しゃれこうべの辻 その9
次兄は、長兄をゆるしているのだ。
そう思うと、雲のなかにまだあった、嘔吐感にも似た長兄への軽蔑の念も鎮まった。
たしかに、長兄の背負うものは大きい。
その大きさに耐えかねて、不義に走らざるを得なくなっているのかもしれない。
妾にしても、自分を愛していない老人の世話を見続けなければいけない立場だ。
どちらもひどく重苦しい日々を過ごしている。
そう思えば、ふたりは悲しい。
不義はゆるされぬ罪だが、糾弾するのは、末弟の自分ではなく、ほかの人間がすればいいではないか。
「末っ子、もうひとつ、言っておかねばならぬことがある」
雲が怪訝そうな顔をすると、敬は親しげに、雲の頭を軽く叩いた。
「おまえだけには話しておこう。じつは、わたしは今日、戻ってきたのではないのだ。もっと以前に常山真定に戻ってきていたのだよ。決まりがわるくて姿を出せなくてね。
でも姿を見せることができて、すっきりした。顔を出そうと思ったのは、おまえが昔の自分に見えて仕方がなかったからさ。ついでに、おもしろいことをしてやろう。わたしは洛陽で、すこしばかり占術をかじってきたのだ。おまえの未来を占ってやろう」
占いなんて、ぞっとしない。
断ろうと思ったが、敬は雲の意思をまったく無視して、その顎をぐい、と掴むと、じっくりと、その顔をながめはじめた。
雲は思った。
自分が次兄に、未来のおのれの風貌を見ているように、次兄も自分に、かつての自分の姿を重ねているのだろうか。
だとしたら、いまの次兄の目に映る自分は、どんなふうなのだろう。
「おまえはいま、岐路に立っている。一歩、どちらかに進んでしまえば、二度と戻ることはできないから、よく聞け。片方の行き先は、あそこだ」
敬は、土塁の前にひろがる、常山真定の街を指した。
「袁家の婿となって、幸福で平坦な道を行くこと。この道を進めば、おまえはこの土地から離れることなく、一生を家族に囲まれて、退屈だが穏やかに過ごすことができる。
なに、不安がることはない。おまえが兄上のようになるとはかぎらぬ。これはこれで、よい運勢だ」
雲はがっかりした。
やはり、一生ここなのか。
「まあ、待て。結論を出すのは早い。道は二つあるのだと言っただろう。ただ、もう一方は、恐怖と、危険に満ちた道だ。報われることも少なく、涙を噛み殺して、前に進むような苦難の連続となるだろう。冒険と戦いの毎日だ。わくわくするであろうが、死と直面する毎日でもある。だが、この道の行く手は、まばゆい光に包まれている。おまえのすべての労苦は、この光によって救われるだろう」
光、などと言われても、ぴんとこない。
なにを意味するものなのだろうか。
「どちらへ向かおうとも、寿命は同じ。ただ、到達する幸福の種類がちがう。日々のささやかな生活に幸福を見出すか、光によってもたらされる、魂の充足を願うか、どちらを選ぶかだ。まあ、熟慮するのだな」
似たような面差しをしている人間から、ふたつの運命があると占われるのも奇妙だと、雲は思った。
とはいえ、敬がからかっている、というふうでもない。
どちらも寿命が同じというのならば、ささやかな幸福に支えられる道と、冒険と戦いの果てに、光が待つ道では、辛い思いをしなくてすむぶん、前者のほうがいいに決まっている。
だが……
「雲よ、おまえの出した答えを、わたしは聞かないでおく。これだけは覚えておくがいい。お前がどちらかを選べば、選ばれなかったほうとは、決別することになるだろう。そういう宿命なのだ。おまえの持てる勇気、すべてを使って選べ。
そして、選ばれなかった者、捨てられた者の怨嗟に耳を傾けてはならぬ。おまえの選んだ道の途中に、わたしがいるかどうかはわからぬから、二度と会えないかもしれないな」
それはさびしいな、と雲は思った。
はじめて、なんでも相談できそうな大人に出会えたのに、それが兄だというのに、もう別れの時がきたというのか。
敬は急に手を伸ばし、包み込むように、雲をぎゅっと抱きしめた。
旅慣れた兄の体からは、大地の土煙と、陽射しの匂いがした。
立ち去りぎわ、敬は言った。
「お前がもし、苦難の道を進む決心をしたのならば、僭越ではあるが、わたしがおまえにあざなを授けよう。戦場に出たならば、『子龍』と名乗るといい。なぜか、だと? 格好いいではないか。わたしの字は叔斉などというつまらない字だが、『子龍』はよい。雲と龍とでうまく意味もつながるし、おまえが鳥よりも高く飛ぶことのできる龍となって、はやく光にたどり着けるように、という願いもこめてある。これはいま、思いついたのだが」
そう言って、敬は、わたしは、こじつけの天才なのだ、と声をたてて笑った。
自分によく似た面差しに浮かぶ笑みはひどく温かく、そしてどこか懐かしさを思わせるものであった。
「わたしの贈り物は、以上だ。さらばだ、末っ子、達者でな」
そう言って、次兄は来たときと同じように、飄々と去っていった。
雲は動くことができず、しばらく、闇に溶けていく、敬のうしろ姿を見送っていた。
おそらく、これが、次兄の姿を見ることができる、最後の機会だろう、という予感がした。
ふと、頬に冷たいものが触れて、見あげると、黒い雲のうねる空から、ちらほらと雪が舞い降りてきた。
本格的な冬がやってきたのだ。
つづく




