第二夜 鉄輪
あべくんはいつもしんどい。
ファンタジー設定がない平安京で生成りの女鬼と出会ったら陰陽師はどうするべきか。
「平安京で理系の学部を専攻したら何でか他人の人生のクッソ重い局面に立ち会う羽目になる、これだから宗教ってイヤ。大体あんたのせいだよ安倍晴明。いいよなあんたは不老不死でエルフの村で魔法使いぶったりファンタジー幕末にタイムスリップしたり優雅なチート生活三昧、生身で平安京を生きるぼくの人生をどうしてくれる。ぼくのキャラはどっちかっていうと関口君なのにクソ世襲システムのせいで無理矢理京極堂をさせられるし京極堂だってこれは無理だよ」
第一夜がほとんど爆発オチなのにいきなりドシリアスです。
ていうかあの本編と同じ世界? マジで?
望月のさやかに見えどなよ竹の乙女の涙雲出づるらむ
中将さまはあちこちで浮名を流す不実のお方。都中の姫君があの方のお文を受け取ったことがあると聞きます。わたくしのもとに届けられたのは十三の春の頃でした。
「まあ、噂には聞いていたけれども本当に寄越すなんて何を考えているのかしら。姫は帝の妃にとも思っているのに」
お母さまはとてもお怒りになってお文を握り潰してしまいましたが、後になってそっと拾って開いてみました。その手蹟の鮮やかなこと、料紙から漂う雅やかな香り。
これが恋というものなのだと思い、次からは母に内証でわたくしに直接取り次いでくれるよう女房に頼み込んだものです。
実にご立派な方で、実に気の毒な方で、北の方は先帝より降嫁された皇女。まだ元服して間もない子供の頃にお家のため定められた縁組みで。
誇りばかり高く鼻持ちならない妻に手を焼いて、本当の天命に定められた伴侶、比翼連理を探しておられるのだと。
世間が言うような好色の心で女の邸を渡り歩いているのではないと。
* * *
朔の夜こそ月かけなかりけれみちの見ゆるはぬばたまの闇
(新月の夜は月明かりがない、道を見ようにも暗闇の中)
(新月の夜こそ月には欠けがなく、見えない闇の中で満ちている)
「陰陽師どのは狐の子というのはまこと? 顔立ちはそんな感じではないけれど」
またそんなお伽噺を。
――わたしの従兄弟のことですよ。我が父の姉の子ですが父なし子でございます。いえ、誰の子かは知れております。大江某という学者でありましたが早くに亡くなりまして、人の子でございます。
従兄弟は土御門の邸で育ちました。それがもう三十年ほど前。今では誰も大江某を知らないのをいいことに、嘘八百の出鱈目を申すようになりました。生来法螺吹きなのか、あるいは父のない身の上に引け目を感じて己を嘲っていたのかもしれませんが、なぜだか歳経るほどにわたしの方が狐の子ということに。迷惑千万でございますよ。
我が父は陰陽頭、母は姫さまのような雲の上のお方はご存知ないでしょうがそれなりの受領の娘で、人です。
「あなたの話ってつまらない。わたし、狐の耳や尻尾が見たかったのに」
はい、そういう持ち合わせがないので。今日は何も嘘をつかない日と決めました。偽り、ごまかしは一切なしです。
「占いにそう出たの」
いえ、己でそう思いました。
「おかしな人」
よく言われます。
「陰陽師ってどうやってなるの?」
今どきは安倍か賀茂の家に生まれれば、なります。よほど算術がまずくなければ。くだんの従兄弟は算術ができたので、なりました。
「さんじゅつ、ってなあに?」
――ああそうか、姫君は算術をしないのか。
ええと。ここに檜扇がございますね。ここからここまで板が三枚。板三枚を九回繰り返して全部で二十七枚あります。数を数えるのです。十の指の十倍、百倍、千倍も。
生まれて二十四年、土御門の邸でも陰陽寮でもずっと数を数えております。唐の書物に算経十書――周髀算経、九章算術などというものがありましてそれで学ぶのです。今や我が家と賀茂にのみ伝わる秘術です。
月がいつ何時、山の端より出でて難波津の海に沈むか、その月は満ちているか欠けているか、同じ季節、同じ刻限の日の高さから京と飛鳥がいかほど離れているか、算術でわかるようになるまで鍛錬するのです。丸や三角や四角を描いて。よく墨がはねるので手も顔も真っ黒になります。浄衣を着るのはまじないのときだけです。
「難波津……熟田津……あかねさす……」
お歌はやめましょう。お身体に障ります。
「陰陽師はお歌を詠まないの?」
他はともかくわたしは、算術ばかりですっかりおざなりです。
「陰陽師は、まじないで鬼を調伏するのではなくて? 式神を操って木の葉で蛙を殺したりするのでしょう?」
わたしはまじないは苦手です。月の満ち欠け、星辰の方がよくわかります。
「霊感で月や星から運命を読むのでしょう?」
月も星も算術の通りに動くもの、というだけの話ですよ。数えればわかるのです。十や二十の数ではないので算術の才が必要ですが、世間で言うような鬼や運命を見る力ではないのです。
「安倍晴明の嫡流ではないの?」
晴明公が嫡流の安倍播磨守ですよ。血筋は確かにそうですが晴明公ほどの器かどうかは疑わしく、除目に名があったのは何かの間違いか高貴な方の気紛れでしょう。算術は得意ですが算術だけです。
今日は何もごまかしません。回りくどいことは何もなしです。
「わたしを調伏しに来たのではないの?」
ないです。
「だって誦経が聞こえるわ」
あれは姫さまの病を治そうとしているのです。
「芥子の匂いがする。源氏物語の『葵』の帖のように」
姫さまの病を癒すべく、僧都が護摩を焚いているのです。姫さまのための御修法です。
「わたしは鬼なので調伏するのでしょう?」
しません。姫さまは鬼ではございません。
「何だかずっと頭が痛くて気分が悪くて、左手が痺れて動かないの。あなたが術で縛って封じているんでしょう?」
病ですよ、それは。
受領如き身分卑しき男の分際で無礼にも姫さまの御簾のうちに入っているのは、病魔、疫神を祓う術のためです。
姫さまのような御方とお言葉を交わすは女房を介すべき。そうしていないのも姫さまをお救いするためです。
陰陽師などが姫さまのような御方に直接お話をさしあげるのはよほどただならぬときのみです。
「でも夢で中将さまと北の方さまを呪ったわ。首に手をかけて思いきり絞めたわ。皆、死んでしまったわ。中将さまも北の方さまも――やや子も」
――姫さま。
「わたし、恐ろしい女なのよ。生きていてはいけないの」
姫さま。
中将さまの四番目の御子がお生まれになったのは、一昨日です。同じように僧都が護摩を焚いておりました。この播磨守も安産を祈願して祭文を読み、禹歩を踏みました。御子さまも北の方さまもお健やかです。華やかに産養の宴をしておいでです。
姫さまは鉄輪をかぶって階から落ちたのです。
夢は夢です。
姫さまは頭を打った後、しきりにうわごとをおっしゃるので鬼が憑いたとお父上お母上がご心配なさっておいでですが。
鬼などこの世にございません。姫さまは、まだ悪い夢の中にいらっしゃるのです。
「この世に鬼がいると言ったのは陰陽師ではないの?」
はい。
陰陽師ども、皆でついた嘘です。従兄弟が法螺吹きなのも陰陽師がそのようなものだからかもしれません。
今日のわたしは一族に背き、何も嘘をつかないことにしたのです。
この安倍播磨守は晴明公の建てた邸で二十四年生きてまいりましたが、鬼や物の怪を祓うまじない、呪いを返す術などを会得しましたが、今までにただの一度も鬼も物の怪も見たことがありません。
皆、そういうことにしないと困るのでそう言っていただけです。
「困るとは何が?」
晴明公が式神を操り鬼を倒したことにしておかないと、我が家が立ち行かなくなりますので。
狐の子も一族に一人くらいは必要なので。
京の都は我らがいないと立ち行かなくなりますので。
この都は嘘と幻で動いております。
今日このたび、わたくしは、この世の全てが嘘であることを姫さまにお教えするためにまいりました。
さしあげてきた占いもまじないも全て出鱈目ですし、この世に鬼などおりませんし、姫さまはそのようなものではありません。
中将さまがあなたさまにささやいたことも全てまことではありません。
あの方があなたさまに送った文も全て。
北の方は先帝より縁組みを押しつけられただけ、情愛などなく顔を合わせても億劫なだけとでもおっしゃいましたか。
ただのつまらない浮気者であなたさまがお命を懸けるような大層な男ではない。
あなたさまはもうそんな男のことなど一瞬一刹那も考えるべきではない。
このわたしは狐の子ではなく術で蛙を殺したりはできませんが月を隠すなら今すぐにでもできます。
安倍播磨守をお信じください。あなたが信じてきたもの全て紛いもののまやかし、この世にあなたがそれほど苦しまなければならないことなど何もなかったのです。
歌もまじないも誦経も何もかもまやかしでありました。
姫君だからと邸の奥深くに籠もり、御簾や几帳でお姿を隠すことには何の意味もなかったのです。その、うっかり踏んでしまったら動けないほど長い御髪も重い衣も。
人が生きるのにそんなものは必要なかったのです。
月も星も計算の通りにしか動きませんが、人だけは何にでもなれるのです。
あなたさまは麗しく美しく尊き姫君で、あの――
――蓬莱の天女の如き御方です。
この世で最も麗しい、だから。
鬼になどならないでください。
清く麗しいことだけお考えになってください。何かもっと素晴らしいことを。
ええと――
蓬莱は西王母なる女神の領分。そこでは年中、桃の花が咲き、その甘い果実を食すると永遠の命を得ることができ。
金銀の枝を持つ木々に瑠璃や翡翠の宝珠が生り、麒麟や天人や天女が空を舞っているのです――
御簾の中はすっかり空気が籠もって息苦しく。
簀子に出るとさらさらと遣水のよい音がして。
そこに僧がいた。僧都のお供で来たのだろう、自分より若いが権律師で英才と聞く。清浄な白い法衣が女のように麗しい顔によく映える。
「禹歩を踏んでもないのに随分長く中にいたな、陰陽師」
「はあ、まあ」
京の都では何かあればとりあえず陰陽師のまじない、とりあえず僧都の修法だ。よく顔を合わせるがこちらの方が年上でも所詮、受領如き、とでも思われているのだろう。気安くなれない。陰陽師は従五位止まりの役人だが僧綱の一番上は二位大僧正。恐らく権律師は将来の大僧正だ。
「死に水、枕経は坊主の仕事だ。頭を打って見た目何ともなくとも、手足が痺れてへどを吐いてうわごとを言い出すと長くない。呂律が回っていなかったろう。馬鹿正直に返事をしても疲れるだけだぞ。経を誦してやればよい。陰陽師なら幣帛を掲げて祭文か」
顔つきは清げだが低く響く声には憐憫のかけらもない。
「流石、慣れておいでで。――仏道では鉄輪をかぶった女鬼をどうするのです?」
「別にどうも。掴みかかってくるなら少々押さえつけもするが。どのみち女は初めて契りを交わした男に背負われて三途の川を渡る。お前が何を語ろうが中将を待つしかない女だ」
「ろくなものじゃないな」
「お互い様だろう」
御仏の業も慈悲とはほど遠い。
現世に慈悲などあるものか。公卿も姫も受領も地下人も化野の露、鳥辺野の煙と消えるのみ。
――この律師さまは、死したる後は菩薩として叡山の奥の院でありがたい漆漬けの木乃伊になるそうだが。今は臈長けて麗しいお姿だがそのまま保存されるわけではあるまい。
摂関家に一昨日生まれた宮腹の御子は男の子だったが、さてどうなるやら。父親に瓜二つの光源氏になるのか、それとも親の業を嘆いて早々に仏門に入るのか。
このお若い律師さまはさぞ名高い公卿の係累なのだろうが、どんな憂き世のむなしさを悟って二十一で袈裟を着ることになったのか。
摂関家の御子が陰陽師になることだけはないのは確かだ。安倍家賀茂家ゆかりの算術のできる男でなければこればかりは。
自分だってなかなか憂き世のむなしさは感じるが、僧になってもどうせ葬儀や出産でまじないをするのに変わりはない。禹歩を踏むか護摩を焚くかだけの違いだ。
髻を結い烏帽子をかぶって浄衣を着るか、頭を剃って法衣と袈裟を着るかだけの違い。
「律師さまはまだお役目ですか?」
「これからだ。死穢を払い御魂を極楽浄土に導くは仏門の勤め、今は中休みだ。そちらは中将の湯殿に仕事があるだろう。乳飲み子を言祝ぐまじないはいくらあっても足りない」
「従兄弟がやってますよ。陰陽師は皆、係累です」
「では産養は? 祝宴だ、顔を出してそれらしく縁起のいいことを言っていれば酒や菓子が振る舞われるぞ」
「疲れた。おべっか使うのも面倒くさい。帰って寝る」
「素直だな」
「今日は嘘をつかない日なので。――鬼退治なんて狐の子がすればいいんだ。あいつだって晴明公の血筋なのだから」
ため息をついて顔を上げると。
もう白み始めた空に月が。
「有明の月だ」
そういえば暦に記した憶えがある。日の出より月の入りが遅く、明け方の空にまだ月がある。
「夜を徹してこの顛末。最近、昼に寝てばかりだ。宿直は僧の勤めとはいえ。――今日は嘘をつかない日だと? いつからいつが〝今日〟なのだ」
――十年ほど前は、計算の通りに月が出るのが楽しかった。夜更かしして星を数えていると「流石惣領、将来が楽しみだ」と褒められたものだ。
陰陽道の技は宇宙の全てを見るのだと。
誇らしく思ったときもあった。
「月とは、歌でも詠むのか」
律師の声ではしゃいだ心が冷えた。
姫君は御簾から出ない。いつだって邸の奥に籠もっている。
朝、早起きをして格子を開けて有明の月を見たりするだろうか。
夜中に簀子に出て月を仰いだりするだろうか。
自分は必死で月の満ち欠けを計算し、夜空を見上げて確かめもしていたが。ときには一族総出で先祖代々伝わる唐渡りの道具を駆使し、高さや方位を測ったりもするが。
だが良家の姫は何をするにも女房に手伝ってもらい、はしたないことなどしないと聞く。自分で口を利くことすらない。そもそも世間の人はさほど月の満ち欠けや高さが気になるものではないと。
彼女にとって月とは中将が歌に詠むものではないのか。
有明の月とは中将と一夜を明かした後に二人で見るものだったのでは。
彼のためでなければ彼女は一生、邸の階から降りようともしなかったのでは。
あの鉄輪は生まれて初めて彼女がした姫君らしからぬことだったのでは。
生まれて初めて御簾を出、几帳を蹴倒し、名家の深窓の姫をやめて何かになりたいと思った。
人を呪い人を殺したいと願った。
計算通りには動かない、人だけが持つ心で。
誰にも頼らず己の力で運命を変えようと。
自分を裏切った男とその妻だけでなく、赤子までも手にかけ、親も家も捨てて一人で闇夜に飛び出そうとした。
きっとその美しい髪も衣ももうどうでもよかった。
歌も文も偽りであったことなどとうの昔に知っていた。
身体が伴わなかっただけで、心ではもう人を殺めていた。
――慣れない美辞麗句、子供をあやすようななまなかな言葉でごまかしたりせず、邪悪な鬼と扱ってやるべきだったのでは。
本当のことなど一つも言わずに「皆、お前のせいで死んだのだ、この悪魔め」とでもなじって。
禹歩と祭文と人形で迎え撃ってやるべきだったのでは。
陰陽師なら。
育ちがよく見た目が麗しい姫君で、ほどなく死にゆく身の上が憐れだからと見くびっていたのでは。
憐れむふりをして結局、何も成し遂げられなかった無力な女と侮っていたのでは。
最期は清く美しくあってほしいなど、傲慢だったのでは。
所詮、少しばかり数を数えるのが早いだけが取り柄の若造。
晴明公の域にはほど遠い。
「――律師さまはさぞ女人にもてるのでしょうね」
「何だ突然。俗人はつまらないことを気にするのだな」
自分が美男子でないのを普段は取り立てて気にも留めていないが。
格好をつけるならせめて、美男に生まれていればよかった。和歌や物語を勉強していればよかった。的外れの頓珍漢にしてももう少し何とかならなかったのか。
現実など忘れさせるほどの詩情があればよかった。算術の才ではなく。
他の者ならもっと美しい夢を見せてやれたのではないか。
目の前の律師は女のように儚げで頭を丸めて法衣と袈裟をまとっていてすら月から降りてきた天人のような風情だ。寺ではさぞもてはやされているのだろう。きっと女にも。
「あなたが極楽往生を説けば女人は皆、浄土に行くのでしょうね」
つぶやく声が少しばかり恨みがましくなった。
中将に呪われた女でも彼なら。
「女に仏法を説いても無駄だ」
だが当人は短く吐き捨て、法衣の裾を引きずり妻戸をくぐってゆく。白の衣が立てる衣擦れの音は高く。
情も詩情もないのが御仏の大慈大悲というものなのか。