第2話 青嵐に笑う その3
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山のふもとまでは、馬が通れるくらいには道はひらけていた。
人里から人がやってくるらしく、湿った土のうえに、無数の足跡がある。
たまに、その足跡のうえをけものが横切った痕跡があり、山の豊かさを物語っていた。
趙雲のいうまま、馬を山からほど近い農家に頼んで、徒歩で山に入っていく。
なんでこんなことになったと思いつつ、山登りをはじめる孔明だったが、趙雲の口数も、おなじく、ぐっと減った。
合わせて孔明も黙っていると、気づまりを感じたのか、趙雲がさまざまな話題を振ってくるようになった。
「新野にきて不自由はないか」
「隆中ではどんなふうに暮らしていたのか」
「友人たちとはどのように過ごしていたのか」
「旅をしたことあはるか」
「どこへ行ったことがあるのか」
等々。
孔明は、人の話を聞くのが好きだが、喋るのも好きである。
問われることには、すべて答えた。
趙雲は孔明の語る言葉を、ひとことも漏らさず、丁寧に聞いていた。
うなずいたり、相槌をうったり、みじかい感想なども返したりしてくる。
途中、有名な甘露の水があるというので足を止めて、沢から染み出ている水を汲みに行くこととなった。
苔むした岩の隙間から水が流れているのを、だれがそうしたものか、竹の樋で水を誘導し、だれでもすぐに飲めるように工夫してある。
竹筒でそれを汲み、また、自らも手ですくって水を口にふくむ。
甘露の名のとおり、甘い、清らかな味がした。
咽喉に冷たい水がとおったそのあとに、ようやく孔明も頭が冴えてきた。
それまで新野のちいさないざこざのなかで揉まれ、知らず知らず傷つけられて自分の心が、ここにきて、癒されて、落ち着いてきたように感じられた。
そして、とつぜん理解した。
趙雲は、孔明の隣で、おそらく里の者かが置いたのであろう座椅子代わりの平たい石に腰かけて、木漏れ日をまぶしそうに見あげている。
この男は、単純に、自分が疲れているからという理由で外に連れ出してくれたのだ。
素直に考えればよかった。
肩の力がすとんと落ちた。
こんな温かい気遣いをしてくれる男だと思っていなかっただけに、うれしさがある。
しかし、つぎに浮かんだ疑問は『なんでまた、ここまでしてくれるのか』ということであった。
「なんでまた、って?」
素直に疑問をぶつけると、趙雲のほうが、ふしぎそうな顔をして孔明に尋ねかえしてきた。
「わからないのか?」
疑問に疑問で答えるとは、話が進まないではないかと苦りつつ、これまた素直にわからない、と答えた。
「わが君や麋子仲どのが、おまえを心配していたからさ。雲長どのも同様だ。あんな働きぶりでは、曹操が来る前に倒れる、とな」
「倒れることはないよ。わたしは普通に仕事をしているつもりだ」
「そう思っているかもしれないが、俺から見ても、おまえはすこし意地になって働きすぎている。早く張飛や劉封たちを心服させねばと思っていないか」
「それは」
事実であった。
「図星だろう。しかし、焦っていいことはないぞ。俺も雲長どのも、ある程度は麋子仲どのを手伝ってきたから、おまえがどれほど仕事ができるやつかわかった。
だが、益徳らはちがう。あいつらは、軍務しかしたことのないやつらだ。おまえができるやつだということが、まだまだぴんと来ていないのさ」
「どうしたらいいと思う」
また素直にたずねると、趙雲も、あっさり答えた。
「戦になるまでは、むずかしいのではないか。徐元直どのも、戦が始まるまでは、みなに認められていなかった。力の強さを人物の強さだと思っているやつらには、戦場で力を見せるのが一番だ。そう焦ることはない」
ここで言葉を切って、趙雲は真顔でつづけた。
「曹操がそろそろ来ることはわかっている。このあいだの、曹操が小隊を派遣してきた戦いは、単なる小競り合いだ。今度は、やつは大軍を率いて自ら南下してくるだろう。そのときに、おまえは力を発揮するがいい。だが、その前に雑務で倒れてしまっては、いざというときに力を出せぬぞ」
曹操の小隊がやってきた戦とは、徐庶が軍師になってすぐに起こった戦のことである。
徐庶のみごとな采配で、戦は大勝利したと孔明は聞いている。
だが、曹操が小隊を派遣してきた理由は、劉備を脅かすためではないだろう。
その実力のほどを確かめる、小手調べと、劉備の背後にいる劉表がどう動くかを見るための戦だったのだ。
劉表が動く前に戦が終わったので、曹操としては目的が半分しか達成できなかったわけだが、代わりにかれは軍師としての徐庶に目を付け、卑怯な手で徐庶を引き抜いてしまった。
「おどろいた、子龍、ずいぶんはっきりと言うものだな」
「俺はいつもこうだ」
「ところで尋ねるが、あなたの夢はなんだ」
唐突にされた孔明の問いに、趙雲は面食らったように孔明を見返した。
「なんだ、いきなり」
「思いついたことを口にしたのだが、答えづらいようだったらいい。本当に思いつきだから」
「ずいぶんと奇妙な問いかけをしてくるものだな」
「でも、あるだろう。夢。わが君にお仕えして、いずれかは一国一城のあるじとなり、名領主として歴史に名を残してみたいとか、あるいは敵将の首をたくさん取って、天下の名将と呼ばれるようになりたいとか、そうでなければ、天下に平和を取り戻したいとかな」
「天下に平和を取り戻したい、か」
「お、そう思うのか」
孔明は身を乗り出すが、しかし趙雲は腕を組み、首をひねっている。
「いや、あまりそういうことは考えたことがなかった。世の中が荒れているのは、いまにはじまったことではなく、そういうものだと思って過ごしてきたからな。軍師はちがうのか」
問い返されて、孔明のほうがうろたえた。
「そういうものじゃないからこそ、世の中が乱れているのだ」
「そうなのか?」
「そうなのか、って、いや、そうなのだよ」
あたりまえではないか。
呆れる孔明を前にして、趙雲は考え込んでしまったようである。
「そうだな、俺の夢は、おまえの言うとおり、わが君に天下を取っていただくことかな」
「天下を取って、その先は?」
「俺に聞く前に、おまえが答えろ」
「では正直に語ろう。山にこもって自由にのびのびと暮らす。神仙を目指すのも面白そうだ」
「張子房と同じか。おまえにはぴったりな夢だな。俺だったら、そうだな、常山真定に帰って、兄や母の墓を守って、のんびり暮らす」
「あるではないか、夢」
「そうだな、考えたことがなかった。俺は故郷に帰りたかったのか。自分でも意外だ」
趙雲は言葉の通り意外らしく、自分に首をひねっていた。
※
思い出されるのは春のこと。
趙雲が孔明の主騎になったばかりの頃の話である。
孔明は、束縛されることが、やはり嫌だった。
だから、主騎はいらないと、劉備に訴えた。
しかし、劉備は首を縦に振らず、代わりに言った。
「子龍は、おまえの一番邪魔にならないヤツだぜ」
「邪魔にならないとは、細作のように人の気配を消す訓練を積んでいるから、というたぐいのことでございますか。気配を消されていようが、そこに『いる』のは間違いないでしょう。わたしは、だれかがそばにいると、集中できない性質なのです。主騎はいりませぬ」
口を尖らせると、劉備は、いやいや、技術がどうとかいう話じゃない、と手を振った。
「ともかく口は重いし、秘密は守れといったら、かならず守る。でもって頭もいいから、指示以上のことも楽にこなしてくれる。
おまえは、横からああだこうだと言われるのが嫌なほうだろう。子龍はよほどでないかぎり、口をはさんでこない。それどころか、あいつに、口をはさまれたときは、これは不味い事態だなと、自分を点検するいい機会になるという、おまけつきだ」
「そのような貴重な人材でしたら、わが君がずっとお側に置かれては如何ですか」
「いじわるを言うなよ。子龍は、おまえより五つ上なんだ」
「それは本人の口から聞きました」
すると、劉備は、顔をぱっと上げて、びしりと孔明を指さした。
「それ!」
「どれでございますか」
「おまえ、子龍にそれを聞いて知ったか? それとも子龍が言ったので知ったか?」
劉備の問いに、孔明は首をかしげて、どうであっただろうかと考える。
「本人から聞いたような」
「そうそう。おまえには言えるようなのだ。子龍は、よほどでないかぎり、自分のことを自分からいわないんだ。ところがだ、あいつは、おまえには言うんだよ。おまえら、普通にしゃべれるだろう?」
「普通に。たしかに、世間話などはいたしますが」
「世間話していると、どっちかが聞き手になる一方だったり、語り手になる一方になったりして、なんだか疲れる相手っているだろう。子龍は、おまえにとってはそうじゃないだろう」
「たしかに、対等、というと言葉がまちがっているかもしれませんが、たがいに、ふつうに意見をやりとりいたします」
あたりまえのことではないか、わが君はなにを言わんとされているのだろうと怪訝に思っていると、劉備は、ずいっと身を乗り出してくる。
「それ。そこがとても重要なのだ」
「それ、とは?」
「普通に、ってところだよ。子龍は、おまえが相手だと、自分のことを打ち明けるのに抵抗が無い様子なのだ」
「おかしなことをおっしゃいます。それでは、子龍は、ほかの者たちには、ほとんど自分のことを語らぬようではありませぬか」
「うん、そう。そのとおり」
あっさりと劉備は答え、孔明をうろたえさせる。
「それで、よくいままでやってこられましたな」
「そこがそれ、あいつ、公孫瓚のところで身につけたのだろうが、そういう処世術には慣れててな、本当にソツがない。頭がいいから、相手の先をうまく読んで、合わせて、するり、するりと世の中を渡っていっちまう。だから問題も起こさないかわりに、自分の腹を打ち明けられる仲間が少ない。
わしを慕って来てくれた奴だが、どうも十五のときと、変わってない部分があるなと、心配しておったのだ。ところが、ありがたいことに、軍師があらわれた。おまえは子龍のこころの救い主だ」
「おおげさでは」
「おおげさではないぞ。子龍は軍師にはこころを開いている。わしからすれば、びっくり仰天だよ。それほどに、あいつは内気なやつなんだ」
孔明は、趙雲の落ち着いた佇まいを思い出していた。
内気なのは確かだろう。
たまに笑い方に慣れていないような表情をする。
部下には慕われているようだが、その隙の無い様子を、逆に麋芳や劉封などはうとましく思っているようだ。
孔明からいわせれば、隙が無い人間をうとましく感じるのは、狭量のあかしではないかというところであるが。
「わが君は、子龍が内気だと心配なのですか」
「それはそうだよ。わしは、あいつには大きな夢を見てもらいたいのだ」
「夢、ですか」
「大志と言い換えてもいい。あいつは本来、おまえやわしの主騎を務めるだけの人間じゃない。大軍を統率できるだけのでっかい器量を持っている。だが、わしのところでは、その才覚を開く機会がなかった。だが、これからはちがう。わかるだろう」
「曹操は確実に襲来してくる」
「そうだ。そのとき、わしたちは曹操に立ち向かうために、最大限の力を発揮しないと生き残れないだろう。新野に籠城することになるか、劉州牧のところへ逃げ込むことになるか、それはわからないが、どちらにしろ、戦うことになるのだ。雲長もいる。益徳もいる。だが、まだ手が足りない。わしを慕ってくれる民を守るためにも、大きな器を持つ、大将が必要だ」
「それが子龍だと」
「そうだ。あいつなら、いま以上に成長できるはずだ。だが、あいつは気持ちが優しいうえに内気なのが弱点だ。優しい大将なんて、矛盾している。それはわかるだろう」
孔明はうなずいた。
たしかに将に慈悲は必要だが、それは日常に発揮すべき優しさとは種類がちがう。
劉備はそのことを言っているのだ。
「優しさを捨てろとは言えない。それは、あいつの宝物のようなものだ。だが、内気なのは話がちがう。有能であるがゆえに抱えすぎて、自滅してしまっては意味がないのだ。
あいつには、もっともっといろんな人間と触れ合って、大きな人間に成長してほしい。そのためには、おまえの力も必要なのだ。わかるな」
「わかります」
「では、もう答えは出ているだろう」
劉備はそういうと、孔明に対し、頭を下げた。
「わしは、子龍の見る大きな夢を受け止める、でっかい器でありたい。そうなるためにも、やっぱりおまえの力が必要なのだ。おまえは、わしと子龍の両方にとって、大事な人間なのだよ。だから、すまぬがわがままはひっこめて、わしの言うとおりにしてくれないか」
そこまで言われては、孔明はわがままを抑えるしかなかった。
そこで、趙雲から主騎を辞退しないかなと観察していたが、そのうちに、趙雲の人柄に触れ、劉備の言うとおり、かれがそばにいることを許すことになったのだ。
つづく