第一話:「待合室にいるイナイさま」
時は大正。
花の帝都は。
空も夏めく、
よき時候。
ここは東京、御茶ノ水。
西欧風の、ビルディング。
その2階の、待合室で。
「イナイさま!イナイさま!
いらっしゃいますかぁ?」
受付嬢の声が、鳴り響く。
椅子にずらりと腰かけていた、
和装・洋装の紳士たち。
ギョッとそれぞれ目を見開き、
ひょいと顔を、上げたのでした。
いやはや、さてはて?
今の呼びかけは、なんぞや?
「イナイがいるか」とはナニゴトぞ?
・・・この時代。
欧州大戦はますます激化。
さらには隣国、ロシアでは、
ボリシェヴィキなる連中の、
権謀術数、渦を巻き。
平家物語ではないけれど、
「赤軍」「白軍」ふたつに分かれ、
大内戦になっている、
とか、なんとか。
しかしこちら、東京は、
それらの戦禍にも、まきこまれず。
むしろ輸出に支えられ、
まこと空前の好景気!
ただしこちら、御茶ノ水、
洋風レンガ棟にしつらえられた、
薄暗い医院の、待合室は、
表通りの好景気など
どこ吹く風の話やら。
何とも不健康そうな、
何とも不機嫌そうな、
むっつりとした大正紳士たちの、
雁首が揃っているのでした。
そんな陰気な、待合室に。
もう一度響いた、
受付嬢のコトバ。
「あのう──イナイさま?
イナイさま!
いらっしゃいませんかぁ?」
はてさて、まただ。
紳士たちは待合室を
キョロキョロ、キョロキョロと
見回してしまう。
「イナイがいないか」とは、
ナニゴトなのか?
そんな中に、唐突に。
「はぁい!はぁい!
ここに、います!
私たち、イナイです!」
凛とした若い女性の声が、
部屋にぱあっと響きわたった。
そしてその声はこう続く。
「ちょっと!もう!お兄ちゃん!
お兄ちゃんが診察されるんだから、
お兄ちゃんが返事しないと、
ダメじゃない!」
言いながらすうっと、
椅子から立ち上がったのは。
よくもわるくも、
立ち上がっただけで、
部屋の空気を華やかに、
カラリと変えてしまった、
少女の姿。
さて、「よくも」と
さきほど言ったのは、
そのスッキリ整った目鼻だちと、
赤みのさした健康そうな頬。
年齢は17か18というところ。
服装は爽やかな薄紫の着物に、
お腹から下は
深紫の行灯袴、
足にはよく磨かれた黒革靴という、
いかにも女学生というところ。
細身でスラリとした、その立ち姿が、
まさに夏の花のよう。
ああ、まったく、これは、
「可憐」というコトバがふさわしい。
そして「わるくも」と言ったのは、
この時代にはまだ珍しいその髪型。
黒髪にウェーブをかけ、
左右非対称に両側に流し、
ポマードでふんわりとふくらませ、
耳を見せないようにした、
なんともモダンな、
「耳かくし」と呼ばれる髪型で。
さらにその頭には、
とき色の蝶々の髪飾りをつけ
ワンポイントにしているという、
なんともこの時代でいう
「デコった」オシャレぶり!
(フン、あと数年もしたら
「選挙権がどうこう」とか言い始める、
いわゆる「新しい女」になりそうな娘だ)
待合室の、頭の古い紳士の幾人かは、
そう思い眉をひそめたご様子。
もっとも、眉をひそめたというのは、
混み合い座っている紳士たちの中の、
ほんの二人か三人のこと。
たいていの紳士は、
(おや、こんな神経病の
医院には似合わない、
かわいらしい娘だ)
と好印象を持ったようでした。
「さあ、勇作お兄ちゃん!立って!」
少女に引かれて
ようやくのっそり、
立ち上がったのは、
なるほど、
少女にとても顔立ちが似ている男性。
いやしかし、
これが兄妹だとしたら、
なんと対照的なことか!
こちらもその、目鼻立ちが、
クッキリとした、日本人離れ。
しかしその男の放つオーラといえば、
少女とまるで、正反対。
顔色は、どこか、青白く、
目はどんよりと、覇気がなく、
立ち方もヒョロヒョロ、芯がない。
白い洋シャツの襟をみせ、
よれよれの紺の長着と袴を着け、
足には黒足袋にゲタをつっかける。
いかにも書生然とした、物憂げな顔の青年。
こちらは年の頃、21か22といったところでしょうか。
それにしても!
先ほどの少女が放つ気を「陽」とすれば、
この青年の放つ気は、まさに「陰」。
「あのさあ、美鈴」
青年は紺色の長着の間に手をいれ、
ぼりぼりと左胸のあたりを搔きながら。
「やはり、気が進まない」
「大丈夫よ!
ここの先生はノイローゼを治す
新しい治療法をドイツで勉強して、
凄い腕前だって、評判なんだから!
そう、雑誌に出てたんだから!
それでほら、
今日もこんなに
たくさんの人が来てるわけだし」
「うーん・・・
その、雑誌に出てたというのが、
なんか引っかかる。
だいいち、
『ノイローゼを治す新しい治療法』
っていう言い方が、
どうもそのう──
いい加減に聞こえないかな?」
「だからって!
お父様にも、久作お兄様にも、
さんざん言われてるでしょう?
勇作お兄ちゃんは
ノイローゼが理由で大学卒業を伸ばしてるけど、
治す努力は何かしらしないと、
親戚にも説明がつかないって!」
「美鈴──
前から気になってたんだけど」
「なに?」
「お前って、久作兄さんのことは
『お兄様』づけで、
オレのことは『お兄ちゃん』なんだな。
なめられてるのかな──」
「なめている?
ええ、そうよ」
美鈴と呼ばれた少女は
キッパリ、凛と、そう答える。
「シベリアで戦っている
久作お兄様は尊敬できるけど、
勇作お兄ちゃんは
全然尊敬できない」
「ひどいなあ──」
先ほどからそのやりとりを、
じっと見ていた受付嬢、
ガマンしきれず、こう叫ぶ。
「あのう?イナイさま!
イナイユウサクさま!
診察室にお入りいただけますか?
今日は混み合って
おりますのでお早く──」
「はあ──」
ようやく、勇作と呼ばれた青年、
「診察室」と書かれたドアへ、
ノロノロ、ノロノロ、歩き出した。
それで待合室の紳士たちも、
ようやく納得したわけだ。
なるほど、あの兄妹の名字が、
「イナイ」というわけだ。
きっと「稲井」とでも書くのだろう。
さて稲井勇作という、
いかにも書生然とした風貌の青年。
診察室に入る直前に、
受付嬢のほうをクルリと振り返り。
「あの──好奇心で訊くんですが」
「はい?」
「今日は混み合っているって
言ってましたけど──
毎日、こんなに混んでるんですか?」
「ああ、そうですねえ。
つい最近になってからですかね。
毎日こんなに混んでるのは」
「あ、わかった!
きっと雑誌に載ってからでしょう?
こんなに繁盛し始めたのは」
そのやりとりを、
稲井美鈴と呼ばれた少女の、
「お兄ちゃん!早くしなさい!」
という説教声が、ぶった切る。
「はいはい──」
妹の剣幕に情けなくも押され、
ようやく稲井勇作は、
診察室のドアをノロノロ開き、
部屋の中へと、入っていった。
「お兄ちゃん──ノックを忘れてる」
美鈴の呆れ返った独り言が
待合室の中に、ぽつんと、響いた。
大正時代の服装は、
『大正ガールズコレクション』(石川桂子編/河出書房新社)と、
『大注目!写真とイラストでわかる大正時代をのぞいてみよう』(汐文社)を参考に。
また稲井勇作の服装は鈴木清順「大正ロマン三部作」を参考に、
また稲井美鈴の髪型は以下Cancanの「大正レトロ」のページを参考にしました。
https://cancam.jp/archives/222853




