1 翡翠の手紙
執務室のドアがノックされた。
「はい?」
トウリがドアを開ける。見知らぬ侍従が立っていた。王城の侍従ではない。
「お初にお目に掛かります。私はジュデウス伯爵家にお仕えする者です」
トウリより三つ四つ年上だろう、茶髪の侍従が頭を下げる。
「……ジュデウス伯の方が、何かご用でしょうか?」
「こちらを、リット・リトン一級宮廷書記官様に」
恭しく、茶髪の侍従が手紙を差し出した。白い封筒に、赤い封蝋。押された紋章は向き合う二羽の鳥。
「今すぐ、お返事をいただけますか?」
「今ですか!」
唐突な申し出に、トウリが驚く。思わず執務机を振り返る。
「急な話だな」
羽根ペンを置き、リットが机上に肘をついた。
「申し訳ありません」
深々と頭を下げる茶髪の侍従に、リットは軽く鼻を鳴らす。
「俺を呼びつける、どこぞの殿下よりはマシだが」
「リット様……、不敬罪で首チョンパですよ」
手紙を渡しながら、トウリが眉をひそめた。
「えーと、何々?」
封蝋を開け、中の便箋を取り出す。たった二枚。リットの翡翠色の目が、あっという間に文字を読み終える。
「ふーん。これは、これは」
「どれが、どれですか?」
「妙な合いの手はいらんぞ、トウリ」
「では、教えてください。リット様」
「うん」
ひとつ頷いて、リットが立ち上がる。
「じゃ、行こうか」
「どちらへ?」
職位のマントを羽織り、リットは胸元に白い三枚羽を留めた。
「馬車」
きょとんとするトウリに、リットが笑みを浮かべる。
「待たせているんだろ? ジュデウス伯の侍従どの」
「お見通しでしたか」
茶髪の侍従が苦笑した。
午後の陽を受けて、馬車は進む。
「要約すると、この手紙の差出人を探してほしいってことさ」
向かいに座ったトウリへ、リットが一枚の便箋を見せた。
トウリが身を乗り出す。
流れるような、達筆な筆跡。
『愛しき人へ
遠く、離れた空の下でも、私はあなたのことを想っています。
この零れる涙が、翡翠の翼となり、あなたのもとへ届きますよう……』
トウリの眉間が険しくなった。
「これって――」
「見事な恋文だろう?」
リットがトウリの言葉を遮る。ちら、と同乗している茶髪の侍従を見た。
トウリが口を閉じ、もう一度、恋文を見直す。便箋一枚。短い文章だが、端々に相手を愛おしく思う感情が溢れている。
「えーと。見事な恋文ですが。これの差出人を探す?」
「詳しいことは、依頼者から聞こう」
ガタン、と馬車が揺れた。
門の鉄柵には、向かい合う二羽の鳥の紋章。
「ジュデウス伯爵家は、代々、鉱山の管理を任されている」
馬車を降りて、リットが口を開く。
「今は、病で急死した先代の嫡男が家督を継いでいる」
屋敷のエントランスを抜けると、階段の間。二階へと続く大階段の前に、ひとりの老婦人が立っていた。
「お呼び立てしてしまい、申し訳ありません。リット・リトン様」
白髪をきっちりと結い、喪服の黒いドレスを纏っている。
リットが微笑んだ。
「リットで構いませんよ。アイナ・ジュデウス先代伯爵夫人」
「それなら。私のことも、ただのアイナとお呼びになって」
アイナが頬に皺を寄せ、笑う。深く刻まれた皺は彼女の魅力を損なうことなく、積み重ねてきた伯爵夫人としての威厳を思わせた。
「それでは、お言葉に甘えまして。輝ける智のお方」
リットの言葉に、アイナが重ねて言う。
「ただの老婦人ですわ」
軽々とアイナが単語の綴り遊びに乗り、トウリが目を見張った。満足そうに、リットが目を細める。
「ご謙遜を。叡智は美しい」
「嫉妬に身を焦がしていても、かしら?」
アイナへ、リットが便箋を返す。
「立ち話も何ですわね。どうぞ、こちらへ。ヨル、紅茶の準備を」
「かしこまりました」
茶髪の侍従、ヨルが胸に手を当て、頭を下げた。
アイナに案内され、リットとトウリが二階の客間に通される。
白を基調とした室内。ところどころに、宝石の原石が飾られている。
「お掛けになって」
「失礼します」
テーブルを挟み、リットとアイナが向かい合って座った。トウリが、リットの傍に控える。
「老いの先が短いから、単刀直入に言うわね。この手紙の、差出人を探してほしいの」
「どなた宛か、ご存じなのですか」
リットが尋ねる。アイナが頷く。
「宛先が、書いていないのに?」
「主人の鞄から見つけました」
凛とした声に、トウリが息を呑んだ。アイナの瞳が、真っ直ぐにリットを映す。
「浅ましいなんて、思わないでちょうだいね。ケイスが亡くなって、その遺品を整理していたのよ」
先代のジュデウス伯爵の私室、旅行鞄から出てきたのだと言う。
「彼は、恋文なんて書かなかったわ」
ふっと視線を外し、アイナが窓の外を見る。
「鉱山の視察で、何日も屋敷を空けていても。ただ、手紙は来たわ。『元気か。不自由はないか』……業務連絡のような内容で。この恋文のような『愛しき人へ』なんて、一度も口にしたことなんて、なかった。それに、この美しい筆跡。彼のものではない」
アイナがため息をつく。
「愛人がいたのよ。きっと」
「そんな!」
「トウリ」
声を上げたトウリを、リットがたしなめた。
「も、申し訳ありません……」
ふふ、とアイナが微笑む。
「珍しいことでもないわ。頭でっかちの女より、かわいい娘を殿方は好むのでしょう?」
「私の趣味は内緒です」
リットが肩をすくめた。
「あら。はぐらかされてしまったわ」
「しかし、アイナ様」
リットが口元に手を当てる。
「仮にもし、愛人がいたとして。万が一、その方が手紙を出したとして。探し出して、どうするのですか」
「決まっています」
アイナが背筋を伸ばした。
凛とした、佇まい。
「――ジュデウス伯爵家の相続に関わる気があるのか、問い質します」
そこには年老いた夫人の姿はなく。
長年、伯爵家を支えた女性の威厳があった。
「なるほど」
リットが手を下ろす。ゆっくりと唇が弧を描いた。
「ただの宮廷書記官の私に、そのような依頼を」
「ただの宮廷書記官では、ありません。殿下の信頼が厚い、一級宮廷書記官です」
「ありがとうございます」
胸元の白い三枚羽を手で押さえ、リットが告げる。
「その手紙の差出人には、心当たりがあります」
膝の上で、アイナが拳を握った。
「……どなた、ですか」
「あなたを一番愛していた人です」
アイナの目が大きくなった。
「まさか。そんな。筆跡が、あの人とは違います!」
「それはそうでしょう。この私が代筆しましたから」
翠の目が、アイナを見つめる。ひゅっ、と彼女が息を呑んだ。
「ケイス様。よく覚えていますよ」
リットが、笑う。
「ご自身の想いを言葉にするのが苦手、とのことで。私の元へいらっしゃいました。鉱山の視察で何日も屋敷を留守にして、申し訳ないと。直接、口にできなくて、不甲斐ないと」
「あ、あの人が、そのようなことを……」
「はい。恥ずかしそうに、おっしゃっていました」
リットが息を吸った。
「『愛しき人へ
遠く、離れた空の下でも、私はあなたのことを想っています。
この零れる涙が、翡翠の翼となり、あなたのもとへ届きますように。
この溢れる熱が、あなたの悲しみを癒しますように。
翡翠の翼を得て、今すぐ飛んでいきたい。
愛しき、あなたへ』……」
透明な宝石が一粒、彼女の瞳から零れ落ちた。