる。

 それに胸騒ぎがした。寂しい孤独だというのとは違う、何か落ち着かない気持ち。



 そして次に彼が晴れやかな顔で現れたときに、その胸騒ぎは決定的なものになった。詫びのつもりか螺鈿(らでん)や銀細工の調度を山と携えて。


「斎院さま、長らく不義理をいたしました。さぞやひどい男と思われたことでしょう。為正も心苦しゅうございました、許せぬとあらば打擲(ちょうちゃく)なさってくださいませ。どんな辱めも甘んじて受けます」


 語りながらしおらしい顔になり、頭を下げる。――茜さす斎院は別に怒ってはいなかった。ただ困惑した。


「男がよその女のもとに通ったくらいで大騒ぎをするように見えるか」

「しないのですか。やはり為正はかりそめの夫、情などお湧きではないのですか。まだ弟とお思いでいらっしゃるのですか」


 とうなだれて見せるのでますます困惑した。


「よそに恋しい女ができたから通っていたのではないのか」

「まさか。為正に二心はありません。いつでも斎院さまのことを考えております。腰折れは読んでいただけませんでしたか。お返事がないのは怒っていらっしゃるのかと」

「ではお前はどこで何をしていたと言うのだ」

「静子内親王殿下が御為(おんため)、臣として忠を尽くしておりました」

「何の話だ」

「お忘れになったのですか? 麗子さまの后がね、内大臣の姫にございます」


 そのとき葵右兵衛佐が浮かべた笑みは。

 それまでに見たことがないほどきらきらと光り輝いているようで。


「くだんの姫、もはや為正の言いなりです。入内するくらいなら匕首(あいくち)で首をかき切って死んでやるとでも言わせましょうか。既に腹に子がいると噂を流すとか。どうせなら派手に騒がせて麗子さまの面目を潰してやりましょう」


 ――予想もしない言葉に、身体が震えた。


「何をした、お前」

「何をしたとは無粋なことをおっしゃる。――世間の好き者がするようなことを。名ばかりとはいえ夫の身で妻に語るのは気が引けます、ご容赦を。思ったよりたやすうございました、とだけ」


 彼は目を細め、唇を吊り上げた。嫌な笑みだと思った。

 思ったのに目を逸らせない。


悋気(りんき)をお感じになりますか? ならばいっそ自刃してもらいましょうか。それともくびれて? あれはもうこの為正が死んでくれと言えば死ぬる女でございます。流石に我が手にかけるは外聞が悪いので自分で毒などあおってくれると手っ取り早いですね。いかがいたしましょうか」

「いかが、とは」

「形ばかりとはいえ夫を寝取られたのです。引き裂いておやりになりたいとお思いではないですか? 後妻打(うわなりう)ちです。手足をもいで酒の(かめ)に漬けるなどどうでしょう、と言いたいところですが京の都では難しゅうございますね」


 おぞましいことを語りながら、声だけは彼女を慕って花を摘んで、餅菓子を食べていた無邪気な少年のもので。


「武則天の如き女帝になられるのでしょう?」


 頭から血の気が引いた。

 彼がしていたのは〝主従ごっこ〟などではなかった。

 二人は確かに比翼連理ではなかった。二羽で寄り添わなければ飛ぶこともできない弱々しい片翼の鳥などではなかった。

 正しくはこう呼ぶのだ。

 ――虎に翼をつけて野に放てり。

 虎がこの男で翼が自分なのだと思った。

 この男は自分以上に女帝というものに夢を見ている。酔って溺れている。その牙を振るう大義名分を得たのだから。二心ない、当然だ。他にこんな女はいない。

 自分を女帝の夫にしてくれる妻など。

 十三歳にして己の主になってくれる者など他にいないことに気づいた。

 彼女のために帝室に逆らい、獲物を狩る喜びに目覚めたのだ。

 牙を振るわない虎は猫のように見えていた。己が身に爪と牙が刺さるまでその鋭さに気づいていなかった。

 ――のどの奥に何かがせり上がってきた。寒気がする。穢らわしい。いやどれも違う。

 怖い。

 嘔吐(おうと)してしまったのは生まれて初めてのことで、(たらい)も何も間に合わなくて衣を汚した。せり上がって止まらなかった。


「斎院さま、静子内親王さま、しっかり」


 異変を察して葵右兵衛佐が御簾のうちに入り、茜さす斎院を抱きかかえ、背中をさすった。

 ――とても気分が悪いのに。汚いものがついてしまうのに。


「誰か、誰かある。薬師(くすし)を呼べ。典薬寮(てんやくりょう)だ」


 少年が、恐ろしい夫が、抱きついて離してくれない。

 きっとこれからも離してくれないのだろう。その夢に飽きるまで。

 むせかえるような野心と恋慕の毒。

 いや。だが。

 それはそもそも彼女が差し出した毒杯ではなかったか?

 十三歳の少年が酔うには強すぎたのでは?

 あの夢さえ語らなければ、美しくて聡明で誠実でかわいげのある、それは立派な公達になっていたのでは?

 彼女が本当に望んでいたものは――


 不調は、病ではなく懐妊の兆候であった。

 彼を(むしば)んだ毒が返ってきて、彼女の中に(こご)りつつあった。


 やがてこの少年を葵と呼ぶ者はなくなった。賀茂の御社(みやしろ)を穢しかねないと誰もが呆れおののいたからである。

 新たな呼び名は〝榊の方〟。

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