第三夜 檻
尼と陰陽師、市でデートすること。
本編ボーナストラック。
折角平安京の陰陽師なんだから平安京の陰陽師にしかできないアナログハックしようぜ!
陰陽師vs.尼の魔法戦、第二ラウンド!
デートの話じゃないのかよ!
「……本当に笠も垂れ絹もなしで出歩いていらっしゃる」
市の外れの柳の木の下に昼頃までいるので暇なら来てくれ、という手紙は読み間違えではなかった。
預流はいつものように萌黄の法衣に紫の袈裟をかけて。
尼削ぎの髪を背中で結わえてまとめ、明るい日差しのもと、いつもよりもさっぱりと顔がよく見えるほどだった。
「あら靖晶さん、あなた忙しそうだから来ないかと思った」
にこにこ笑って手を振る。
――なぜ笠を持っていない、なぜ両手が空いている。
顔を晒して歩くのはもとより、何から何まで式部卿宮の妹姫、左大臣家の長女ともあろう貴女にあるまじき。
彼女は「尼だから」と言うが尼としてもどうかと思う。
草鞋を履いているが、ここまで歩いてきたのだろうか。
そもそも貴女の足もとが見えるとか。
だのに萌黄の法衣の布地がピカピカの絹で紋様がはいっており、袈裟もそれは上等なものなのでただ者でないのが一目で知れる。
こちらは市と聞いて安物の麻の狩衣にしたのに。
土埃で汚れてしまうから。
なかなか呆れる有様だが彼女に何を言ったところで聞く耳、持つまい。
思えば最初に出会ったときもこんな格好で、しかも河原にいたような気がする。
「陰陽師どの、今日はお仕事はお休み?」
「はあ、まあ。いろいろあってちょっと暇になりまして」
こちらも気楽な休暇、というわけではないのだが説明するとややこしかった。
病を患っているわけでもない陰陽頭のせがれが「しばらく陰陽寮に来なくていい」などということになるのはただならぬ状況だったが、彼女に言っても仕方がない。
「物忌みすることになりました。凶暴で冷酷な陰陽師は当分休業です」
平然と言ってやると彼女は呆れたようで力の抜けた笑みを浮かべている。
「凶暴で冷酷……その芸風、やめた方がいいんじゃないかしら」
「ぼくが決めてるんじゃないですよ」
なぜかは知らないが京には呪詛返しで二人も殺めた、鬼よりも恐ろしい陰陽師が必要らしい。
「尼御前さまはなぜ市などに?」
「辻説法ってものをしてみたくなったの」
彼女は得意げに左手にかけた数珠を鳴らした。
「でも女一人だと浮かれ女と白拍子と巫女と尼の区別がつかない罰当たり野郎に絡まれたりするから、そういうのがいたらスッと横から出てきて〝みっともないことはやめたまえ〟とか言ってくれない? 護衛はいるけど男君がいるといないで全然違うのよ。何なら播磨守さまの受領の力でねじ伏せて。ここ、受領さまより偉い人、来ないから。公卿とか現れてもドン引きだから。あなた舌先三寸ならいくらでも何とでもなるでしょう」
「ああ、そういう……」
「今、露骨にがっかりしたわね。市デートのお誘いとか思った?」
「いえ。宗教活動に決まってますよね。はい」
「やっぱりがっかりしてる。仕方ないわねえ」
彼女は軽く息をつくと。
靖晶の左手を握った。
「ちょっと一周しましょうか」
「え。あ」
それで歩き出し、人混みの中へ。
うっかり手を振り払うこともできず強引に引っ張られていく。
市は無数の小屋に台がしつらえられていてそこで日々の食べものを商う者、反物や衣、細々した日用品を売る者、馬喰、それらを買う庶民、貴族の邸で端下仕事をする者たちでごった返している。地面に薪を積んで売るほんの子供の店番や、何やら口上を唱えて薬草を売る山伏などもいる。
老若男女、着るものも様々に入り交じっていてみすぼらしい者もそこそこに洒脱な風体の者もいるが、二人が歩いていくと一斉に視線を向けた。
「尼が男の手を引いて……」
「浮かれ女なのか? 尼のくせに」
「妙な風体だが、尼か? 新手の白拍子では?」
「若いし顔はなかなかだな。上物だ」
「今どきの女は堂々とふしだらな……世も末だわ」
小声でささやくが、面白がっている者も嫌悪感で舌打ちする者もあって、全部聞こえる。
だのに預流が手を握る力は変わらず、堂々とした歩調に迷いはない。
――靖晶は無理に引っ張られて足がもつれそうなのに。
そのへっぴり腰に気づいて笑う者もあった。
「男の方が怖じ気づいている。尻に敷かれているのか」
「とんでもない買い物をしたものだな。あれが妙味なのか?」
「でかい女だな、男の方が小さい。烏帽子と下駄でごまかしているだけだ」
「酔狂なやつもいたもんだ」
――二十四年生きてきてこんなに恥ずかしいことはなかった。
多分顔が真っ赤になっている。
預流の方はといえば一周して柳の木の下に戻ってくると、堂々と胸を張って拳を握るのだった。
「これでわたしに声をかけてくる男なんていなくなったでしょう! 一石二鳥!」
「あ、あのですねえ」
「何? 手、握っただけじゃない。手なんか前にも握ったし不邪淫戒には触れないわよ。減るもんじゃなし。千手観音の千本の手はあまねく一切衆生に差し伸べるためにあるのよ。救うべき衆生の手を取って導く、これも功徳! 勝手にふしだらとか思う方がふしだらなのよ、御仏に恥じることなど何もしていないわ!」
――何でもありかこの人は。
何で誇らしげなんだ。頭が痛い。
「御仏に恥じるところがなければ俗世でどう思われてもいいんですか?」
「俗世どころか自分は男で子持ちの釈尊にふしだらとか言われるのも笑止千万だわ。男の手を握った程度でわたしの功徳、減らせるものなら減らしてみなさい」
――何を言っても無駄だった。
妙な連中が後をつけてきたというのに。
こちらからじろじろと見ることはできないが男ばかり四、五人いる。
荒事は不得手だ、まずい、と思っていたら囃し立てられた。
「功徳だってよ、おれたちにもありがたいもの見せてくれよ」
振り返ると皆、にやにや笑うばかりだった。
……靖晶と預流がもっと破廉恥なことを始めるのではないかと見物しに来ただけだった。
だから近づいてこないのか。
「……これ、帰って仕切り直した方がいいんじゃないですか。逆効果ですよ」
「仕切り直すって何をだよ!」
「ここでやれ! おれたちにも見せろ!」
げらげら大声で笑われると。こうなると今度は預流の顔を見られない。どうしたものかと思っていたら。
一人に指さされた。
「あいつ、どこかで見たことのある顔だぞ。――陰陽寮の陰陽師では?」
あ。
「そうだ、安倍某。陰陽師如きが生受領になったとか」
「羨ましい話だなあ、受領になれば女も買える」
……男たちの狩衣はどれもこれも麻で大して上等なものではなく、顔にも見覚えがない。
貴族の家の雑色か何かが買い物に出てきたところだったのだろうか。
どんなお偉い家に仕えているのか知らないが、〝如き〟呼ばわりされる筋合いはない。
「最近、女鬼を調伏したと聞くぞ。あれのことではないのか」
聞き捨てならない言葉が出た。
「どんな方術で調伏したのやら。されたのではないか」
「あれは女鬼か。天狗ではないのか」
「尼の天狗とは」
――預流がおかしそうに笑った。
「尼の天狗ねえ。あなた、北山の百鬼夜行を予見しただけじゃなくて女鬼とも戦ったの? それってやっぱりわたし?」
「よしてください、そういうの」
無性に腹が立った。
――一つ、陰陽師らしいことをしてみようかと思った。
わざと下駄の足音を立てて男たちに歩み寄る。
拍子を取って耳に留まるように。
身長をごまかすために履いているのではない。
草履や浅沓では使えない技が使える。
「お、何だよ。やる気か」
皆、まだ面白そうに見ているだけだが。
一人に目星をつけてじっと顔を見る。
正確には、頭の少し後ろ。
少し片目を眇めて。
「喧嘩なら買ってやるぜ」
拳を振られたが、無視。
――陰陽師は普通の喧嘩などしない。
影を踏むほどまで近づいて一回、柏手を打つ。
誰にでもできるように思えて音高く響かせるのにはコツがある。
それで囃し声が止まった。
禹歩に柏手。
普段聞かない音でここから何か意味のあることが始まるぞ、と合図をする。
それに声。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、ざ」
つぶやきながら両手で印を結ぶ。いつもやっている通りに大仰な仕草で。
声と仕草が重要だ。
目は合わせない。視線はあくまで相手の少し後ろ。
何をしているか、相手に伝える必要はない。
独鈷印、大金剛印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印――
途中で指を引っかけて、止める。
「あれ?」
緊張から弛緩。
印を組み替えかけた手をわざとらしくしげしげと見つめ、少し首を傾げる。
「……おかしい。手応えがない。どうしてこんなことが。尋常ではない。そんなはずはないのだが。確かに見えたのに。まさか。うん、いや、多分勘違いだ。すまない。忘れてくれ」
適当に意味のないことを言う。
踵を返して預流の方に戻る。
「どうだろう、果たしてこんなことがあるのだろうか。全く聞いたことがないが。邸に戻って確かめなければ。書には記してあるだろうか」などとつぶやきながら。
――預流はぎょっとしたようで、靖晶とその背後の連中を見比べているようだ。
多分、この術は彼女に一番よく効いている。
「お、おい、何なんだよ」
背後から少し怯んだ声がした。
――かかった。
別に、この場で笑い飛ばされても効果が出るのが後になるだけなのだが。
後ろから肩を掴まれたが、今度は目を逸らして二度と相手の顔を見ない。
「な、何なんだよ今の。何だったんだよ、尋常じゃないって」
「いや、勘違いなのだ、きっと。そんなことがあるはずがないのだから。深く考えるな」
こちらからは何も具体的なことは言わない。
「――お前、鬼でも憑いてるんじゃないのか?」
誰かがつぶやいた。
「祟られてるとか。女に恨まれてるだろう、ほら」
「犬を蹴ったりもしたよな」
「そういえば昨日、でかい虫が死んでいたのを見かけた」
――もう仕掛けが動き出した。
横にいる連中が〝鬼〟や〝祟り〟を作り始めた。
「や、やめろよお前ら」
「何だ、怖いのか」
「こ、怖いって」
靖晶の肩を掴む手が震えている。
「お、陰陽師! はっきり言えよ、何なんだよ!」
胸ぐらを掴まれたが、目が合わないよう顔を背けて淡々と。
「何でもないと言ったら何でもない、気にするな」
「気になるよ!」
「おい、陰陽師を殴るとますます呪われるぞ」
「ますますって何だよ、おれは呪われてるのか!」
ついに悲鳴を上げた。
横の誰かが手を引き剥がしてくれたので靖晶は少し下がって、何もなかったように狩衣の胸もとを直した。
他の雑色たちは靖晶を恐れて、まではいないようだが異物を見る目をしている。
「陰陽師も女を買うのだから普通の人間だ」と思っていたときと違う。
「これは触っていいものなのか?」と。
「わからないだけで何か今、ものすごいことが起きているのでは?」と。
「本当にこいつには自分たちには見えないものが見えているのでは?」と。
今度こそ預流のもとまで歩いて戻る。
「ど、どうすりゃいいんだよ、なあ!」
こんなことで大の男が半泣きになった。終わり。
「ちょっと、靖晶さん、あれ何よ。何のまじないしようとしてたの?」
預流は顔をしかめていたので、耳もとにささやいた。
「本当に何でもないです、ただの嫌がらせ」
これで預流の術は解けるはずだ。
「……あんたそういう……」
声が強張っていた。
――〝邪視〟。
視線だけで他人を呪う。
意味がありそうな動き、思わせぶりな態度で何もないところに何かがあるように思わせる。
いにしえよりこうと決められているやり方を幼い頃から教えられてできるようになったというだけで別段、彼にとって大した意味のない動きと音で。
この京の都ではなぜだか、目の前で陰陽師がまじないに失敗するととても怖いらしい。
靖晶ばかりではない。陰陽寮の誰でもへまをすることはあると言うのに、なぜかよその者は誰もそうは思わない。
だから取り繕う方法もいくつかあるが――今回は一番、やってはいけないことをした。
術が成功しても火の玉が出たりするわけではないが、失敗すると必ず効果が出る。
この従五位上安倍播磨守の術は失敗したときこそ凄まじい。
陰陽寮の陰陽師のまじないはその辺の見様見真似の辻占が売っている安物とはわけが違う。
本来なら殿上人にしか授けることのないものだ。
とっくり味わってもらおう。
これからあの男に何か悪いことが起きたらそれは全部、靖晶が彼の後ろに見た〝尋常ではない何か〟と失敗した術のせいになる。
一生、ずっとだ。
誰でも生きていれば悪いことの一つや二つあるというだけだが勝手に祟りや呪いや鬼のせいになる。
たった一回、陰陽師が目の前でまじないに失敗しただけでこれからの人生の全てにけちがつく。
この場で笑って済んでも、十日、二十日、一月、半年後に「そういえばあのとき陰陽師が失敗した」ということに必ずなる。
誰かが憶えている限り。
因果という言葉もあった。
平安なる京のあらゆる凶事、罪穢れを自在に操るとはこういうことだ。
「陰陽師がまじないをすれば何かが起こり、言っていることには必ず意味がある」と信じているから効くのであって、靖晶が陰陽師だと知らない者、ものを知らない幼子や言葉の通じない渡来人などなら何も起きないはずだ。
――馬鹿馬鹿しい。
陰陽の家で陰陽師と暮らして、いにしえの術の書やらこの世で陰陽師しか使わない呪具やらに囲まれて四六時中まじないをして二十四年も生きてきたが、鬼など一度も見たことがないのに。
晴明公が夢枕に立ったことすらない。
この世に鬼も神仏もありはしないのに。
物事に必ず意味や原因があるなどという考えは馬鹿げている。
ないものはないのだ。
なぜその程度のことがわからないのだろう?
「大丈夫よ! わたしが助けてあげる!」
突然、預流が大声を上げた。
靖晶が呼び止める間もなく彼女はためらいなく雑色たちに歩み寄った。
泣き崩れている一人の前に立つ。
「ありがたいお経を唱えてあげるからね。お経を聞けば大丈夫よ。治るわ」
と左手にかけた数珠を両手にかけ直し、じゃらじゃら鳴らして般若心経を唱え始めた――余計なことを。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色――」
済むと、数珠を取って雑色の手にかけてやる。
「ほら、この数珠をあげる。天竺の菩提樹でできていてとてもありがたいものよ。怖くなったらこれを手にかけて阿弥陀仏を拝むのよ」
ぎゅっと手を握ってやるのを見て、ああしくじったと思った。
「ちょっと! そういうのやめなさいよ」
しかも予想通り、こっぴどく怒鳴られた。
雑色たちは尼の剣幕によほど当惑したのかすごすごと市の方へ戻ってしまった。
――無礼だったのは向こうなのにこっちが怒られるのはやっていられない。
「大して何もしてないじゃないですか」
呪われろとも言っていないのに呪いにかかる方が悪い。
「陰陽師にあんなことされて怖くないわけないじゃないの! 先祖伝来の魔力をしょうもないことに使って、勝手なことをすると係累に申しわけないとか言ってたのは何よ!」
「これとそれとは全然違いますよ、ぼくは物忌み中で名乗ってもないのに向こうが公私混同してくるんだから。馬鹿にされたり怖がられたりするぼくも傷つきましたよ、慰めてくれないんですか?」
「ひどい男ね安倍播磨守、あんたの来世は虫よ、虫!」
「尼御前さまが今ぼくを呪った。ひどい。深く傷ついた。虫に生まれ変わりたくなかったら壺を買えとかいう話になるんだ。そうやって男の純情を弄ぶんだー」
「冗談じゃないわよもう、最低!」
そうだ、冗談ではない。
連れ歩いている女の悪口を言われて喧嘩を買わない男があるか。
預流が自分から男と手をつないで歩いて浮かれ女呼ばわりされるのは致し方ないとして。
手をつないでいたのが自分でなければ天狗呼ばわりはされなかったはずだ。
とは思うものの。
「――そうですね、一つしくじったのでやらない方がよかったと思っています」
「ほらー! 反省してもう二度とやらないって誓いなさい!」
「(あなたの前では)もうしません」
――若い綺麗な尼に手を握られて数珠なんかもらってしまって。
あの雑色、預流に惚れてしまうだろうが。
きっとあいつが助けを求める阿弥陀仏とやらは彼女の顔をしているのだ。
この場で何も起きず時間が経ってから「そういえばあれは」となっていたら、彼女が呪いを解いてしまうことはなかったのに。
何もかもうまくはいかないものだ。
「本当よ! 小指出して、指切り! 約束!」
あ。役得。
――手をつないだのだから今更小指を絡ませることに意味があるのかと思わなくもないが、子供の遊びのようなまじないが何となく特別なことのような気がする、これも魔力。
しばらく手を洗わないでいようと思った。
「あなた、自己評価が低すぎると思ってたけど自信持つとろくなことしないわね。間はないの?」
「あの数珠は貴重なものではないんですか?」
「ものに執着するのは煩悩よ。ここで別れる縁だったのよ」
預流はつんとすまして言い切るが――自分で額に汗して働いて手に入れたものではないだろうに、何が執着で煩悩だ。
どうせ兄宮さまからいただいたのだろうに。
またもらえばいいとでも思っているのだろう。
どうでもよいものなら靖晶にくれればいいのに。
そのうち預流は諦めたようにふう、とため息をついた。
「でも数珠がないと説法ができないわねえ。仕方ない、今日は市をだらだら歩き回るだけにしましょう」
――やった、期せずして市デート。最終的に収支が合ったのだと思おう。
試合に負けて勝負に勝った。
「糟湯酒でも飲んでみます?」
「昼間っからお酒? 気が引けるわ」
「糟湯酒は酔うほど強くないです」
それで酒粕を湯で溶いた安物の甘酒を片手に、木通の実なんか食べてみたりして。
柑子や瓜と違って畑で作るものではないせいか、宮邸では木通は出ないらしかった。
「木の実なら生臭じゃないわね」
「行者も食べてるから大丈夫かと」
「あら甘い。思ってたのと違う。種が多いけどこれはこれで」
割れ目から真っ二つに裂いて二人揃って不作法にかじりついているとうららかな秋の日、という感じだ。
大口を開けて木通をかじるとか女人の所作ではないと思うが、預流はためらいがない。
「面倒くさいから種、呑み込んじゃうけど。選って出すとか無理だわこんなの」
「無理ですね。腹の中で芽が出たという話は聞かないから大丈夫でしょう。――まあこんなのは、宮さまや大臣さまにお出しするようなものではないですねえ」
「貴族って面倒だわ、何を食べると下品とか。おいしい木の実ならいいじゃないの」
「修験者がときどきうちに来るんですよ」
「サイキックバトル!?」
「じゃなくて山ごもり修行中に採った薬草とか栗とか山菜とかきのことか、米や衣に替えてやるんです。修行の話なんかも聞きながら」
「ああ。そんなことしてるんだ」
「行者も年がら年中、山にいるわけにいきませんから。それでついでに木苺やら木通やら持ってくることがあって。子供の頃は楽しみでしたね」
「あなた食べるの好きだものね。何食べててもおいしそうに見えるわ」
「食べるくらいしか楽しみがないから」
「太ってないし、多分丁度いいのよ」
食べながら他愛のないことを喋って。
用事も目的もなく。
何てどうでもいい時間だろうか。
ずっとこんな風にどうでもよければいい。
誰にとってもどうでもいい人間であれたら。
「ん」
だが預流は、食べかけの木通を靖晶の手に押しつけると袖で口を拭って
「ちょっと持ってて」
ぱたぱたと市の雑踏の中に飛び込んでいく。
――せわしない人だ。すぐに何か見つけてしまう。
せめて全部食べてから行けないのか。
きっとずっとこんな風なのだろうな、と思う。
戻ってきたとき、両手に竹細工の籠を抱えていた。三つも。
それを地面に置く。
中には、彼女の法衣の色に似た黄緑色の小鳥。
一つの籠に二羽ずつ入っていた。
ということは六羽。
チーチー鳴いているのが聞こえる。
「……これは?」
「目白だって。声のいい小鳥よ」
言われてみれば目の周りが白い。
「え、ちょっとよくわからないんですけど。食べるものではないですよね?」
「飼うものらしいわ。柿なんかを食べさせて育てて鳴き声を聞き比べたりするって。でもかわいいからって人のわがままで野にある鳥を籠に閉じ込めるなんてよくないわよ。鳥は空を飛んでこそよ」
「……買ったんですか?」
「店にいたのを全部買ってきたわ。空に放ってやるの。これも功徳よ」
預流は得意げだったが――頭が痛い。顔が引き攣りそうだ。
どうしてよりによって。
「……預流さま、そういうものを買っちゃ駄目ですよ」
「どういう意味?」
「預流さまのように慈悲深い方が買って放すのを見越した商売です。売れたら売れただけ新しく山から小鳥を捕らえてきます。人の商売に巻き込まれる小鳥が増えるだけで、かえって罪深いですよ」
「でもこの子たちは自由になれるわよ。わたしが買って自由にしてやればいいじゃないの。どうせ無駄だからやらないなんて駄目よ」
――それが悪循環だと言うのに、何と説明したらいいのか。
預流はにこにこと満面の笑みで籠の戸を開けた。
「ほうら、天竺まで飛んでいけ」
彼女は、小鳥がぱたぱたと飛び立つのを期待したのだろうが。
――意外と、籠から出てこない。
「……お前たち、自由になれるのよ」
仕方なく預流は籠に手を入れた。
目白たちは人に慣れているようで、その手に飛び乗る。
が。外に出しても飛んでいかない。
預流の手に留まったままだ。
「どうして空を飛ばないの?」
「多分、捕らえた者が躾けているんでしょう。放しても捕らえた者のところに戻ってくるので、また違う人に売りつける商売なんですよ」
そのうち、やっと飛んだかと思うと――靖晶の手に留まって木通の皮をつっつき始めた。
それで預流は衝撃を受けたようだった。
「お、陰陽師は鳥まで操るの?」
「いやこの鳥が人に慣れすぎなんですよ。人が餌をくれるのを知ってるんです。あるいはぼくが何をしても反撃しないやつだとナメてかかっているのかもしれませんが」
しゃがんで木通の皮を地面に置いてやると、そっちに群がった。
預流は他の籠も開けたが、飛び立ったのは一羽か二羽で残りは木通の皮の方にやって来た。
店ではあまり餌を喰わせてもらっていないのかもしれない。
預流の食べかけはまだかなり実が残っている。
「従兄弟が前に小鳥を飼ってましてね……あれは焼き米と干した小魚を粉に挽いたのを喰わせてたんだっけ。袖に仕込んで、まじない符が鳥になって飛んでいくように見せるんだと。ぼくも何度か世話を手伝って。案外うまくやってたけどどうしてやめたんだったかな。鳥が死んで悲しくなったから?」
「い、いろんなことしてるのね」
「本当に。――いやこれは小鳥も預流さまの説法を聞くために寄ってきたんですよ。そう言うと神々しい感じしませんか。肩に載せたりしてみませんか」
「ちょっと馬鹿にしてるでしょ。あなたのそういうのわかるんだからね」
「どのみちこんなに人に慣れた鳥は野山で生きていけませんよ。餌をねだるつもりで簡単に人に近づいて、串焼きにでもされるのがオチでしょう」
「冷めた態度取ってれば賢く見えると思って、この冷笑家。食べ終わったら飛んでいくはずよ」
そう言って木通の前にしゃがんで、鳥たちが食べ終わるのを待つことにしたらしい。
むくれたような表情がかわいらしい。
「京の都では鳥どころか人も檻に入っているのに」
つい余計なことを言った。
「奴婢ってこと?」
「――それもありますが。まあたとえ話ですよ。一生家屋敷から出ない女とか、したいことができない者とか。大変な身の上の者はいくらでもいるじゃないですか」
少しごまかした。
「鳥や獣なら檻から出せばいいことだけど、人を檻から出すのは難しいわね」
途端、神妙な顔つきになるのが何だかおかしい。
「人は御仏の言葉によって自ら檻を出るのよ」
「ちょっとよくわかりませんね」
「わかるわよ。鳥の自由は空を飛ぶことだけど人は言葉で自由になるのだから。――あなたは他人を言葉で縛るから自分で自分の言葉に縛られて、目が開いていてもものが見えないのよ」
「やっぱりわからないなあ」
少し笑った。陰陽師を捕まえてものが見えないとは。
見えていないのはどちらか。
自由に女を抱き締めることもできない男を救うのは御仏の言葉か?
靖晶が問いをごまかしたように彼女も答えをごまかしたのか?
いや、この檻は開いている。
鳥籠と同じように。
多分彼女は「この後、邸に遊びに来たらどうか」と言えばのこのこ土御門邸について来るだろう。
大した作戦は必要ない。
「姉とその子供たちも不信心なので一つ説法してやってくれ、数珠がなくてもいいから」と言う手もある。
彼女は誘えば牛車に乗るし、歩いてついて来るかもしれない。
邸に引き入れてしまえば何とでもできる。
家人には変わった格好の浮かれ女だと言えばいい。
土御門の邸に惣領のすることを咎めるやつなどいるものか。
思い通りにしてそのまま閉じ込めてしまえばいい。
北の対に置いておけばそのうち髪が伸びて、皆、妻として扱うようになる。
見た目はこうでも話し方や所作で賤の女ではないことがわかり、妾ではなく正妻として敬うべき貴人であることは知れる。
身分が違うと言っても顔を晒して男の手を握って歩くような女だ。
左大臣家は九年も尼をやっている娘などもう死んだものと扱っているだろう。
今頃、返せとも言うまい。
還俗して受領の妻になったと聞いても世間は「無茶をしているという噂だったがそういうところに落ち着いたのか」としか思わない。
陰陽寮で彼女の顔を見た連中はよくやったと言うのだろう、きっと。
人に慣れた小鳥を捕らえるようにたやすい。
釈尊にすら子がいるのなら不邪淫戒とやらにそれほどの価値はないのでは。
彼女を檻に入れるか自分が檻に入るか。
自由とは言葉ですらない、薄皮一枚だ。
――くぐもった音で思考が止まった。
「ほら、もうないでしょ、飛びなさい。飛ぶのよ」
預流が手を打ち鳴らして目白たちを追い立てようとしているが――鳴らし方が下手で響かない。
あれでは痛いばっかりだろう。
練習しないとこんなに違うものかと思った。
流石に直接殴ったりして追い散らすのは気が引けるらしく、音や大声で驚かせたいのだろうが、鳥たちは全く意に介さず木通の皮を引っ張り合っていたりする。
道端で売られていたから大声如きで驚かないのだろう。
ひどくどうでもいい光景だ。
どうでもよくて、いとおしい。
――こういうときに和歌を詠んで残すべきだろうか。
いい加減、少しは勉強した方がいいと思った。
物語の類も。
多分、身分違いの恋に苦しむ馬鹿男が他にもいると思ったら安心する。
――救ってくれるのは御仏の言葉ではなさそうだ。
「ほら、ほら、もう」
大声を上げたり手を鳴らしたりしているものだから。
「鳥! 鳥がいる。かわいい」
「この鳥、歌を歌うの? 尼さま?」
どこからか子供が寄ってきた。
親と一緒に市に来たのか、使いや店番の用事が終わったのか。三人、四人。
「いや、あの、これはね」
「鳥、手に乗る?」
「触っていい?」
「人の言葉、喋るの?」
――どうやら預流を小鳥を操る旅芸人か何かと思っているらしい。
市にはそういう者もいるのだろう。
何せ変わった衣を着ているから。
キラキラした目で見つめられて、預流が珍しく面食らった顔をしていた。
「ちょ、靖晶さん、ちょっと助けてよ」
「さて。あなたもたまには魔法を期待される側になればいいんじゃないですか」
靖晶は悠々と立ち上がり、少し距離を取ってお手並み拝見することにした。