第二話:診察室に憑くモノとはいったい?
「フム。名前は、稲井勇作クン、ね」
診察室にて、待っていたのは
でっぷり太って、禿げた医者。
いかにも「ドイツにおりました」と
アピールするためかのような、
キザな片メガネをいじりつつ、
問診票を読み始め。
「東京外語語学校ロシア語科──
へえ、これは立派だ!優秀なんだねえ!」
それに対して座っている
稲井勇作のほうはといえば。
ドイツの本がぎっしり詰まった書棚やら、
なんだかブキミな骸骨模型やら、
そんなこんな、なにやらを、
どうにもこうにも、
何か落ち着かない様子で。
キョロキョロ、キョロキョロと、
見まわしていた。
「何を勉強しているのかね?
やはり、ロシア語といえば、
文学かね?
トルストイかね?
チェーホフかね?」
「はあ。今は、
ブリューソフを研究しています」
「誰かね、それは?」
「モスクワのオカルト愛好家たちと
降霊術の研究をしながら、
そこで得たインスピレーションを
文章にまとめ続けた詩人です」
どうもこの青年と
文学の話をしたところで、
あまりにマニアックで
ついていけなさそうだ。。
そう判断したその医師は、
語りを途切れさせないのも、
だいじな医者のテクニックと、
すかさず、話題を変えてしまう。
「しかし、今はロシアも大変な時。
外務省からも軍からも、
ロシア語ができる人材なら、
引く手あまたでしょう」
「私自身はレーニンの暴れぶりを見て、
ロシア文学なんぞを専攻したこと、
すっかり後悔してますがね」
「ノイローゼで休学中。
なるほど。
早く卒業してお国のために尽くしたいので、
病気を治したいというのだね」
「お国のためにとか大層なことは
考えたことないですが・・・」
「しかし、ノイローゼには困っている、と」
「私がノイローゼだと
言い張っているのは
父と兄と妹だけですよ」
「ふむ。君は何人家族?」
「父と兄と私と妹の四人家族です。
母を早くに亡くしたので」
「ということは、
君以外のご家族は全員、
君をノイローゼだと
思っているわけだ」
「あ──」
一本取られたな、
と勇作は眉をひそめる。
「しかし、カラダには特に
問題がなさそうだな──ム?
勇作クン、どうしたね?」
問診票から顔を上げたハゲの医師、
勇作の様子を見て
ギョッとする
勇作は、
椅子からかすかに腰を上げ、
どこか書棚の上のほう、
ほとんど天井に近いあたりの、
壁の一点を、
じーーっと、
凝視し始めたのだ。
医師も、同じほうを見た。
だが、そこには、何もない。
あえて言えば、
この建物に越してきた時からある、
黒いシミがある程度だが。
しかしそれも、ちっぽけな、
ありふれたシミにすぎない。
「どうか──したのかね?」
もう一度、ハゲ頭の医師は訊いてみる。
だが勇作は、
医師のほうをまったく無視して、
壁のシミのほうにむかって、
こう、囁きかける。
「なにをしてるんだ、お前?
──いや、なにをしてるんだよ?
こんなところで?」
あたかも、
壁のシミのところに
何かがいるかのように、
勇作は語り続ける。
医師は、もう一度、
そちらのほうを見る。
だが、やはり、
そこには何もない。
何度目をぱちくりさせても、
やはり、そこには、
何もない。
それでも勇作は、
こう続ける。
「あのさ──オレは親切だから、
言ってやるけどさ。
この医者に憑りついていても、
あんまり面白いことには
ならないと思うけど。
──え?
──いや、それはマズいだろ?
ここに来る患者は
ロクな『気』を持っていない
半病人ばかりだぜ。
ま、オレも言えたクチじゃないけど。
──だから吸収してるって
──もともと弱っている
人間の気なんか食ったら、
ヘタな場合、その人間、死ぬぜ?
──それはそれで構わない?
なるほどね、ははあ、
お前、そういう系統のヤツか。
もういい、わかった。
オヤカタさまに
言いつけておいてやるよ。
オレは親切だからさ」
そしてふいに勇作は、
医師のほうに目を戻し、
「あ、すいません。
どこまで話していましたっけ?」
「君はカラダはどこも悪くなさそうだ、
と言ったのだが」
ハゲ頭の医師は首を振り。
「ココロの健康は──そうとうに、
マズそうだねえ」
「はあ?」
*****
診察室から出てきた勇作。
それを、待合室に座って
熱心に小説を読んでいた美鈴が、
ぱあっと明るい笑顔を向けて、出迎える。
「あ!お兄ちゃん!
終わったのね?診察どうだった?」
「ここはダメだな。
オレの頭蓋骨の寸法を測って
なんだかんだ言ってきた。
メスメリズム(※)ってやつだな。
ぜんぜん話は覚えてないけど。
ん?お前、何を読んでたの?」
「ゴーゴリの『鼻』。
お兄ちゃんのマネをして、
ロシア文学を読んでいるの」
「『鼻』かあ。『鼻』ねえ」
「なに?
ゴーゴリを読んじゃいけない?」
「『鼻』はちょっと苦手なんだよね
──そのう、妖怪モノっぽく見えちゃって。
顔から離れた鼻が
勝手にぺテルブルクの
あちこちに出てくるハナシなんて
──まるで妖怪バナシだ」
「妖怪バナシっぽい文学だと
何か気になるの?」
「いやいや、なんでもない!
ただゴーゴリって生まれはウクライナだろ?
ああいう発想の文学を読むと、
ウクライナってのも
妖怪のほうは相当、、、
いるんだろうなぁって」
「???」
そのとき、診察室の戸が開き、
さきほどのハゲ頭の医師が顔を出す。
「妹さん?
あなた、稲井勇作クンの
妹さんかね?」
「あ、はい。稲井美鈴と申します」
「ちょっと、
お兄さんのことで話したいことが。
ちょっと、来てくれる?」
「あ、はい!」
美鈴は、勇作を
待合室に残したまま、
診察室に入って行く。
「・・・オレに話しても
ムダと思って妹をつかまえやがった。
何を吹き込んでやがるんだか。
イヤな予感しかしないな──」
混雑した待合室の中で、
勇作は大きくアクビをし、
そう、ひとりごちるのであった。
※注:メスメリズムとは、19世紀から流行り出した催眠療法、およびそれと結びついたもの。「動物磁気」なるものを測定しようとしたり、頭蓋骨のカタチと精神類型の関連性を説いたり、現代では「擬似科学」のひとつとみなされがちであるが、一時期は立派な学説として世界を席巻した