第2話 青嵐に笑う その2
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翌朝。
身支度をととのえている最中に、孔明はおどろくべきことに気づいた。
自分の両目の下に、青いクマができているのだ。
関羽と和解したことで、安堵して、昨日はよく眠れたのだが。
「そうか、昨日までの疲れが、いまになって出ているわけか」
一人、つぶやいて、血行を良くするために、目の周りをもみほぐす。
それでも、相当に疲れがたまっているらしく、青いクマはなくなってはくれなかった。
その日は、劉備とともに朝餉をとる予定であった。
この顔のまま、表に出ることはできないなと焦っていると、外から声をかけてくる者がある。
「軍師、起きているか」
「子龍か。なんであろう」
迎えに来てくれたのかと思って顔を出すと、趙雲はいきなり渋い顔になった。
「おまえ、疲れていないか?」
「朝から、藪から棒になんだ。たしかに、昨日は裁判までやって、張り切りすぎたが、元気だぞ」
孔明は口をとがらせる。
しかし趙雲は渋い顔のままで、言った。
「わが君は別な用事ができたので、申し訳ないが朝餉は別の日にともにとろうとおっしゃっている」
「なんと、それは残念だ」
「そこでだ。出かけるぞ」
「は?」
意味がつかめない。
「一緒に来てほしいところがあるのだ」
「いったい、どこへ」
「悪いところへ行こうというのではないぞ」
朝の陽ざしを背中から受けているせいで、外にいる趙雲の顔が、逆光のためによく見えないのは不便だった。
孔明は席を立ち、部屋の外に控えている武人のいるところへと寄った。
「歯切れが悪いな。もしかして、行く場所は厩舎か。馬を繋げとか、馬を一緒に洗ってくれとか、鐙をしまってくれとか、そういう手伝いをしてほしいという話か」
趙雲は、暇さえあれば愛馬の世話をしている。
それを想定しての話だったが、顔がはっきり見えるようになった趙雲は、意外にも心配そうな表情をしていた。
「おまえをさらに働かせようという話ではない。それにしても、ひどいクマだな。このところ、激務が続いていたようだから、気を紛れさせてやろうと思ったのだが」
「気を紛らせるために、外出するのか」
かえって疲れそうだけれどと孔明が考えていると、趙雲が重ねて言った。
「そうだな。疲れるからいやだというのなら、無理にとはいわぬが」
「ふむ、そこまで言うのなら、付き合ってもよい。場所はどこだ」
「そうか。行くか。西のほうなのだが」
「西にもいろいろあるだろう」
孔明がいうと、趙雲は、しばし、ことばを詰まらせた。
答えを迷っている、そんなふうだ。
なんだ、行き場所も定まっていないのか、と孔明が疑問に思っていると、しばらくして、早口で趙雲は答えた。
「ともかく西だ。一晩でいける場所だから、近い」
西、というだけで、具体的な地名はなにもいわず、
「行ってくれるなら、半刻後に門で待っている。支度をしてくれ」
ということばを残し、趙雲は去っていこうとする。
その背中を見送りかけて、孔明はまだ逡巡しているおのれに気づいた。
行き先がわからないというのは、どうもモヤモヤする。
断ったほうが良いのではないか。
すると、心の内を読んだかのように、趙雲が足を止め、孔明を振り返る。
「構えなくていいからな」
「どういう意味だろう」
「おまえをどこぞに連れて行って、どうこうしようというものじゃない。ほんとうに、ただの遠出だ。準備も簡単でいい」
まさに構えていたおのれを見透かされたことが恥ずかしい。
孔明が言葉をかえせないままでいるうちに、趙雲はまた踵をかえして立ち去った。
※
孔明は手早く旅支度をすませた。
用意するもののほとんどは、衣類や身だしなみを整えるための道具だけだ。
司馬徽の私塾にいたころは、仲間たちと旅をくりかえしていた。
そのため、旅にも慣れている。
経験から、短い時間で、必要最低限のものをそろえてすぐ発てる技術も身につけていた。
さらに、その必要最低限のものは、どんな小さなものでも、こだわりにこだわりぬいた逸品ばかりをそろえていた。
良いものを持っていれば、どこにいようと自分でいられる。
そう信じているのだ。
旅支度をととのえ、留守を守ってくれる麋竺や孫乾たちに、自分がいないあいだの仕事の引継ぎを簡単にすませる。
そうして準備万端にしてから、孔明は、趙雲の待つ門へと向かった。
孔明は、最低でも、供の数人はくっついてくるのだろうと想像していた。
しかも、趙雲はいたって簡素な服装で、夏らしく涼し気な色の衣を身に着けただけであった。
むしろ、あらわれた孔明の姿を見て、顔をしかめたほどである。
「派手だな」
「これがいつものわたしだ」
「まあいいか。着替えは持ってきたか? よし、それでは行くぞ」
と馬にまたがる。
そして、そのまま、さっさと馬を門にくぐらせようとする。
あわてて孔明はたずねた。
「待て。二人だけか? ほかに随行する兵卒などはおらぬのか?」
「おらん」
あっさり言って、趙雲は馬の腹を蹴って、西へと馬を走らせる。
「どこへ行くのか、まだ聞いていないぞ」
孔明の文句が聞こえたのか、聞こえなかったのか。
振り返らない趙雲に舌打ちしつつ、孔明もあわててあとを追う形となった。
※
馬をひととおり走らせ、村々のあいだをくぐりぬけたあと、のどかな田園がひろがるところまできて、趙雲はようやく馬の足をゆるめた。
「やっと足をゆるめたな」
孔明がぶつくさいうのを背に、趙雲はゆったりと馬の背に揺られている。
たまに、ちらっと振り返ろうとするが、その様子は、かなりこちらに遠慮しているようである。
なんであろう、相談事でもあったのかな。
孔明は馬を操りつつ、ひとり、首をかしげる。
水を向けてやれば、口を開くであろうか。
それとも、沈黙をつづけて、自然と口を開くのを待つべきか。
孔明が思案していると、ようやく趙雲は振り返り、言った。
「今日は良い天気だ。雲もないほどだ」
見上げれば、たしかにそのとおりで、蒼い空には白い雲の欠片すらなく、初夏の太陽がかんかんと大地を容赦なく照らしている。
風がだいぶあり、それが冷たさを含んでいるから、まだ過ごしやすい。
だが、それは体の動きを止めていればの話。
田園に出て、野良仕事をしている農夫たちの動きが、どうも緩慢に見えるのは、気のせいではあるまい。
雲がない?
そうか、天気の話からまずはいって、こちらの反応を見ようというのだな。
合点した孔明は、趙雲のことばを受けて、つづけた。
「雲が、大地の果ての気があふれたものだという話は、ほんとうだろうか。大地の果てから雲が生まれところは見たことがないが、泰山から立ち上る霧が雲に転じていく風景は見たことがある」
「泰山か。霊山だな。いちど行ってみたい」
「武帝の碑があったよ。封禅が行われたときの記念碑だったな。そのときは父上もお元気で、わたしに碑の内容を読んで教えてくださったものだ」
「そうか。いい思い出なのだな」
たしかにいい思い出だが、それを互いに語り合うために、こんな田舎にきたわけではあるまい。
趙雲が言いたいことはなんだろう。
孔明は、率直に、趙雲にたずねた。
「子龍、なぜここに」
来たのだ、とみなまで言わせず、趙雲がまた切り出した。
「雲というと、おのれの名と同じだからかな、空を見ると気になってしまう」
「そういうものか」
「あんたの名は亮だったな」
「そう。亮というと、光るものを表現する言葉だ。なかでも『月亮』ということばが有名だから、わたしなんぞは、どうしても月に興味を持つ。月には、ほんとうに蝦蟇がいて、不死の樹が生えているのかな、とかな」
「不死の樹なんぞ、ぞっとする。むかし秦の始皇帝が不死の薬をもとめて、徐福に蓬莱という国を探させたという伝説があるが、あれがどうしても理解できぬ。俺なんぞは、そんなに生きつづけて、なにが楽しいのかと不思議に思うところだな」
「意外だな」
実感として孔明がそういうと、趙雲のほうが顔をしかめた。
「なぜ。軍師も始皇帝とおなじ類いか」
「不死か。そんなもの、あこがれたこともないし、考えたこともない。仮に不老不死なんぞになったら苦しいだろうな」
すると、趙雲は、じつに満足そうに、うなずいた。
「そうだろう。長く生きるということは、それだけ苦しい思いもしなければならないということだ。始皇帝という男は、よほど人生が楽しかったと見える。俺にはよくわからん」
「あなたも武人なら、不老はともかく不死になって、無敵な男になりたいと思うことはないのか」
「戦は一人でするものではない。俺以外の仲間たちも不死だというのならともかく、俺ひとりが不死になったとしたら、どうだ。勝っても負けても、仲間のだれかは欠けるだろう。
いや、それどころか、戦に負けて、仲間がすべて死んでしまったら、どうなる? 悲しいどころの話ではないだろう。俺はみなの後を追うこともできず、ずっと地上を彷徨うことになる。最悪だ」
「いわれてみればたしかにそうだが」
孔明は意外に思った。
そして先行する馬の背に揺られる、日に焼けた顔を見た。
その視線に気づいたのか、趙雲が不思議そうにたずねてくる。
「なんだ」
「いや、おどろいたのだ。あなたがこんなふうに想像豊かな人だと思っていなかったから。気を悪くしたのなら許してくれ」
「気は悪くしない。が、そうか。ふつうは、あまりこういう発想は、しないものかな」
などと言いつつ、趙雲は首をかしげる。
たしかに、張飛あたりに不死について語らせたなら、死ななくていいのであれば暴れまくって敵をすべて滅ぼすと言い切るだろう。
それにしても。
さきほどの泰山の話といい、不死の話といい、趙雲が伝えたいことはなんなのだろう。
「ところで、わたしたちはいま、どこへ向かっているのだろう。このあたりに集落はあるが、なにも問題がなさそうに見える。あなたには気になることでも?」
「いいや」
あっさりと趙雲は首を振る。
「では、これからどこへ向かうのだ」
「あの山だ」
趙雲が指す方角には、鬱蒼とした山の連なりがある。
そのなかのひとつに、入ろうということであるらしい。
孔明は、おもわず周囲を見回す。
ともかく、なにもない、平和な田園風景である。
家も納屋も人も家畜も、めったに見当たらないほどの。
「そうだ、軍師、聞き忘れていたが、野宿はできるよな?」
「野宿だって?」
てっきり、山里のそばの人家に宿をとるのだろうと推測していた孔明は、野宿と聞いてうろたえた。
なぜにうろたえたかといえば、孔明が気合を入れて纏ってきた派手な衣裳、それが一張羅だったからである。
野宿なんぞをするのであれば、一張羅を着てはこなかった。
「野宿自体には慣れているが」
「が?」
「最初から野宿をすると言ってくれないか。であれば、こんな装いをしてこなかったのに。それとも、あの山の中にに、だれか住んでいて、わたしたちをもてなしてくれるのか」
「集落とちかいから、山小屋くらいはあるかもしれぬが、あいにくと、俺はそこに用はない。軍師は用事があるのか」
「あるわけなかろう。だいたいこのあたりがどこかすらわからないのに」
「うむ、そうだろうな。野宿だとあらかじめ言わなかった俺も、口が足りなかった。謝る。しかし山の頂上までたどり着くのに、一日では無理だからな」
「山の頂上、だと?」
なぜ趙雲が自分を山に連れ出そうとしているのか。
わからない。
混乱しつつ、孔明は仕方なく趙雲のいう山に向けて、馬を歩かせた。
どちらにしろ、もう新野城に帰るには、時間が経ちすぎていた。
あと数刻もすれば、日暮れだ。
つづく