第三話:兄と妹、それを見守る陸軍大佐
その夜の、稲井邸に、
目を移してみましょう。
こちらが、帝国軍人として
日露戦争で大活躍した稲井大佐のお屋敷。
シベリアで立派な統率力を見せている
長兄の大活躍のこともあり。
かつての平屋の武家屋敷に増築を行い、
今はモダンな和洋合体型の、
二階建て邸宅となっておりました。
その二階の隅にある、畳敷の和室。
床の間には「先祖が戊辰戦争の時に使った」という
大振りの槍が飾ってあり。
その床の間の槍を背後に、
筋骨隆々とした初老の男が、
灰色の和装に身を包み、
いかにも士族出身らしく、
座布団を敷かぬままに
折り目正しく正座をし、
目の前に座っている
勇作と美鈴を
睨みつけていたのでした。
こちらが、稲井大佐。
勇作と美鈴の
お父上に、ござります。
「フム、そうか」
美鈴からの報告を受けた稲井大佐、
気難しげにその眉をひそめ、
キセルを煙草盆に戻してから、
隆々としたその腕を組み、
「田舎での療養が必要と、
医者は言ったのだな」
「はい」
今はゆったりとした
赤い浴衣姿になっている美鈴も、
このような場での立ち振る舞い、
軍人の娘として、なるほど、
なかなか躾られているもの。
背筋をピンと伸ばした行儀のよい正座をし、
ハキハキとした、受け応え。
猫背でこじんまりと
正座している隣の兄とは、
ここでも、まるで、対照的。
「そうか。
まあ、ちょうど勇作の学校も
夏休みの季節だ。
医者の言う通り、
少し田舎の空気のよいところに
出してやるのも、
こいつにはよいかもしれんな」
「あのう──あのう──お父さん」
勇作が、
小学校でイタズラを叱られている男児のように、
肩身を小さくしながら、そっと挙手をする。
「言っちゃなんですけどね──
あの医者──たぶん、そういうことを、
思いつきで言ってるだけだと思いますよ」
ギロリ、と父に一瞥された瞬間、
勇作は、そっと手を下ろす。
「それについてなのですが、お父様」
美鈴が、明るい声で喋り始めた。
「わたしに、良い案があります」
「美鈴?」
イヤな予感がした勇作、
そっと隣から小突いたが、
美鈴は話をやめなかった。
「女学校の私の親友のご実家が、
長野の軽井沢で
西洋風のホテルを経営しておりまして」
「美鈴──あれ?
美鈴?美鈴さん?」
「もし、私の兄の、
田舎での療養ということであれば、
ぜひホテルに迎えて、協力したいと」
「えーっと、美鈴?」
「ほお──それはかたじけない話だ。
いや、まことにありがたい申し出だ!」
稲井大佐は腕を組むのをやめ、
うんうんと、大きく頷いた。
「私達の女学校も、
ちょうど夏休みに入ります。
親友の帰省と一緒に、
私も兄を連れて行って、
兄の療養を私も見守りたいと
思っておりまして。
すべて、親友の実家の
ホテルであれば、安心かと。
いかがでしょう、お父様?」
勇作は、
父のほうに向きなおり、
おそるおそる口を開いた。
「あのう、お父さん。
これは、よーく考えて答えてくださいね。
たぶんですが、この子は、
単に自分が軽井沢旅行をしてみたいから・・・」
「いや、よくぞ言った美鈴!」
稲井大佐は、ポンと膝を叩いた。
「お前がついていって、
こいつを見張ってくれているなら、
わしも安心だ!
ぜひ、そうしよう。
滞在費については、
きちんと工面するから、
その友だちと相談してきなさい。
それから、相手のご実家の
お父様の名前を教えてくれ。
わしからも一筆、書いておかねばな」
「ありがとうございます」
美鈴は深々と、お辞儀をした。
「勇作、こういう次第だ。
美鈴が全部手配をしてくれるから、
お前は軽井沢に行って気分を入れ替え、
秋には大学に復帰できるように準備なさい!
いい妹をもってお前は
幸せだと思わなくちゃいかんぞ!」
「はあ──幸せですよ。
ええ──幸せです。
そう自分に言い聞かせていないと、
振り回されっぱなしで
気持ちが萎えてしまいますからね。
でもねえ、あのう──
お父さんもまったく、ほんとに、もう、
甘いですよ、毎度毎度──」
「なんだと?」
「いえ、なんでもないです。
それにしても美鈴のやつ、
どんどん母さんに似てきましたよね」
勇作としては
イヤミのつもりだったが、
稲井大佐は勘違いしたらしく。
「そうか、勇作にもそう見えるか。
そうだよな、うむ」
と妙に上機嫌になってしまった。
「話はこれで、終わりですか?
ちょっと今宵、
出かける用事がありまして。
そいじゃ、失礼を」
ふいに勇作は
そう言ってお辞儀をすると立ち上がり、
スタスタと和室から
出て行ってしまった。
「ちょっと、お兄ちゃん?お兄ちゃん?
──もう、話はまだ終わってないのに」
「放っておけ。軽井沢の話は、
わしとお前でとりまとめればいい」
「それにしても」
美鈴は、
ちょこんと、赤い浴衣の上に乗った
その小さな首を傾げた。
「お兄ちゃんって、
あんな感じで、
よく夜中にフラリと
どこかへ出かけるけど、
いったい、どこに
行っているのかしら?」