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奇想三国志 英華伝 短編集  作者: 牧知花
ねずみの算数
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第3話 ねずみの算数 その5



それから十四年後。

商人たちが、こぞって、おさめる品物がないと返答を寄越したとき、趙雲は暗い気持ちに襲われた。

同時に、なぜか、なつかしい新野の一夜のことも思い出していた。


いまは丞相となった孔明は、成都で留守をあずかっている。

皇帝の孫呉への親征、ということで最初は盛り上がっていた戦であったが、趙雲の予感どおり、結果は大敗に終わった。

本来の大義から大きく逸れ、冷徹な目線と戦略に欠ける戦は、負ける運命にあったといってよい。

味方の兵たちは、みな士気をうしなっている。

最悪の事態が脳裏をかすめた。

このまま、江東の兵どもが押してきて、西に向かって来たらどうなるか。

劇的な勝ち戦で波に乗っている彼らにたいし、蜀漢側は、物資にすら事欠くありさまだ。


いや、実際のところ、物資は商人たちが抱えている。

しかし、張飛の死に際の話が、あっという間に世間にひろまり、商人たちは及び腰。

張飛が物資をそろえられなかった部下を打ちのめしたことで、恨んだその部下に報復されて命を落としたことが、商人たちをおびえさせている。

かれらも命が惜しい。

なにかの手違いで似たような境遇に陥ることを恐れて、物資がない、と嘘を言ってきていた。


張飛。

死んでまで、迷惑をかけてくれるやつだ。

罵倒すら、笑って言い合える、数少ない相手であった。

二度と会えないと思うと、悲しみと同時に、苦いものが胸を走る。

夢はついえ、滅亡を待つばかりなのか。

打てる手は、もうないのか。


成都から状況を知らせろと矢継ぎ早にやってくる使者に、みずから筆をとって、丞相府あてに手紙を送る。

東へ向かおうにも、物資が不足している。

これがもし、呉の知るところとなれば、連中は、趙雲動かず、と見て、一気に押し寄せてくるだろう。

わが君の待つ永安は目と鼻の先だが、こちらも持ちこたえられるのは、わずか数日。

兵糧もなにもかも尽き欠けている。

こうなれば、あとは頼むとしか言いようがない。


「将軍、商人が、ぜひ将軍にお目にかかりたいと」

孔明への手紙の筆を止め、趙雲は部下に答えた。

「俺ではなく、司馬のだれかに応対させよ」

「いいえ、それが、是非に将軍にお目にかかりたいと。もしお目通りがかなうのであれば、物資を用意すると申しております」

趙雲は、筆を置いて、顔をあげた。


商人どもめ、足元を見よる。

おそらく元値の数倍もする物資を、恩着せがましく売りつけて、今後の便宜を頼んでくるにちがいない。

忌々しいが、背に腹は変えられぬ。

趙雲は立ち上がると、商人が待っているという広間へ移動した。


広間では、髪に白いものの混じった、いささか太り気味の商人が、床にかしこまっていた。

「面をあげよ。堅苦しいあいさつも前置きもいらぬ。物資を揃えられる、というのは本当か」

「まことにございます」

商人は顔をあげる。

作り笑いでできたしわがくっきりと刻まれた、特徴のない中年男の顔であった。

趙雲は奇妙に思った。

なぜかその男の双眸は潤み、いまにも泣きだしそうになっていた。

「物資のすべてを揃えられるか」

「もちろんでございます。大量に仕入れてくださるとのことで、とくべつに、三割引で納品させていただきます」

「三割引!」

思いもかけない申し出である。

思わず趙雲は安堵し、周囲の部将たちと喜びで顔を見合わせた。


だが、待て。

話がうますぎる。

信じてよいものか?

「質問をしたいのだが」

「なんなりと」

「おまえの申し出はありがたく思う。だが、ほかの商人たちが、我らと関わりあうのを恐れ、こぞって品物がない、といっているこの状況下で、おまえはなぜ、三割引で、我らに物資を提供するというのか。理由を聞かせてはくれぬか」

「忘れておいでか。それも無理のないこと」

そうつぶやくと、商人は、はらはらと涙を流し、趙雲をまっすぐと見た。

「お久しゅうございます。わたくしは、かつて新野城にて、丞相様と将軍様に命をすくわれた男でございます」


まさか。


趙雲は驚愕のあまり涙にくれる男をまじまじと見た。

「おまえ、あのときの?」

商人は、袖で涙を拭きつつ、こくりと肯いた。

「あの夜まで、わたくしは、薄汚いネズミでございました。あの夜、思いもかけず、貴方様と丞相様は、わたくしに数字を教えてくださり、しかも命まで助けてくださった。あれからわたくしは、生れ変わったのでございます。

裏の仕事から足を洗い、文字を習い、算術をおさめ、こうしてまっとうな商人として、身を立てることができるようになりました。

本来ならば、もっと早くにお礼のごあいさつをしなければならなかったのですが、以前のわたくしのことは、ほかのだれも知りませぬ。昔を知られるのがおそろしくて、ずっと黙っておりました。

しかし、此度の戦にて、将軍様が困ってらっしゃると商人仲間から聞きまして、いまこそ恩返しせねばと、こうして駆けつけてきたのでございます」

「なんと…」

趙雲は、すっかり言葉を無くしていた。

世の中は、どん底を味あわせてくれることもあるが、こんなふうに、すばらしい贈り物をくれることもある。


いや、世の中のおかげではない。

趙雲の脳裏に、かけがえのない友の顔が浮かんだ。


「あいかわらず、よく喋るやつだな」

「よく言われます」

商人は、涙に暮れつつ、笑った。

「あのとき、丞相様は、わたくしに小刀を渡してくださいまして、こうおっしゃいました。

『わたしは今宵、おまえに三つの贈り物をした。ひとつはこの刀、ふたつめは自由、みっつめは数字だ。よいか、この三つのうち、世のなかでもっとも強いものは、数字なのだ。刀は折れれば用はなさぬし、自由はときに、かえって行く手を阻み、重荷となる。

おまえが今宵のことですっかり懲りて、人生をやり直したいと思うのなら、わたしが与えた、数字という最大の武器をつかって、自らの道を切り拓いていけ。そして、二度と闇に戻るな』と。

あのときの、あの言葉がなければ、わたくしは、ふたたび闇に戻り、どこかで野たれ死んでいたかもしれませぬ。あの御方の言葉は、わたくしにとって、今日まで光のように、行く手を照らしてくださいました」


趙雲は、思わず、ここにはいない孔明の姿を捜し、そして、成都のほうを仰ぎ見た。

おまえは、ほんとうに凄いやつだ。

これで情勢は変わる。

偶然でもなんでもない。

おまえの力が変えたのだ。


「そうか。では、三割引だな」

「はい、三割引で」

そうして、数年を隔てて再会した男たちは、まるで旧知のように、温かい笑みを交し合った。




かくて趙雲は軍をととのえ、永安にまで兵を進めたが、そのときには、すでに呉の軍勢は撤退をしたあとであった。

しかしもし、趙雲の軍に物資が不足しており、士気も上がらぬ状態であったなら、そして、それを呉につけこまれていたら、その後の歴史も、大きく変わっていたかもしれない。



ここまでご読了ありがとうございました。

「奇想三国志 英華伝 序」、いったんこれにて終幕です。

このつづきは「奇想三国志 英華伝 一部 臥龍的陣」となります。

よろしかったら、どうぞごらんくださいませ。

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