第五話:東京妖怪「オヤカタさま」
通称「バケモノ屋敷」の
別亭に通された稲井勇作。
昔のこの屋敷の持ち主には、
茶の趣味があったのでございましょう。
間違いなくこの別亭、
茶室として建てられたもののようで。
四畳一間の狭い建物に、
風流な丸窓が開けられており、
そこから夜の庭が
泉水を含め、
見えるようになっておりました。
そんな別亭の、
月灯りだけの暗闇の中で。
勇作はきちんと背筋を伸ばし、
目を閉じ、正座をし、
礼儀正しく待っている。
その座り方の、涼やかなこと!
いつもと雰囲気がずいぶん違う!
父親や妹と一緒にいる時とは、
まるで別人のように、
落ち着き、まことに、凛として。
妹が今の兄の姿を見たら、
普段とのあまりの違いに
仰天することでございましょう。
尤も、勇作は、
彼らの「つきあい」のことを、
これまで妹に話したことは一切ない。
もとより話してもムダであろうと。
(だって、妹にだって、
彼らのことは視えないだろうからさ。
彼らのほうからわざわざ姿を
見えるようにしてくれた時は別だが。
そんなのは、
人間をオドロかそうと
している時くらいだろうけど)
ふいに、
茶室の行灯が、
ひとりでに灯る。
勇作が、
正座をしたまま、
深々とお辞儀をする。
すると
とん、とん、
と可愛らしい足音を立て、
5歳くらいの、
おかっぱ頭の男の子が、
茶室に上がってきて、
勇作と向き合い、
ちょこんと正座をする。
「会えてうれしいぞ、勇作」
「こんな時分に申し訳ございません」
「よいのだ。どのみち我らは夜は遅い」
「たしかに、さようでしたね」
勇作は
愉快そうに笑って、顔を上げた。
5歳程度のその男の子は、
しかし見た目の年齢には
ふさわしくない峻とした威厳を
目と口元とに漂わせ、
勇作のほうを
じっと、見つめていた。
「なんぞ、変わったことはないか?」
「はい。──あ、
ひとつ思い出したことが」
「とは?」
「はい。実は今日、
御茶ノ水の病院へ行ったのですが。
あそこによろしくないモノが
憑いておりました。
来る患者から『気』を吸っている、
というようなことを言っておりまして。
どうひいき目に見ても、
あまり素行の
よくない奴ではないかと」
「ああ」
男の子は──いや、
東京妖怪の頭目の一人である、
通称「オヤカタさま」は、
それを聞いて少し表情を変える。
「心当たりが、少し、ある。
ここ半年ほど、
まったくわしに
挨拶をよこさない奴がおってな。
たしかに、あのあたりの町に
住んでいるヤツだ。
気になる。調べてみよう」
「お願いします。
面倒ごとを持ち込んですいません」
「よいのだ。
お前は本当に
我らモノノケのことが
よく見えている。
そうやっていろいろ、
教えてくれて、
ほんとうに助かるぞ。
なにせ、世の中、
大きく変わった」
「はい」
「我らも、
新しい世の中には
ついていかねばならん。
ところが、それを諦めて、
人間に悪さをする輩もいる。
いや、オドロかすくらいは、
よいと思っておる。
人間をからかうのは、
我らの昔からの遊戯。
禁止するわけにもいくまい。
しかし──見過ごせない
動きをする輩も多い。
わかるな。お前のような男は、
わしにとっても、助かるのだ」
「ありがとうございます。
でも──」
「ん?でも、とは?」
勇作は口元に、
皮肉めいた笑みを少し浮かべて言った。
「オヤカタさまのことだ。
そう私のことをヨイショしておいて、
けっきょく、私の他にも、何人か、
こういう人間を
使いこなしているんでしょうね」
「ふふふ」
5歳児らしいかわいらしい声で、
オヤカタさまはコロコロと笑った。
「まあな。
いつでもお前の替わりに
なるような人間を、
もう数名、面倒を見ておる。
だが勇作、お前のその、
率直なところが、わしは好きだ。
アタマの切れるところもな」
「恐れ入ります」
「それで?
こんな夜更けに
訪ねてきた用件はなんだ?
まさか告げ口のためだけに
お前が足を運んできた
わけもあるまい」
「東京をしばらく
離れるかもしれず、
そのご挨拶にと」
「なんと!それは少し困るな。
何かあったときには、
お前が近くにいてくれると
助かるのだが」
「それほど長い留守にはし
ないつもりです。
でも、あの妹が──あの妹でして」
「なんとなく、事情はわかった。
妹に引っ張られて、
断れずにどこかに行くのだな」
「わたしの療養という、
よくわからない理由で、
妹と軽井沢に行きます」
「その挨拶にわざわざ?
殊勝なことだ。
できれば早く帰ってほしいのだが、
お前もたまには、
ゆっくり休むのもよかろう」
「そのことで、ひとつ、お願いが」
「ほう?なんだ?」
「軽井沢があるのは──つまり、
かつての信濃国。
そうとうな妖怪があまた、
住んでいる国と聞きます。
そして、私は、そのう──
いやでも彼らのことが
視えてしまいますし。
それに東京でのこととはいえ──
一部の妖怪からは嫌われるような
汚れ仕事をやったことも
何度かあります」
「そういうのは、
わしが頼んだことだ。
迷惑をかける」
オヤカタさまはにこりと笑った。
「ああそうか。
勇作、わかったぞ。
旅先の安全を心配しておるのだな?」
「はい──私自身のこともそうですが、
妹に何かあってはならないと──
出来の悪い妹ですが、
出来の悪いだけに、
妹のことが心配で」
「信濃の妖怪の頭目たちとは面識がある。
わしから一筆、信濃の各方面に
手紙を出しておこう。
稲井勇作と
美鈴の兄妹が、
信濃の世話になるが、
くれぐれも、彼らに何かないよう
気を付けてくれ、とな」
「そうしていただけると助かります。
本当に、ありがとうございます」
勇作は深々と、アタマを下げた。
「それにしても──信濃か」
「いかがなされました、
オヤカタさま?」
「いや──実は、
あの辺りについて、
よからぬ知らせを
いくつか受けておる。
勇作、
わしが手紙を書いて睨みを
きかせれば、
信濃のモノノケたちも
お前らには手を出すまい。
だが──どうも、
信濃あたりで最近、
外国からモノノケが
入っているという話を聞いてな」
「外国から?」
「旧知のモノノケであれば
我らの睨みもきく。
だが海の向こうからきた
モノノケとなると、
我らにも、正体はわからない。
勇作、
いちおうだが、
気を抜くのではないぞ。
もし何か、まずいことがあったら」
オヤカタさまは、
ひらりと、
傍にあった筆と硯を手に取った。
「・・・ここの神社に行き、
オサキという名の妖怪を
呼び出すとよい。
信濃にいるモノノケの頭目級の中で、
特に、信頼のできるモノ。
いささか態度は冷たい相手だがな」
「ありがとうございます」
「しかし勇作、
万一の時は、
お前が妹を守るのだぞ。
その時は、しっかりとな」
「はい」
勇作は、
いまいちど、深く平伏した。
そこで、またひとりでに、
すうっと行灯の光が消え、
丸窓から差し込む月の光が、
いつのまにか茶室に
また一人になっている勇作の横顔を、
優雅に照らし出していた。