第3話 ねずみの算数 その3
それをどんな剣舞であったか、形容するのはむずかしい。
孔明が一生懸命なのはわかったので、趙雲は、笑わずにいたが、笑いをこらえるために、ひざをきつくつねらなければならないほどだった。
あえて形容するならば、字を習いたての子供が懸命に清書した文字を、名人が見たら、こんなふうに面白く思うのかな、という感じである。
ずっと座っていたために、体がよく動かない、ということもあるだろう。
だが、孔明の動きは、油の差されていない歯車のようにぎくしゃくとしていた。
つぎに何をしたらよいのか、わからないで、おっかなびっくりとしている新兵のようにも見える。
「努力はみとめる」
「それはどうもありがとう。しばらく手に持っていなかったから、どう扱うのか忘れてしまったのだ」
ほんのすこし体を動かしただけで、息を切らせつつ、孔明は言い訳をした。
剣の腕云々よりも、まずは体力づくりをしたほうがよさそうだ。
「しかし子龍、いまあなたは得物をなにも持っていない。ここで、刺客に襲われたら大変だな」
「妙なことを言うな。本当に刺客があらわれたらどうする」
かたり。
なにかが天井で動いている気配がある。
ネズミか?
ぞくりと、首筋に冷たい刃を押し当てられたような感覚をおぼえた。
趙雲は、おのれの楽観的にすぎる考えを跳ね飛ばした。
二度とこいつと、刺客の話なんかしない。
「軍師、剣を!」
ここで張飛なり、副将の陳到なりならば、趙雲の声に即座に反応し、剣を投げてよこす。
しかし、孔明では、趙雲の反応に体が追いついていかない。
剣を抱えたまま、呆然としている。
間に合わない。
うろたえていると、天井より黒い影が舞い降りてきた。
黒い影は床に着地するなり、床を蹴って、まっすぐと、孔明の首を狙ってくる。
こいつは天井に潜み、ずっとこちらを観察していた。
そして、趙雲がいなくなるか、あるいは武器を手放すのを待っていたのだ。
「くそっ!」
悪態をつきつつ、趙雲は近くの文官の机から、硯を掴む。
そして思うさま、刺客に投げつけた。
みごとにそれは、ごつり、と刺客の頭部に当たった。
そのおかげで、刺客の、孔明を狙う刃の切っ先がにぶる。
その隙に、趙雲は手を伸ばし、孔明をおのれのふところに抱え込むようにする。
刺客の刃は、ぎりぎり孔明の身をかすめ、空を突いた。
だが、刺客はあきらめなかった。
ふたたび態勢を整えるや否や、すぐさま孔明と趙雲に向きなおる。
ちょうど、孔明を抱える趙雲と、態勢を整えた刺客が対面する格好となった。
ふところのなかの孔明は、突然の襲撃にうろたえ、完全に強ばってしまっている。
さらに悪いことに、剣を離そうとしない。
仕方がない。
「軍師、逃げるなよ!」
そう叫ぶと、趙雲は、剣をかたく掴んだままの孔明の両手のうえから、更に補強するように己の手を重ね、襲い掛かってくる刃を、渾身の力で跳ねのけた。
刺客が力に圧倒され、背中から倒れる。
同時に、孔明の力がゆるんだ。
趙雲は、剣を孔明から奪うようにして取ると、亀のように仰向けになってもがいている刺客の手首を打った。
からん、と音がして、刺客の武器が床に落ちる。
さらに、倒れた刺客の首筋ぎりぎりに、おのれの剣の刃をつきたてた。
「ここは戦場ではないからな。貴様の薄汚い血は、ここでは流させぬ」
頭巾で顔を隠した刺客が、低くうめいた。
頭巾を剥ぎ取ると、目つきの鋭い、それ以外には、これといって特徴のない風貌があらわれた。
さて、どうするか。
まだ暴れ足りない様子の刺客である。
こいつの四肢の骨すべてを折り、動きを封じてから牢へ閉じ込めるべきか?
とはいえ、甘ったるいことは言いたくないが、その蛮行ともいうべき行為を、孔明の前でするのはためらわれた。
決裁をあおごうと振り返ると、孔明は、利き腕をさすって、痛みに顔をしかめている。
「どうした?」
「さっきので捻った」
「…すまん」
相手が、精神的には打たれ強いが、肉体的には打たれ弱い、やわな青年だ、ということを忘れていた。
「どれくらい痛む? 字は書けるのか?」
「たぶん」
といいつつ孔明は腕をまくる。
すでに腕は、ひねられた反動で腫れつつあった。
これでは文字を書くのは無理だ。
趙雲が顔を蒼くしているのを見て、孔明は、それでも笑みをうかべてみせる。
「謝るのはこちらのほうだ。すまないな、子龍。やはり剣くらい、使えるようにしておかねばいかんな」
むしろおまえが悪いと責任転嫁されたほうが、趙雲は気が楽だったろう。
趙雲は、ふたたび仰向けになっている刺客に振り向くと、手にしていた剣を振りかざした。
ざくり。
一瞬ののちに、ぱらぱらと、刃によって切られた刺客の髪の毛が、束になって崩れた。
刺客は、あまりのことに目を見張っている。
おそらく、ひとおもいに、首を刎ねられたほうが、よほどましだと思ったにちがいない。
髪を切られることは、罪人の証し。
死罪に次ぐ、重い罪、そして死罪にも増して、恥辱を味わう罰なのだ。
「殺せばよかろう!」
そう叫ぶ刺客に、趙雲は冷淡に言い返した。
「あとでな。しかし貴様には、まだ用がある」
「貴様らにしゃべる情報など、なにもないぞ!」
「しゃべらずともわかっておる、どうせ曹操の刺客であろう」
「な、何を言う。だいたい、曹公を呼び捨てにするなっ」
莫迦な刺客である。
「俺が貴様に用があるのは、その口ではない。手だ」
「手?」
趙雲は、息を詰めて様子を見守っている、背後の孔明にたずねた。
「軍師、発注書はどこまで終わっている?」
「あとは、数字を書き入れればよいだけだ」
趙雲はふたたび刺客に向き直り、剣の切っ先を、その咽喉元に突きつけるようにして、言った。
「俺は貴様をかならず殺す。いや、もう死んだも同然の幽霊だ。軍師、条件には、幽霊に手伝ってもらってはいけない、というものはなかったろうな?」
「普通は、そんな条件はつけないよ」
「よし、貴様も、さきほどから俺たちの様子を探っていたのなら、事情はわかっているはずだ。貴様には、筆をもてなくなった軍師の代わりに、数字を書いてもらう!」
「そんな無体な!」
わめく刺客の咽喉を、趙雲は切っ先で軽くつついた。
それこそすぐに殺されるのであれば、刺客もこれほど不様にわめかなかっただろう。
だが、髪を切られたあげくに妙な条件を突きつけられたので、すっかり冷静さをうしなっている。
「やめてくれ! 本当に無理なのだ! 俺は、文字が書けぬ!」
「やかましい! 一や二ならば、線を横に引っ張るだけであろうが!」
「ええ! 数字って、そうなのか!」
刺客は、衝撃に目を見開いている。
背後では孔明が、
「この者は、どこから来たのだろうな?」
とあきれている。
庶民に文盲は多いし、彼らを莫迦にするつもりもない。
むしろ、中流より少々上の階級の出である孔明や、趙雲のように文字に明るい人間のほうが少ないのだ。
しかし数字は生活に密着した大切なもの。
学のない人間でも、簡単な数字の書き方、読み方くらいは、知っているものである。
同情を引くための芝居かもしれぬ。
ともかく、夜明けまでに発注書を仕上げねばならぬのだ。
芝居をしているのならば、騙されたフリをして、ともかく目的を果たす。
あとの処理は、あとで判断しよう。
趙雲はこころを決めると、刺客を起き上がらせた。
そして、刃で威嚇しながら、腕を痛めた孔明の変わりに、刺客に筆を持たせて、数字を書き入れさせた。
数字をかけない、といった刺客の言葉は、本当だった。
筆の握り方もわからず、ぎこちなく、一や二を綴っていく。
さらにいちいち、
「これが一! ほお、これが四か!」
と驚くので、たまに小突いて、黙らせる必要すらあった。
つづく