第十一話:ロシア妖怪とのワイン二人飲み会(前半戦)
日が暮れて、
風がますます心地よい、
軽井沢の夏の夜が、めぐってきた。
着飾った外国人逗留者たちや、
モダンな恰好の大正紳士淑女たちでにぎわう、
ホテルのメインダイニングで、
稲井兄妹は、
黒澤兄妹およびその父君と一緒に、
洋風のディナーをとっていた。
食事は、なるほど、素晴らしい!
洋風のニジマスのムニエルに、
日本人の好みにあわせて
醤油をかけたもの。
フランス風のコンソメスープ。
そしてほっくりと膨らんだパン。
デザートにはレモンのパイが配られた。
食事をとりながら話をしてみると、
なるほど、この黒澤家というのは、
大正好景気に乗っかって、
一気に事業を拡大した、なかなかの資産家。
この軽井沢一帯の開発に今はご執心で、
凄まじい勢いで、
逗留客や外国人客向けのサービスを
拡げている最中らしい。
そして、
長男の紀緒志はその跡取りとして、
父親からとにかく目をかけられ、
育てられていることがわかった。
「欧州の戦争が終わったら、
海外修業をさせたいのですよ!この息子にはね」
自慢たっぷりに話す父君の話に、
「夢がありますねー。いいなあ」
と、美鈴は頷いていたが──
勇作はといえば。
黙って食事を続けながら、
部屋から持ってきたプーシキンの本を傍らに置き、
食堂の中で、この本に気づくモノがいないかを、
じっと、窺っている様子だった。
*****
ディナーの時間は、無事終わり。
黒澤一家と稲井兄妹はロビーで別れた。
そのまま美鈴は二階に戻ろうとしたが、
勇作はその妹から離れ、
食堂の方向にまた戻っていく。
「あれ?お兄ちゃん、どこへ行くの?」
美鈴が階段の上から振り返り、声をかけた。
「庭にオープンテラスのバーがあったろ?
あそこで少し飲んでから、部屋に戻って寝るわ」
「あんまり飲みすぎちゃダメよ!
じゃ、また明日ね!おやすみ」
美鈴はそのまま、
トントンと足音も軽やかに、
二階に上がっていった。
いっぽうの勇作は。
小脇に書物を抱えたまま、
庭のオープンテラス席に向かい、
ウェイターの案内で、
テーブルのうちの一つについた。
「何にいたしましょうか?」
ウェイターが持ってきた品書きを見て、
「そうだね──赤玉ポートワインがあるんだね。
それをボトルで。
ロックで飲みたいので、
氷入りのグラスも持ってきてくれ」
「かしこまりました」
「グラスは二つ、頼むよ」
「え? ああ、はい!」
ウェイターは、
(この書生さん、
誰かとここで待ち合わせているのかな?)
と思いつつ、
まもなく、ポートワインのボトルと、
氷を入れたグラス二つを持って、戻ってきた。
「ありがとう」
「では、ごゆっくり」
ウェイターが去った後。
勇作は小脇に抱えていたプーシキンの本を、
表紙が見えやすいようにテーブルに置き、
それから自分のグラスにポートワインを注いで、
ちびちびと飲みながら、待つ。
しばらくして・・・。
すうっと、勇作の向かいの椅子に、
金髪で青い目の、すらりと背の高い、
透き通るような白い肌の女性が、座った。
ノースリーブの真っ白なドレスを着て、
肩から両腕までを露わにしている。
いやしかし、
その肌の、なんとあまりに、白いこと!
いささか──もはや
人間ばなれした白さ、美しさと言うべきか。
だがその目は、ツンと鋭い視線を勇作に投げかけている。
なんとも、気の強そうな女性に見える。
見た目の年齢は、勇作と同じか、
数歳上というところだろうか。
「・・・Добрый вечер」
勇作は、女性にそう、声をかけた。
「はぁ?ふさげないでよ。
あたしの日本語能力をワザと試すみたいに、
『なになにで候』なんて
コムズカしい書き置きを残したくせに。
あたしが日本語を喋れることは
もう知ってるんでしょ?」
実に流暢な日本語で、女性はそう言い返してきた。
「それもそうだ。
でもさ、東京外国語学校なんかで
せっかくロシア語科にいるんだ。
たまには使わせてくれよ」
「あ、そう。
そういうなら、
ハッキリ言っておくけど、
あんたのロシア語、発音はひどいよ。
ロシア語を日本で勉強しているだけで、
ロシアに行ったことなんかないんでしょ?」
「参ったね──じゃ、日本語で話そうか」
「どうでもいいけど、
あたしの本を返してくれる?」
「ああ、イタズラして、悪かった」
勇作は、テーブルの上のプーシキンの本を、
そっと、女性のほうに押し出した。
女性はその本をガッと掴むと、
「そいじゃ、おやすみなさい」
と、立ち上がりかけた。
「ちょっと待ちなよ。
ポートワイン、飲んで行かないか?」
「なにそれ?」
「サントリーっていう
日本の会社が出しているワインだよ。
けっこう効くんだよ。度数が高くてね。
あんた──酒、好きなんじゃないか?」
「うーん──」
気丈そうな白人女性は、
あきらかに、ワインと聞いて、迷っている。
やがて。
そっと、椅子に座りなおした。
「いいわ。
日本のワインなんて興味なかったけど、
これもいい機会かも。注いでよ」
「はいはい」
勇作は、女性の前に置かれたグラスに、
大正時代の大ヒット国産ワイン、
赤玉ポートワインを注いでやった。
「はぁ?あんたたち、ワインに氷入れて飲むの?
イヤな習慣ねーー。・・・うわ、甘い匂い!!」
「まあいいからヒトクチ飲めよ。
日本ではいい酒に出会えないと思い込んでるんだろ」
近くを通りすぎていったウェイターが、
テーブルに向き合って話している勇作を、
気味悪そうに、振り返り見る。
そう、勇作以外の、この場にいる人間には、
この女性のことは視えていないのだ。
「あんたが」
白人女性は、気丈そうなその強い目を
ギッと勇作の方に向けて、言った。
「わたしの正体をどこまで見破っているのか、
教えてよ。わたしがロシアから来た妖怪だってことは、
もうお気づきのようだけど。他には?」
「探偵ごっこをさせる気かい?」
「あたしの部屋を探り当てて忍び込むなんて、
探偵ごっこを始めたのは、あんたのほうでしょ?
どこまで知っているか、言ってみなよ。
回答次第によっては、この日本ワイン、
一気飲みしてやるわ」
「なるほどねえ。面白いかもね。それじゃ」
勇作はナプキンで口を軽く拭き、
あらたまって背筋を伸ばしてから、言った。
「水の妖怪ルサールカだろ?」
白人女性(の妖怪)の表情が、たちまち固まった。
「それに、南ロシアの出身。
サラトフかサマーラかアストラハンか、
まぁ、あの辺り。
ボルシェビキ革命の混乱で、東へ東へ逃げてきて。
誰かと一緒に、騒ぎが収まるまで
外国に隠れていようと思って、日本を選んだ。
そんなところかな。
何か間違いはあったか?」
「──いいえ。ぜんぶご名答。
へえ──やるじゃない」
「そいつは、どうも」
やおら、その女性はグラスを取り、
ぐいっと一気にワインを飲みほした。
「うわー。。。甘い。
でも、まぁ、いいんじゃない?
今夜は付き合うことにするわ。
さ、おかわり、注いでよ」
「はいはい」
勇作は、女性のグラスに、
二杯目のポートワインを注いでやった。




