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奇想三国志 英華伝 短編集  作者: 牧知花
ねずみの算数
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第3話 ねずみの算数 その1

趙雲が、ふと、視線に気づいて顔を上げると、それまでもくもくと筆を動かしていた孔明が、机の上でほお杖をついて、じいっ、とこちらを見ているのに気が付いた。

ぴたりと閉ざした雨戸の向こうから、かすかに虫の声が聞こえてくる。

新野城のひとびとは、みなほとんど寝静まっていた。

起きている者は宿直くらいなもので、たまに厠に立つ者でも、物音を立てることをはばかって、抜き足差し足で移動しているほどだ。

たまに、遠くから、小さな物音が聞こえてくるのは、人がいなくなった空間で、自由をたのしむネズミだろう。


淡い明かりに、にじむようにうかぶ孔明の姿を見返し、趙雲はみずからも手を止めた。

「なにを見ている」

「いや、飽きないのかな、と」

飽きたのはおそらく、自分のほうなのだろう。

やれやれと思いつつ、趙雲は、手にしていた剣を見下ろした。

片手には、刀身を磨くための、獣脂を塗った布を持ち、もう片方で、剣を押さええている。

趙雲は、胡坐をかいた姿勢で、剣を抱えるようにして、手入れをしていた。

「飽きないが?」

「わたしは武人ではないから、詳しくはわからないのだが、やはり、武器の手入れをすればするほど、なんというのだろうな、武器が応えてくれて、敵を倒すことが容易になるのかな」

殺す、という言葉を避けたなと思いつつ、趙雲は答えた。

「武器はおのれの体の延長のようなものだ。ただし、血肉とちがって、すぐさま衰えが分かる、というものではないから、こまめな手入れが必要となる。それに、ちゃんと手入れをしたという自信があれば、いざというときに焦らずにすむだろう」

なるほどと、孔明は納得している。


「ところで、書類はいつ仕上がる」

急かされたと思ったのか、孔明は不機嫌そうに眉をしかめた。

「わたしに付き合うことはない、帰っていいのだぞ」

「一人で残して行くわけにはいかぬ」

「ふむ、ならば、別室で休んでおればよかろう。なにかあったら呼ぶ」

それもいいかと一瞬思ったが、すぐに趙雲は、楽なほうに流れようとする、おのれを戒めた。


劉備の采配で、諸葛孔明の主騎となってから、はや数ヶ月が過ぎ、だんだんとこの青年の、良いところと悪いところがわかってきた。

この青年、行動力はあるものの、口ほどにもなく、とろい。

本人は機敏なつもりらしいが。


「一流の刺客ならば、おまえにひと言もしゃべらせることなく、命を奪うことができるぞ」

「そういうものか。なれば、子龍、眠くなったら、そこで眠ればよい」

「隣で仕事をしている人間がいるのに、俺ばかりが寝てはおられぬ」

「では、仕方ない。起きているのだな」

「そうだ。だから起きて、ここにいる。そういうわけで、早く手を動かせ」

孔明は秀麗な顔を不機嫌にゆがませて、しぶしぶ、というふうに机に向かいなおした。




そも、たった一人で真夜中に書類を書くはめになったのには、わけがある。

孔明は、曹操の南下の動きへの対策として、食糧そのほかを、城に一気に仕入れようとした。

だが、そんな孔明の足元をみて、仕入れの商人が、

「明日までに、すべての発注書を書いていただけるならば、三割で売ってさしあげてもようがす。書いていただけないようでしたら、このお話はなかったことに」

と、言ってきた。

しかも、商人がそう言ってきたのは、陽もとっぷり落ちたころ。


ところが、日ごろの疲れがわざわいしてか、孔明の集中力は途切れがち。

急がねばとわかっているのに、遅々として筆がすすまない。

それなりに学問を修めている趙雲は、簡単な事務ならば手伝える自信があったので、そう申し出た。

しかし、誇り高い軍師は、

「よい、これは商人たちからの、この私に対する挑戦ぞ。一騎打ちに助太刀は無用」

とかなんとか言って、断ってきた。


そうしてどんどん時間が経ち…いまはどれくらいなのだろう。

孔明は、背中にのしかかるような疲れを払う呪文を唱えているつもりなのか、

「三割、三割」

とつぶやきながら、まるで吹雪のさなかにけんめいに登山をする人のように、必死になって文字を書面に綴っていく。

その仕事ぶりを見ていて、趙雲は、つくづくこいつは、出来すぎるな、と感心した。


孔明への風当たりは、武人を中心にいまだにつよいものがある。

しかも文官たちの中にも、いまだに孔明のやりように反発しているものがいるようだ。

いまの孔明のこころのなかには、野心があるのだ。

数人がかりでする仕事を、たった一人で、しかも一晩でこなしてみせたならば、かれららを心服させることができよう、という野心だ。

こいつなりに、よくやっているほうだ、と同情する一方で、弱い面を見せることも愛嬌だろうに、とも趙雲は思う。


趙雲は、新野では兵舎の一角に部屋をもらい、そこを改造して住まいにして、寝起きをしていた。

だから、徹夜しようがなんだろうが、だれに気を遣うこともない。

孔明が帰れとうるさく言わないのも、趙雲がほかの者と比べて、自由だとわかっているからだろう。

たがいに独り身で、待つものもない身。

虚しさもないわけではないが、いまはともかく仕事だ。


つづく

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