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奇想三国志 英華伝 短編集  作者: 牧知花
ねずみの算数
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第3話 ねずみの算数 その4


夜明けぎりぎりに、発注書は仕上がった。

「よし! これで三割引きはわたしのものだ!」

孔明は喜んで書簡をまとめる。

刺客に仲間がいて、捕縛された仲間を取り戻そうと襲ってくるといけないので、柱に縛って放置しておこうとした趙雲だったが、ぎょっとしたことに、刺客がしくしくと泣き始めた。

「俺の一生はここで終わりか。みなにいじめられ、縊られてしまうにちがいない。思えば、生れ落ちたときより、いじめられっぱなしのひどい一生であった。

この仕事だって、本当は受けたくなかったのだ。諸葛亮を説得し、できなければ殺せ、と言われたが、口下手のおれに説得なんかできるわけがない。やけになって襲ったらこのざまさ。でも仕事を受けていなければ、仲間たちにひどい目に遭わされていただろうよ。俺だってわかっているのさ。要領がわるいし、刺客にはまるで向いておらぬとな。努力はしたよ。人一倍の努力を。

だが、人には、向き不向きというものがあるということに、気づくのが遅すぎた。そう、俺は捨て駒にされたのさ」

「よく喋るやつだな。同情を引こうとしても無駄だ。貴様を殺すと最初に言ったはずだぞ」

「分かっているとも。刺客というものは、そういうものさ」

刺客は唇をゆがめて、卑屈な笑みを浮かべて見せる。


趙雲はだんだんと苛立ってきた。

こいつ、小芝居がうますぎる。

「子龍、すくなくとも、この者のお陰で書類は揃ったのだ。情状酌量の余地はあるぞ」

「寝不足で冷静さを欠いているようだな。こいつがおまえの命を狙ったことを忘れたのか?」

「忘れてはいないよ。でも、そんなに悪いばっかりの男でもなさそうな」

「甘い!」

つい語気が荒くなる。

孔明は軽く眉をひそめて、いつもそうするように、小首をかしげた。

「寝不足なのは、あなたも同様だな。この者の処断は、ゆっくり休んでから決めることだ。それより、商人の常宿へいくぞ。そろそろ夜が明ける」

「うむ…こいつはどうする?」


はらはらと涙をながし、ときに大きく鼻をすする刺客に、趙雲はうんざりした目線を向ける。

それというのも、孔明が、すっかり慈愛をたたえた視線で刺客を見下ろしていたからだ。

どうやら、ほぼ一晩、ともに書類を作成したことで、情がわいたらしい。


わが君もお人よしであるが、こいつは輪をかけてお人よしだ。

わが君の場合は、裏切られてもよし、という覚悟があってこそのお人よし。

だからこそ人々に慕われるのだが、こいつの場合は、単に世間知らずゆえの、お人よしではないか。


「ここでは、たしかにさらし者になるばかりだ。わたしの私室に縛っておこう」

やはりというか、なんというか。

趙雲は嘆息しつつ、孔明の言うとおりに、刺客をぐるぐるに縛って、孔明の私室に放り投げておいた。

孔明が立ち去り際に、刺客の側にかがんで、なにかをつぶやいていたが、趙雲は、あえてそれを聞かないでおいた。

知らなければ、苛立つこともあるまい。




「ほんとうに発注書をおひとりで仕上げてしまわれるとは」

商人たちはそう言って、目をまんまるにして驚いていた。

孔明は得意満面。

「感服いたしました、三割引きで品物を売らせていただきます」

と商人たちは深々と頭を下げる。

なにもかも、めでたしめでたし、と思ったが、まだつづきがあった。


城に帰ると、張飛が仁王立ちになって待っていた。

なぜだか、後ろには関羽まで控えている。

かれらは一様にこわばった顔をしていた。

なにか文句を言ってくるつもりなのかなと、趙雲はかまえた。

趙雲も孔明も寝不足で、頭が冷静にはたらかない。

この状態で言い争いは避けたいなと思っていると、関羽が、張飛小突くようにして、一歩、前に出させた。

と、同時に、張飛の影にかくれて見えなかった、ちいさな女人もおずおずと前に進み出る。

夏侯夫人であった。

趙雲は、このあどけない風貌をした夫人を見るたびに、いったい家で張飛とどんなふうに過ごしているのだろうと考えてしまう。

それほどに、大人と子供といっていいほど年の離れた、似合わない夫婦だった。

仲は良いそうなのだが。


夏侯夫人と張飛は、それぞれ思い詰めた目をして、孔明をじっと見た。

あまりにふたりが黙っているので、孔明も緊張した顔をしている。

ほどなく、沈黙に耐えかねた関羽が、張飛のあたまを小突いた。

「これ、はっきり言わんか」

「わ、わかっているよ」

そして、夫婦は顔を見合わせてから、うん、と了解したようにうなずく。

つづいて、仲良くそろって勢いよく頭を下げてきた。

「ごめんなさい!」

「すまなかった!」

なんだ、なんだ。

うろたえていると、謝る夫婦の背後に山のように控えている関羽が言った。

「城の物資を三割で手に入れられるというめったにない機会をつぶそうとした、この馬鹿な義弟夫婦を許してやってくれ。たっぷり叱っておいたからな」


そういうことかと、趙雲は安堵した。

となりの孔明は驚きつつも、うれしそうである。

「頭をお上げください、お二人とも。もう無事に品物は手に入れられたのですから」

「際どいところだったがな」

趙雲がちくりと言うと、張飛も夏侯夫人も、ますます気まずそうな顔をした。

か細い声で、夏侯夫人が言い訳をする。

「ごめんなさい、ちょっとしたいたずらのつもりで商人たちに知恵をつけてしまって」

しどろもどろの妻のことばにかぶせるように、張飛がしおれた様子で言う。

「軍師、俺が悪いのだ。俺がこいつに、あることないこと言いふらしたものだから、素直なこいつがすべて真に受けてしまって…ちょっとしたいじわるをしてやれと思ったらしい。すまぬ!」

張飛はまた頭を下げた。

うしろでは、関羽がそれでよいというふうに、うんうんとうなずいている。


「謝ってくださって、うれしいですよ」

意外なことばを孔明はつむぐ。

おどろきに目を丸くしている張飛とその妻と関羽が孔明を見る。

すると、孔明の顔には、いつにもまして魅力ある温雅な笑みが浮かんでいた。

「済んだことですから、もう水に流しましょう。二度とこういうことをしないと約束してくださるなら、それでわたしは十分です」

そのことばに引き寄せられるように、夏侯夫人がうなずいた。

「しない、しないわ。約束します。ほんとうにごめんなさい。許してくださるのね?」

「もちろんです」

「俺も、いままでの態度を謝るよ。すまなかった、軍師。これからはこころを入れ替える」

「ありがとうございます。わたしより年上のあなたが頭を下げてくださるとは。そう決意するのに勇気が要ったでしょう。その心遣いがなによりうれしいです」

そう言って、あざなのとおり、はなはだ明るい笑みを見せる孔明に、夏侯夫人と張飛の頬が、ぽっと染まったのを趙雲は見逃さなかった。

ひとたらし。

そんな言葉が趙雲の脳裏をさらっとよぎった。


気恥ずかしい雰囲気の漂うなか、張飛はぎこちないながらも、ようやく孔明に打ち解けて話をするようになった。

ながいあいだ孔明を無視してきた男と、その男の言葉を真に受けて嫌っていた、少女のような妻。

それがいま、打って変わって、孔明に心服している。

わが君も大きな度量の持ち主だが、こいつも大したものだ、つがいの虎を手なずけてしまった、と趙雲は感心した。




孔明の私室に帰ってくると、放り投げておいたはずの刺客は、縄を切って、姿を消していた。

小刀でみずから縄を切って、逃げ出したらしい。

しかし趙雲は、刺客を縛り上げたとき、ほかに武器となるようなものをもっていないか、くまなく調べていおていた。

見落としをしたとは思えない。

やはり、と思いつつ孔明を見ると、孔明も無言のうちに察したのか、

「幽霊だから、ドロンと消えた」

と、児戯めいたいいわけをした。


あとで刺客が倍返しをするために、戻ってきたらどうするつもりなのだろう。

趙雲が嘆息すると、孔明はなにがおもしろいのか、声をたてて、明るく笑った。

その子供のような笑顔を見ていたら、どうでもよくなってきた。

あとのことは、あとで考えよう。


つづく

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