第1話 陳叔至と臥龍先生の手記 その1
「奇想三国志 英華伝」は、蜀漢中心の三国志。
「英華」とは「すぐれた才能や名誉」をあらわします。
ここでは、主に趙雲と孔明の活躍を描いていきます。
シリーズものとして、長くつづけてまいりますので、ご愛顧いただけると幸いです♪
☆ この作品群は、gooブログ「はさみの世界・出張版」にて掲載していたシリーズを土台にしています。
☆ 個人サイト「牧知花のホームページ」および「カクヨム」でも一部掲載しています。
参考文献・1 正史三国志 陳寿
参考文献・2 中国の歴史 陳舜臣
今日も今日とて、腹が立って仕方ない。
陳到、字を叔至は趙雲の副将であった。
泰然としている同じ年の上役とはちがって、陳到は出世嫌い。
ふだんは凡庸な男を演じているややこしい男である。
趙雲と武芸の才能は同等であるのだが。
陳到には、どうしてあんなに趙雲が、隆中からやってきた臥竜先生こと諸葛孔明の無礼な態度に平然としていられるのかがわからない。
趙雲からすれば、孔明のような若造の存在は、このごろ増えた蚊と変わりのないものなのかもしれないが、それにしても孔明の態度はひどすぎるように感じられた。
蚊のほうが、まだかわいい。
なにせ、孔明は趙雲に対してだけは横柄な態度をとる。
五つも年上の先輩。
しかも、陳到が同じ年ながら敬愛する趙雲に対し、ため口!
麋竺や簡雍や孫乾といった面々には礼を尽くして敬語をつかっているのに、なぜわが将軍のみにはため口なのだろう。
そう思うとイライラしてきてしまい、晩酌も苦くすら感じられる。
あまりに陳到がイライラしているものだから、幼い娘も近づかず、かれの賢き妻もあきれ顔。
とつぜんに腹を立てているわけではなく、このところ毎日腹を立てっぱなしなのだから、家族はだれもうんざりしていて、なだめてくれないのである。
そして、今日も今日とて腹を立てつつ酒をちびちび飲んでいると、妻が言った。
「いい加減になさいまし。いつまでそうカリカリしつづけるつもりなのです」
「あの軍師が態度をあらためるまでだ」
「聞いた話ですと、お殿様が見込まれただけあって、すばらしく仕事が早いお方だそうですわね」
「たしかに早いわい」
「しかも早いばかりではなく正確で的確だとか。ならば、喜びなさいまし。あなたがたの仕事も楽になるでしょう」
「でも、趙将軍への態度はゆるせぬっ」
食卓を拳でどん、と叩く陳到。
目じりには涙が浮かんでいるが、これは単にかれが泣き上戸の傾向があるためだ。
「なにゆえ、ため口を許されているのか」
「ご本人は気にしておられないのでしょう」
「気にしておられるに決まっておる。あの方は我慢強い方だから、じっと耐えておられるのだ」
「軍師さまの主騎だから?」
「主騎にならざるをえなかったので、耐えておられるのだよ」
「そう決めたのはお殿様なのでしょう」
「わが君の命令には、将軍も逆らえぬからな。おかわいそうな趙将軍。まるで犬っころを呼ぶように、あの軍師が趙将軍を『子龍、子龍』と呼び捨てにするだけで」
「だけで?」
「鳥肌が立つわい!」
「嫉妬ですわね」
「何を言い出した」
「いえ。なんでもありません。それよりも郎君、このグズグズはいつまでつづくのですか」
「グズグズと申すか」
「グズグズじゃありませんか。郎君がどれほどここで文句を言おうと、人様は変えられませんわ。たしかに腹が立つでしょうけれど、しばらく様子を見てはいかがです。軍師さまは田舎から出てきたばかりで、新野の雰囲気がまだよくわかっておられないのかもしれない。そのうち、趙将軍がどれほど立派な方かわかれば、態度をあらためられるかもしれません」
「それまで待てというか」
ならば、それまでこの悔しい気持ちはどこへもっていけば、と言う前に、以心伝心、妻は陳到の前に、鉄筆と竹簡を持ってきた。
「愚痴ならば、これに書いておさめなさい。気分が晴れますわよ」
「書くのは慣れておらぬ。面倒だ」
「まったく、ああ言えばこう言うわね。だまされたと思って、書いて腹をおさめてみなさいな。それでも腹が立ち続けるのなら、仕方ありませんけれど」
陳到は、なおも反駁しようとしたが、妻の怖い顔を前に、引っ込んだ。
「やるだけやってみるわい」
「それでよろしい。さあ、そうと決まったら、もう子供の前で、酒を飲んでは愚痴ばかり、というのはやめてくださいよ。ほんとうに、教育に悪いったら」
妻はぶちぶち言いながら、陳到が飲み干した盃と酒瓶を食卓から引き揚げてしまった。
あとに残された鉄筆と竹簡。
陳到はしぶしぶ、鉄筆を握り、文字をつづりはじめた。
趙子龍の副将・陳到(叔至)、記す
隆中から軍師としてわが君が連れてこられた諸葛孔明というお方は、名前もきらきらとして変わっているが、御面相もたいそう変わっておる。
どういうふうに変わっているか。
美麗すぎるのだ。
美麗といっても、うちの女房もたいしたものだが(自分でそう書くのはおかしいかなあ)、あの軍師の持つ美しさというのは、女人の美しさとはまた別の種類の、なかなかほかでお目にかかれない類のものだ。
ひとくちに美しい、といっても、いろいろある。
たとえば、身体の線が美しいとか。
内面からにじみ出る表情の豊かさゆえに、平凡な顔立ちでも美しく見えるとか。
もともと目鼻立ちが整っていて美しいとか。
ともかくいろいろあるのだと思うが、この青年の場合、顔も秀麗、背格好もすらりとして清雅、双眸の輝きは星のよう。
しかも、ほんとうに神仙のごとく霞でも食べているのではなかろうか、と疑わせるほどに生活臭がないため、神秘的な雰囲気すら漂わせているときた。
まあ、口から出る言葉は辛辣きわまりなく、やたら現実的で、がっかりするほどなのだが、外見は美麗であることにはまちがいない。
これほど美麗であれば、さぞかし城の女どもが黙っておらぬであろうな、と思えば、そうでもない。
城の女たちに聞いてみた。
ところが、だ。
「あれだけ綺麗だと近づきがたい」
「私たちなぞ、相手にすらしてくださらないでしょう。手ひどいことばで追い返されそう」
「高嶺の花ですわ。へたに近寄ったら叱られそうで怖い」
「神経質そう」
などなど、人気の点では、いまひとつのようだ。
怖いというのは誤解で、むやみに人を叱るようなことはないそうなのだが。
将兵たちからも、軍師に対しての本音を引き出してみた。
もちろん、ウチから持ってきた、わが賢き妻手製の餅(わが賢き妻は『噂話を釣るエサ』と露骨に呼んでおるが)を振る舞いつつ、だ。
すると、将兵たちからの、あたらしい軍師についての評判は、やはり、いまひとつ。
「顔が綺麗なのがなんの役に立つ。役者にでもなっておれ」
というのが大方のもの。
そのなかで、とくにおどろいたのが、
「世には断袖の者も多いようだが、あれは相手にされまいよ。女のようでありすぎるからな」
という声だ。
さまざまな声のなかでも、これは意外な意見であった(気の毒であるから情報提供者の名は伏せておく)。
わたしはそいつに、さらに餅をやって、くわしく聞き出してみた。
そいつは、すっかり気を良くして、ぺらぺらしゃべってくれた。
「よいか、断袖の者に人気があるのは、単に女のように線の細い者ではない。あくまで『男らしさ』がそこになければならぬのだ。『男としての美しさのある者』。これが、一番人気がある。あの軍師のように、『男だか女だか、わけがわからん』というのはダメだ。イマイチだ。あれなら女と代わらぬ。面白味がない。あれとお前となら、お前のほうが、人気があるだろうよ」
わたしはあわてて逃げ出そうとしたが、件の情報提供者は、けらけらと人の悪い笑顔を見せて、言った。
「すまぬ、すまぬ、冗談ぞ。そうさな、断袖の者のもっとも好む男といったら、趙子龍どのであろう。あれはよいな。肉付きの素晴らしさ、凛々しい風貌、男らしい重々しい口調に低音のよく響く声、大将然とした落ち着き。ああいう男らしい男こそが『もてる』。軍師が、まだ十四前後の稚児というのであれば、また特殊な趣味の連中にもてはやされようが、あいにくと年が行き過ぎておる。だから、『ダメ』」
なるほど。
軍師は、ほうぼうで、ダメ出しをされているようだ。
それにしても、趙将軍が、それほど断袖の者たちに人気があるとは知らなんだ。
趙将軍の貞操をお守りするために、副将たるこの陳叔至、一肌脱いだほうがよいだろうか。
いやいや。
一肌脱ぐ、に、よこしまな意味はないぞ。
わたしには愛する女房がいるのだからして。
※
翌朝になり、陳到はすっきりした気分で目を覚ました。
じつはこのところ、あんまりグダグダと酒を飲み続けいていたので、朝に二日酔いに襲われることが多かったのだ。
ところが、手記を書いたことで、頭すっきり、気分爽快。
これはすごい。
さすがはわが妻の知恵だ。
陳到はさっそく、率直さをみせて妻に礼を言い、もらった鉄筆と竹簡を職場にも持って行って、続きを書くことにした。
※
趙子龍の副将・陳叔至、記す
どうしたわけか、軍師は、今日はめずらしく兵舎に入り浸っておられる。
そして、ひとりでなにやら、あちこち動き回っているのだ。
視察、ということなのであろうか。
おや、お節介の親父さん(糜竺)がやってきたぞ。
軍師に頼まれたわけでもないのに、兵舎のあちこちを案内をしているようだ。
ここの柱は腐りかけている、とか、床に穴が開いている、とか、最近の大がかりな徴兵により、兵舎の卓が足りないので、食事の順番待ちで、兵卒たちの不満が高まっている、とか。
軍師は、それをひとつひとつ聞いて(しかしお節介親父の報告を記帳しているのは、孫乾どのなのであるが)うなずいて、立ち止まって兵卒たちの談笑に耳をかたむけたり、武器の手入れの仕方をじっと見学したり、馬の調練を小一時間にわたり見つめていたり、あるいはなにをするでもなく、てきとうに座って、じっと人の流れを見たりしている。
しまいには、兵舎の食堂へやってきて、兵卒たちと一緒に配給の列にならび、同じ卓上で、すいとんをすすりはじめた。
あれはなんだ、遊んでおるのか、そうなのか?
つづく