第九話:呪術の痕跡発見ならば、森カフェでのお茶のあとがふさわしい
紀緒志の肩を持つ気は誰にもないが。
しかし、認めるべきところは認めよう。
そう、紀緒志に連れて行かれた
オススメのベーカリーというもの、
なるほど!
出てくる品、
どれこもれも、
ホクホク、アツアツ、
かなりの美味だった。
だいいち、このパン屋、
喫茶店も兼ねていて。
用意されたテーブル席から見えるのは、
この店をぐるりと取り囲む、
実に気持ちのよい夏の森の緑色。
風を受けて、
サラサラと葉を揺らす枝々とか、
チロチロと清流を流す水路とか。
そんな景色を見ていた四人。
「ホテルに行く前に、
少し、この辺り、散歩してみましょうか?」
という忍の提案にも異論なく。
お茶を終えた後、
裏手の杣道を、
四人でのんびり、
歩いて回った。
森の緑に包まれながら、
「はあ」とか「ほう」とか「いいねえ」とか、
感嘆のコトバをあげ続けている四人。
と、紀緒志がふいに、勇作のほうを振り返る。
「あ、そうだ!お兄さんはロシア語科だとお聞きしましたが」
「ああ、そうだよ」
勇作は気のない返事を返す。
「やはり、ロシア文学とか、読まれるのですか?」
「うん、まぁね」
「いいですねー。
僕も文学、好きなんですよ。
そうそう!このあいだ、
面白いのを読みましたよ。
黒岩涙香の『八十万年後の世界』。
黒岩涙香が大好きなんですよ。
毎回、発想が凄いじゃないですか!
『巌窟王』とか『ああ無情』とか、
どこからああいうストーリーを
思いつくんでしょうね?」
『八十万年後の世界』も
『巌窟王』も
『ああ無情』も
黒岩涙香が翻訳したものであって
彼の創作ではないのだが──と、
勇作のみならず、
美鈴も忍も気づいていたが。
誰も紀緒志にツッコミを入れる気もなく、
林の風景を見て、
「はあ」とか「ほう」とか「いいねえ」とか
言い続けていた。
「そうだ!」
その雰囲気を気にすることもなく、
紀緒志がまた、唐突に声を上げた。
「お兄さん!きっとこの軽井沢にも、
ロシアから来ている方もたくさんいるんでしょうね。
この先にね、ロシア語のラクガキを
見つけたんですよ」
「え?」
その話には、勇作が興味を示したようだ。
「ロシア語のラクガキ?どこに?」
「すぐそこですよ。案内しますね」
紀緒志についていくと、
なるほど──
森の中にこしらえられた水路の暗渠の側石に、
なにやら、異国のアルファベットが複数、
赤い色のペンキで書き込まれている。
「ほら!」
紀緒志はそれを指さして言った。
「あらっぽいラクガキですから、
どこかのロシアの家族が避暑にきたときに、
その家庭のお子さんが、
イタズラ書きしたのかもですね!」
「・・・ふうむ」
勇作は、難しい顔をしてかがみ込み、
暗渠の脇に描かれていた
そのアルファベットの羅列を見つめた。
「・・・お兄ちゃん」
美鈴が、兄の背中に声をかける。
「どうしたの?」
「うん・・・ちょっとね」
「わかった!」
美鈴も、勇作の隣に、かがみこむ。
「もしかすると、これ、
ただのロシア語じゃないって言うんでしょ?」
勇作は、目をぱちくりとさせて美鈴を見た。
「あー。さすがだね。これだけ一緒に育ってきていると、
男女の差があるとはいえ、けっきょくは兄妹、
オレの考えてることって、
すっかりわかっちゃうんだね」
「へへー、凄いでしょ?」
褒められて、美鈴はニヤニヤする。
「え?え?どういうこと?」
後ろで、忍がきょとんとしている。
「まず──」
勇作は、アルファベットのほうを指さした。
「これは厳密にはロシア語じゃない。
グレゴール表記の古スラブ語だ」
「というと?」
忍も、興味を持って、二人の側に、かがみこむ。
ついていけなくて木偶のように突っ立っているのは紀緒志だけだ。
「現代のロシアの人は使わない文字ってことさ。
こういうものを書けるやつがいるとしたら、
考えられるのは、ふたつ。
ひとつは、相当に過去のロシア語に詳しい人物。
日本でいえば、平安時代くらいのコトバに通じている人、
学者とか、古い文献を読む
仕事をしている高位の聖職者とか」
勇作はそう言って、懐から手帳を取り出し、
書いてあるアルファベット群を正確にメモし始める。
「もうひとつは?」
すっかり興味を持った忍が、勇作に訊いた。
「もうひとつは・・・
日本でいえば、平安時代くらいの頃から、ずっと生きているやつ」
「え?」
美鈴と忍が、目を丸くして勇作の横顔を覗き込む。
その勇作の顔、
なにやら、いきいきと、輝き始めていた。
「あのう、お兄さん!そろそろ、ホテルに行かないと」
紀緒志が、おたおたと後ろから声をかけると、
メモを終えた勇作は、「ああ」と言って、
すくっと立ち上がった。
「美鈴。もしかすると、お前、
オレをとても面白い避暑地に連れてきてくれたのかもな」
勇作はそう言って、
古いスラブ文字が書かれた暗渠の向こう側に広がる、
鬱蒼とした森の奥のほうを、じっと見つめた。