第七話:山風やさしき大正の軽井沢
さて、夏の太陽はまだまだ高い、
午後の二時すぎに。
汽車は速度をおとし、
軽井沢駅のホームで停止する。
客貨の扉が開き、
ぞろぞろと出てきた旅行客たちと一緒に、
稲井の兄妹も、汽車から降りた。
暑い盛りの時刻のはずだが、
なるほど、これだけの高地にくれば、
森の樹々の合間を抜けてくる風も、
いちいち肌にとても涼しい。
ひんやり、どこか、気持ちいい。
なにより、
駅から見渡せる夏の山々の緑色が、
埃まみれの東京から出てきた目には、
とても、やさしく、映るのだ。
「どう?軽井沢の第一印象は?気に入りそう?」
美鈴が勇作の顔を見上げて訊いてくる。
「うーん」
勇作は、紺の長着の間に手をつっこみ、
左胸の辺りをぼりぼりと掻いてから、
「そうだね。正直、風がいいねえ。
こりゃ夜はよく眠れそうだな。
あと、木陰で本を読むなんて、
ここでは気持ちよさそうだ」
「おお!珍しい!
お兄ちゃんの口から
そんな前向きなコトバが出るなんて」
「本を読める環境ならオレは歓迎さ。
でも、残念だな。こういうことなら、
家から読み終えていない
本をどっさり持ってくればよかった。
しっかりと時間をかけて翻訳したい本もあったのに」
「ああ、それなら!」
美鈴が、汽車から更に降りてきた
別の旅行客の集団を目で示し
「外国の本が必要なら、
外国の人たちに声をかけて、
いろいろ、借りてみれば?」
勇作も振り返ってみると。
なるほど。
あとから汽車から降りてきた集団は、
ゴルフクラブを担いだ白人紳士たちや、
それについてくる、
これまた白人婦人たち。
それにくっついて、
きゃあきゃあとはしゃぐ
白人の子供たち。
そこだけ、まるで欧州か北米のような雰囲気だ。
「この町はね、
日本に棲んでいる外国の方たちの、
夏の逗留先としても有名なの。
探してみれば、お兄ちゃんの専攻の
ロシア語の本を持っている人も
見つかるんじゃない?」
「へえ、なるほどねえ」
その時、ホームの向こうから、
「みすずちゃーん!」
という、高い少女の声と
「み・す・ず・さーん!」
という、甘ったるい男性の声が、
重なって聞こえてきた。
見れば、改札口の向こうから、
二人組の男女が、手を振っている。
白いワンピースに、
つばの広い日よけ帽をかぶった、
美鈴と同い年と思われる、
ボーイッシュなボブヘアの女の子と、
その隣で一緒に手を振っているのは、
やけにキザったらしい
白いタキシードを昼間から着こんだ、
美鈴よりは年上、
勇作とは同い年か、
ひとつくらい下か、
それくらいの若い男性だった。
「あ、きたきた!忍ちゃーん!」
美鈴も、元気いっぱいに、手を振り返す。
「あのう──」
勇作は、シャツの間に手を入れて
鎖骨のあたりをぽりぽりと掻きながら、
不機嫌そうに美鈴に訊いた。
「なんだ、あれは?」
「言ったでしょ?私の友達が迎えに来てくれるはずって。
あれが、女子師範学校で一緒の組にいる、
黒沢忍ちゃん。
ご両親のホテルに案内してくれるはずよ」
「いや、ちがうちがう」
勇作は首を振り、
「女の子のほうはいいんだが、
その隣にいるあのひょろ長くて白いのは、なんだ?」
「あーー」
美鈴は少し、バツが悪そうな顔になり、
「忍ちゃんのお兄ちゃんの、、、ええと、
なんとかいう名前の人」
「え?お前も初対面なのか?」
「ううん。東京で何度も会ってる人」
「名前、覚えていないのか?」
「だって──わたしは忍ちゃんの遊び友達なんだから、
別に、忍ちゃんのお兄さんの名前なんて
覚えなくていいでしょ?
──と、私も思っていたのだけど、
──東京にいたときから、あんな感じで、
なぜか、忍ちゃんと私が遊ぼうと待ち合わせると、
いっつも、くっついてくるの」
「なるほどね・・・」
勇作は、ため息をついた。
「これが、東京で待ち合わせなかった理由か」
「だって、勇作お兄ちゃんだって、イヤでしょ?
あんなキザったらしい人と私が一緒に列車に乗ったなんて、
どこかでウワサになってお父様の耳に入ったら、余計なハナシに」
「うん。いい配慮だったな。
いい配慮だったとは、思うけど・・・」
勇作は肩をすくめる。
「兄として、いやな予感を話そうか。
あいつ、たぶん、お前に会いたくてついてきている、
──という、気がする」
「あーー。やっぱり?お兄ちゃんもそう思う?」
「お前のほうに気がないなら、いいんだけど、
ここに滞在している間、油断するなよ」
「だから!前から忍ちゃんのご実家の
この町にはずっと来たかったけど、
勇作お兄ちゃんと一緒に来られる、
この機会を待ってたわけよ」
「え?どういうこと?」
「つまり。
勇作お兄ちゃんと、あの人とで、
男どうしで仲良くやってね。お願いね」
そう言うなり、美鈴はすたすたと、
改札口のほうに歩きだす。
「あー。そういうこと。
さっそく、東京に帰りたくなってきたな・・・」
勇作は、首を振りながら、
兄妹二人分の旅行鞄を持ち上げ、
妹の後を追った。
じっと、そんな兄妹を、
夏に似合わない真っ黒な帽子と真っ黒な洋服、
そして黒メガネをかけた年男が、
新聞を立ち読みしているフリをしながら、
背後からじっと、見つめていた。




